AWC 源氏の君のものがたり・桐壺(下)


        
#104/598 ●長編    *** コメント #103 ***
★タイトル (ICK     )  02/10/04  14:00  (318)
源氏の君のものがたり・桐壺(下)
★内容
 桐壺の更衣は一言も私に恨み言を言わなかった。しかし様々な嫌がらせを私の目の届
かぬところで受けているのだろう、そのやつれた顔を見れば、彼女の心労がありありと
浮かんでいた。
 朝議では右大臣が憮然とした表情でいることが多かった。娘を蔑ろにされて、父とし
ては面白くないのだろう。それは当然のことだけれども、あの弘徽殿の女御を私が愛す
べき理由がどこにあるというのか。世人は私の振舞いに驕慢を見るだろうが、自分の娘
だから私が寵愛するのは当然だという右大臣の思い込みは驕慢ではないのだろうか。
 父院は仙洞御所に私を呼び出して、桐壺の更衣とのことを難詰した。
「右大臣は朝廷の要、その娘たる者をそう蔑ろにすべきものではない。まして弘徽殿の
女御はおまえの長男を生んだ人ではないか。いずれは春宮の母となり、国母ともなろう
とする人をそうそう粗略にしていい筈がない」
「春宮位にあるのは末の宮。末の宮の子孫が帝位を継ぐかもしれません。先々帝にも親
王がおられる。血筋から言えばあちらが帝位を継がれても不思議はありますまい。弘徽
殿の女御は確かに一の宮の母ではありますが、それだけで一の宮が将来の帝になり、弘
徽殿の女御が国母になるというのはいささかお気が早いのではありますまいか」
 とうとうと述べた私の口ぶりが父は気に入らなかったようで、鼻白んだ感じでフンと
言った。
「おまえは息子に帝位を継がせぬつもりか」
「帝位など、一族のうち最も相応しい者がその任につけば良いのです。天下は天下の天
下であるからして、ひとりの天下ではありません。その任に相応しからざる者が社稷を
継げば、本人にとって不幸であるばかりか天下の災いとなるでしょう」
 私がそのいい例だ、と挑むようにして私は父の視線をじっと受け止めた。私は自ら望
んで帝となったのではない。すべては父の思惑と野心から出たことだ。その父が、私の
行状を帝に相応しからぬ者として非難する。だが、元を正せばそのような不届き者を帝
位に据えたのは父ではなかったのか。
 その意が分かったのか分からぬのか、ともかく父は私とそれ以上、言い争うつもりは
なかったようで、さりげなく視線をそらした。
「まあ、おまえにも言い分はあろう。だが恐ろしいのは世人の噂。唐土にも楊貴妃を寵
愛したばかりに安史の乱を招いた玄宗皇帝の例もある。右大臣を追い詰めて、本朝の安
録山としてはいかがする」
 玄宗皇帝は唐朝の全盛を築いた皇帝ながら、晩年、楊貴妃を愛し、その一族のみを抜
擢したがために周囲の反感をかって安録山らが反乱を起こす契機を与えた。それによっ
て唐朝の衰微は決定的になったと言う。
 なるほど、身分の低い女性を狂うほどに愛するという点では私と玄宗皇帝は似通って
いる。しかし、桐壺の更衣は楊貴妃ではない。あの人は一族をひいきして抜擢するよう
な要求はしないし、私も公私のけじめはつけているつもりだ。弘徽殿の女御が元からあ
りもしない寵愛を失ったからといって右大臣が失脚した訳でもないのに、どうして私と
桐壺の更衣が非難がましいことを言われなければならないのか。
「娘可愛さに右大臣が乱を起こすというのならそれこそ不敬の至り。今後の社稷の安寧
を揺るがすことにもなりかねませんのでその時は弓矢で決着をつけるしかありますま
い」
 私は憮然として言い放ったが、聞いている父も憮然として、それ以上は何も言おうと
しなかった。
 私があれだけのことを言ったので、弘徽殿の女御はあれ以後はさすがに表立っては桐
壺の更衣にあそこまでの嫌がらせをすることもなくなったが、それでも細かい嫌味は女
房を通じて頻繁に桐壺の更衣の耳に達するようである。女房も大抵のことは自分の胸の
うちに閉まって黙っていればいいものを、気がきかぬ者ばかりで、あんなことがあっ
た、こんなことを言われたといちいち桐壺の更衣に知らせるものだから、桐壺の更衣も
滅入って、とうとう床に伏してしまった。恨み言ひとつ漏らさぬ気丈な人が、ふと、
「実家に帰りとうございます」と囁くように吐き出す。その一言が今までの胸のつかえ
を栓をしていたかのように、後は涙が溢れて、言葉にならないようだった。
「そんなことは言わないでくれ。あなたがいなくなればこの先、私はどうやって生きて
ゆけばよいのか」
 私は身勝手だ。私が愛すれば愛するほどこの人を追い詰めることが分かっていなが
ら、桐壺の更衣を手放すことが出来ない。そしてこの人を失ってどう生きてゆけばいい
のか。その思いもまた真実だった。
 桐壺の更衣は長く床に伏した。いずれの物の怪がついたかと心配して私は加持祈祷な
どをさせたが、この長の横臥がただの病ではないことがまもなく明らかになった。桐壺
の更衣は懐妊したのだ。
 私は一層、桐壺の更衣をねぎらい、労わり、昼も夜もなく桐壺に日参した。日ごとに
その腹が膨らみ、出産もまじかに迫った頃、右大臣家では腹の子が流れるよう呪詛させ
ているとの噂が私の耳に届いた。おそらく事実であろう。一の宮を擁する右大臣家とし
ては万が一男宮が新たに生まれようものなら一の宮が春宮になれぬかも知れぬ。そうな
れば次代の政権構想が大いに揺らぐことになるのだろう。
 宮を調伏することは違法で、これをしたという理由で今まで多くの公卿たちが失脚し
てきた。それを思えば右大臣家のやりようは呆れるほどに大胆だとも言える。それだけ
自分たちの権力を過信し、どうあっても私如きが右大臣家に手出しを出来ぬと思ってい
るのだろう。何しろあちらは先の帝、私の父の覚えがめでたいと来ている。父と右大
臣、同じ権力亡者同士話も合うのだろう。
 しかし私はどこかで楽観していた。心の底から、魂と魂でむつみあった両親から生ま
れる子がよこしまな調伏などに破れる筈がない、私はそう信じていた。帝とその妃がで
はなく、人と人が愛し合って生まれてくる子だもの、そうしたどす黒い霧を晴らす光を
背負って生まれてくるに違いない。
 出産も間際になるまで私は桐壺の更衣を手放さなかった。しかし神聖なる内裏が不浄
の血で汚されるのは決して許されぬことだったので、やむなく、出産のひと時を里に下
がらせた。人が生まれてくるのに伴う血を不浄と見なす考えはどうにも私は馴染めなか
った。不浄と言うならばこの後宮に蠢く魑魅魍魎の怨念をこそ言うべきではないか。
 そして子が生まれた。私の第二子、そして期待通りの男宮だった。

 右大臣家は二の宮が生まれて、不安が甚だしくなったらしい。世人は一の宮こそ次代
の春宮に擁立されようと半ば断じていたが、それを決めるのは帝たる私である。私は一
の宮を愛してはいたが、右大臣家で養育されている私の長男は私の息子である以前に右
大臣家の一族だった。馴染みのない息子に、私は系図上のつながりしか見出すことが出
来なかった。
 弘徽殿の女御の立場に立てば、何故自分がなおも女御の地位に留め置かれて中宮に擁
立されないのか不可解であろうし、不満であっただろう。彼女が中宮になれば一の宮は
長男であるのみならず正室の子ということになり、次代の春宮となるのはほぼ確実とい
うことになる。
 なのに何故、彼女を私は中宮にしないのか。中宮にすれば、彼女は一層の勢威を得
て、桐壺の更衣に辛く当たるのが確実だったからだ。彼女がいま少したおやかな人柄で
あれば、右大臣は孫の一の宮のことを案じる必要もなかっただろう。
 二の宮を生んで、桐壺の更衣は元から儚げだったのが一層甚だしくなった。その顔を
見慣れた筈の私でさえ、時おりはっとするほどなまめかしく、それがまた哀れだった。
散る間際の桜花のように、今日を限りとして咲き誇っているかのような印象を私に与え
た。皺むくれになってもいい、腰が曲がってもいい、それでも生きていてくれ。その思
いを天が嘲笑うかのように日毎に桐壺の更衣は衰弱してゆくようだった。
 それでも、二の宮が三歳になり、盛大に袴義を執り行う頃まではかろうじて命をつな
いでくれていた。それは床に伏すのが常態になり、生きていると言うよりは死んではい
ないというのに近かったけれども、それでも私は桐壺の更衣の時おりの笑顔を見るのを
よすがにしていた。二の宮の愛らしさは格別だった。皇子は妃の実家で育てるのが通例
だったけれども、桐壺の更衣には父はもういないというのを口実にして、私はこの子を
御所で育てた。二の宮を生んで、桐壺の更衣はもう犯すべからざる宮の母となった訳
で、かつての嫌がらせは嘘のように収まった。しかしそれで人々の思惑が鎮まった訳で
は毛頭なく、手出しが出来なくなっただけ、桐壺の更衣への不快感は増したと言うべき
だろう。
 弘徽殿の女御あたりはどのように感じているのか。以前は桐壺の更衣を不愉快だとい
う程度のことだったろうが、今は二の宮が生まれ、二の宮は一の宮に対する無視しがた
い脅威だと考えているに違いない。
 二の宮は今はただあどけないだけの幼子に過ぎないが、本人の預かり知らぬ大人たち
の陰謀に知らずに巻き込まれている二の宮が哀れで、それだけにいっそういとおしかっ
た。
 二の宮の袴義が終えた頃、桐壺の更衣の病はいよいよ激しくなった。宮中で人が死ぬ
ことは許されていない。桐壺の更衣は万が一のことがあれば幼い二の宮にも障りがある
ことだからとしきりに里下りを欲したが、ここで彼女を手放せば二度と会えぬのではな
いかという思いから私はどうしても云とは言えなかった。そうこうするうちに、故按察
使大納言の未亡人、桐壺の更衣の母などからも娘を里下りさせてくれとの要望が送られ
てくる。やむなく、私は折れて、それを許可した。
 二の宮はそのまま桐壺に留めておくことにした。この子までいなくなれば私が寂し過
ぎるし、出立の途中、また他の妃たちに嫌がらせをされて二の宮にまで危害が及ぶので
はないかと桐壺の更衣が懸念したからである。皇子を産み、御息所と称されるようにな
った彼女に今更どうこう出来る女もいるまいと私は思ったが、純粋だった彼女をかくも
用心深くさせるほど宮中での暮らしは過酷だったのかと思うと、私は桐壺の更衣に心か
ら申し訳なく思った。
 出立の時間が来たが、私は桐壺にあって、最愛の女性をなおも手放しかねていた。
「生きるも死ぬも共にと誓ったのに、あなたは私を置いていってしまわれる」
 言っても詮無い繰言と知っていながら、私はそれを言わずにはいられなかった。言っ
たその言葉が桐壺の更衣の心を傷つけることになるやもと思いながらも、たぎるような
悲しみが胸の奥から溢れてきて、それを紛らわせるために私は言わずにはいられなかっ
た。
 桐壺の更衣は虫の息で絶え絶えになりながら、
「どうか、この子を」
 とだけ言った。
 私は頷きながら、ようやく出立した桐壺の更衣を見送った。これが彼女との別れとな
った。

 どうか、この子を。その先、桐壺の更衣は何を言いたかったのか。どうか、この子を
よろしく頼みます。
 そうだろうか。それだけだろうか。あるいは、と私は思う。
 どうかこの子を帝にしてやって下さい。
 この子を帝に。それは誰よりも桐壺の更衣と二の宮を愛する私も考えないことではな
かった。いや、取り繕っても仕方がないだろう、二の宮を見るたびにそう思ったと言う
べきだ。二の宮の愛らしさ、利発さ、すべてが帝たる地位に相応しいように思える。だ
がしかしそうなれば、一の宮はどうなるのか。
 その考えも嘘だと、私は気づいた。私は一の宮のことなど気にかけていない。一の宮
を払いのけてでも二の宮に帝の地位を譲りたいという思いがそこにはあった。不実な父
と弘徽殿の女御が私をなじるのには相応の根拠があったのだ。弘徽殿の女御には何ら同
情するところがないが、一の宮には父として素直に恥じ入るべきものがあった。
 だが恥じ入ってもなお、一の宮を傷つけてもなお、二の宮に位を譲りたい。そこまで
心のうちを直視して、私ははたと気づいた。この思いは、今まで私が散々軽蔑していた
父や右大臣らの子の栄華を無理やりにでも願う浅はかな思いと何ら変わらぬではない
か、と。
 物狂いの親王と言われた私を、父はなぜが特に気にかけ、異論があったにも関わらず
春宮とし、帝とした。それを私は父の妄執と見て、感謝せぬばかりか軽蔑して来た。そ
れと同じ思いに私もまた囚われている。
 もし桐壺の更衣も同じ思いであるならば、権力だの栄華だのに一切関心が無かった彼
女も子を得て変わったということになる。そのような腹黒い思いを厭い、嫌ってきた私
たちだったのに、二の宮という存在がすべてを変えてしまったのか。
 桐壺の更衣は里下りしたその日の晩、儚くなってしまった。
 予想していたこととは言え、愚かにも私は取り乱し、泣き叫ぶしかなかった。私の想
いがいかに深かったか、私がどれだけ桐壺の更衣を生きるよすがとしていたか、腹黒き
後宮の女たちにせめては見せつけたいという気持ちもあった。あの人は特別だったの
だ。世人がどう言おうと、妃が数多かしづく私にとってあの人のみが唯一の妻だったの
だ。せめてはそれを見せつけておかねば、この悲しみ、いかんともし難かった。
 急報を聞いて出仕してきた左大臣なども見かねて、「余りに嘆きが深ければ故人は道
に迷うと言いますから」などと言って私を慰めようとしたが、私はそれさえも厭わしか
った。もし道に迷って霊となり現れるというのならむしろ出てきて欲しい。魂の傍らを
失って、私はどうやって生きていけばいいのか。いや、生きていく理由があるのか。
 あった。二の宮が滂沱と涙が流れる私の傍らで、不思議そうな顔をして眺めている。
小さな指を伸ばして、私の頬に触れてくるのがたまらなくいとおしい。この子のため
に、生きなければならない。しかるべき後見もないこの子を私が守ってやらなくて誰が
守ってやるのか。
 そう気持ちを奮わせようとするのだが、桐壺の更衣を失った嘆きは余りにも大きかっ
た。私は半年近く、清涼殿の奥に篭り、政事も左右の両大臣と内大臣に委ねて朝議にも
臨席しなかった。後宮の女たちのところに通うこともなくなった。
「生きている時のみならず死んでからも主上を独り占めするとは憎い女ね」
 弘徽殿の女御などはそう言っているらしい。清涼殿に程近い弘徽殿で、毎夜、管弦の
宴などを催すのが憎らしい。私のこの嘆きように、不満の声も出始めていたが、私は世
間に徹底して思い知らしめるためにも、桐壺の更衣との思い出に浸っていたかった。私
とあの人がどれだけ強い絆で結ばれていたか、その間を引き裂こうとした世間がいかに
不遜で残酷であったのか。今こそ思い知れ。
 二の宮は故按察使大納言の未亡人に引き取られた。私は手放したくなかったが、母の
喪中に子が宮中に留まっていてはならぬ、とこればかりは父院を始め、年長の皇族たち
が雁首を揃えて主張したので、それは承諾しなければならなかった。
 ではせめての我儘を聞いて欲しいと言って、私は桐壺の更衣に三位の位を追贈した。
女御たちの位は殿上人にも匹敵する三位であり、更衣はそれよりは大分低い五位が普通
である。それでも生前、私は無理を押して桐壺の更衣に四位を授けていた。この上、三
位に上げれば、亡き人は彼女を卑しい身分と言って苛めた女御どもと同格になる。
 私のこの措置を、父院や朝議は我儘が過ぎると言いながら、私の嘆きが余りにも激し
いのでそれで幾らかでもそれが緩和されるのならばとしぶしぶ認めた。私は内心ほくそ
えんだ。これを私の感傷から来た措置だと彼らは単純に思っているかも知れないが、そ
れだけではなかった。
 亡き人を女御の身分に上げるのはこれは出来なかったが、少なくとも弘徽殿の女御な
どと同格の位に上げることが出来たならば、その子である二の宮は一の宮と同格という
ことになりはしないか。少なくともそう主張することは出来る筈だ。
 右大臣などはこの意図に気づいたのかどうか、二の宮に遅れをとらぬよう、高名な学
者に一の宮の学問を見てくれるよう依頼したということだ。
 ひとたび実家に引き取った二の宮を、故大納言の未亡人は何やかやと理由をつけて宮
中に参内させなかった。母たる桐壺の更衣が宮中にいない以上、二の宮は確かにあちら
で養育するのが世間の筋ではある。しかし遠国にいる訳ではないのだもの、頻繁に宮中
に参らせてしかるべきではないか。あの右大臣家でさえ、一の宮を日がな開けず宮中に
参内させるのだ。その時ばかりは私と弘徽殿の女御は父と母になって、我が子の成長に
目を細めるのだから。私は二の宮に会いたい思いが募り、何度も使者を遣わして、未亡
人に二の宮を伴っての参内を促した。あの人の室もそのためにそのままにしているとい
うのに、未亡人は何やかやと理由をつけて、二の宮を参内させなかった。あの人の母た
る人が、どうしてそんなにまで意地悪をするのか。使者に立った靫負命婦(ゆげいのみょ
うぶ)などには、帝なる私に繰言をしそうでそれが怖いと言ったという。
 結局、何やかやと二の宮が三歳になるまで、あの人は私に二の宮を会わせなかった。
この仕打ちに私は憤った。あの人の母でなければただでは済まさないところである。我
が子はどうなっているだろうと、それを思わない日はなかったが、ようやく二の宮が参
内することになり、二の宮をようやく目にしたその時、私は我が子ながらその余りの愛
らしさに言葉を失った。我が子ゆえに欲目で見たのではない。周囲の者もみっともない
ことながら、思わず感嘆の声を上げたほどだったのである。
 二の宮はすぐに私になつき、「ちちうえ、ちちうえ」などと舌足らずの声で言いなが
ら駆けずり回るのを、これ以上の満足はない思いで、私は眺めた。しかし一方で不吉な
思いも私にはあった。神に見入られたその愛らしさに、同じく美貌の人だった私の最愛
の故人を思った。天帝なり竜王なりが、目をつけては大変だとばかり、私は思わず肩掛
けで二の宮をくるみ、二の宮を誰の目にも触れさせぬようとした。それを二の宮は不思
議な面持ちでじっと見つめるのみだった。
 二の宮と会えなかった長の歳月は辛かったが、今にして思えばそれがかえって良かっ
たのかも知れない。二の宮と会えた喜びの大きさは爆発するばかりで、あの人が逝って
以来ようやく私は常心を取り戻せたようだった。悲しみが癒えることは決してないが、
悲しみを悲しみとしたまま人は新たに日々を重ねてゆくことも出来る。朝議にも臨席
し、妃たちを呼び出す気にもなった私を見て、世間はようやく安堵したようである。
 しかし安堵ならないのは右大臣と弘徽殿の女御で、二の宮を余りに寵愛する私の姿を
見て、次期春宮位を二の宮に奪われるのではないかとしきりに猜疑した。思えば、疑念
がどす黒い思いを生み、それにからめとられた桐壺の更衣は若くして儚くなってしまっ
たのだった。二の宮を今、それと同じ定めにする訳にはいかない。
 二の宮に帝位を譲りたいという気持ちはなおも抜きがたくあったが、それを言っても
詮無いことだった。大袈裟ではなく、あくまで帝位に固執すれば二の宮の命に障りがあ
るかも知れなかった。
 私は一の宮、二の宮を傍らに侍らせ、三公(左大臣、右大臣、内大臣)と私の末の弟
である春宮を御所に呼び寄せた。
「今日集まって貰ったのは他でもない、次の春宮のことである」
 と私が言うと、座に緊張が走ったのが分かった。しかしそれに構わず、私は言葉を続
けた。
「まだ私が玉座にあり、春宮が控えているというのに更にその先のことをとやかく言う
のは不本意だし外聞がいいものではなかろうが、昨今の朝廷のざわめきを思えば、この
あたりではっきりとさせておくのがよかろうと思った。私のみで決めるのは春宮にも、
(春宮の後見である)内大臣にも申し訳ないことだが、結局は誰かが決めねばならぬこ
と、ここはどうか受け入れて欲しい」
 私がそう言うと、春宮は伏して、
「兄上のなさりたいように」
 と言った。その姿は明らかにやつれて、病がちだとは聞いてはいたが、久し振りに会
うと、この人の命がそう長くは無かろうと私には思われた。気の毒なことながら、そう
なれば私の決定は次期春宮ではなく、次期天皇を決めるものになるやも知れぬなと内
心、思った。
「次の春宮には私の長男たる一の宮を充てたい。異存はおありか」
 そう言った瞬間、右大臣の顔がぱっと明るくなった。その隠しもしないあからさまな
喜びようを見て、おまえを喜ばすためにそう決めたのではないぞ、と罵りたくなった
が、堪えた。左大臣は感情を表に出さなかったが、右大臣家の栄達は彼の家の不利益で
あるので、喜ばしく思っていないのは明らかだった。しかし長男を後継者に据えるとい
う決定は、誰も文句のつけようの無いものだったから、黙っているようだった。
「かくなる上は一同、一の宮を守り立ててやって欲しい。それぞれのいきさつも思いも
あろうが、過去は水に流して、その他の宮のこともよろしく頼みたい」
 私は右大臣を見据えながら言った。おまえたちが欲しがっていた次期春宮の地位はく
れてやった。これで二の宮を恨む理由もなくなっただろう。私が言いたかったのはそう
いうことだった。
 一同平伏して、こうして私の息子たちのうち、右大臣の孫である一の宮が皇統を継ぐ
見通しとなった。
 それから数年が過ぎた。
 故大納言の未亡人も世を去り、二の宮は私以外頼るべき者もない孤児となった。異例
のことながら私は二の宮を宮中で育てることにした。本来ならば養育する者があろうと
無かろうと皇子は母方の実家で育てられるべきだが、気のきかぬ女房たちのみがぬかず
くあの二条院へ二の宮を追いやることは出来なかった。まだ、幼い二の宮はつねに私の
横に侍り、内裏であればどこへでもお通り御免が許される特別な存在となった。女御更
衣たちも亡き人への嫉妬はこの愛らしい宮を見れば氷解するようで、二の宮は誰にでも
愛され、大切にされた。
「過去にはいろいろあったが、この子も今となっては母のいない哀れな子です。どうか
可愛がってやってください」
 妃たちにそう頼めば、いずれの妃も貰い泣きし、かくも愛らしい宮をどうして邪険に
出来ようかと言ってくれた。そのような優しい心持があるならば、桐壺の更衣にも何
故、今少しそのように接してくれなかったかという無念はあったが、人それぞれの闇を
抱えて悶えていたのだろうと、今は人並みに苦しみを知った私には分かるので敢えてそ
れは言わなかった。
 一の宮を春宮に内定してからは弘徽殿の女御も少しは落ち着いたようだった。冷静に
なってみれば随分この人にも心労をかけた訳で、その反発のされようはいかにも憎々し
かったが、この人なりの苦悩があったのだと思うと、何もかもが哀れで、今はひたすら
和解して穏やかな気持ちで歩み寄りたかった。弘徽殿にも敢えて私は二の宮を伴う。最
初は嫌がっていた弘徽殿の女御も、二の宮の素直な愛らしさに触れて、一の宮が春宮に
なるのも決まったことだしこれ以上はめくじらをたて、罪の無い子にあたるのは止めよ
うと思ってくれたようだった。
 時々は右大臣家から参内する一の宮と二の宮があどけなく笑いながら、追いかけっこ
などをして遊ぶのを私と弘徽殿の女御は目を細めて微笑みあう。こんな日が来ようとは
かくも激しい日々には思いもつかないことだった。弘徽殿の女御はその後二度懐妊し
て、女宮をふたり生んでいた。それですべてが丸く収まるのならばこのうえは何も言う
ことはなかった。
 ただ、右大臣家の不安は執拗だった。弘徽殿の女御もかろうじて理性で抑制してはい
たが、二の宮の愛らしさに直接触れれば厭わしい思いは氷解するものの、いなくなれば
また不安が募るようだった。
 というのは二の宮が容姿のみならず何をやらせても余りにも優れていて、帝の子に生
まれずとも土塊の中から拾い上げられてさえ必ず栄達の道を進んだであろうと思わせた
ほどの神童だったからである。対して、一の宮は出来が悪いと言うのではないが凡庸
で、二の宮と比較すれば明らかに見劣りがした。それは母の欲目から見ても歴然たるも
のだったようで、まして世人のせわしない噂は、二の宮の神童ぶりを称えるものばかり
だったから、弘徽殿の女御としても胸をいためずにはいられなかった訳である。
 一の宮は帝になる子なのだ、そのような些細な噂で動揺してはいけない、と私も言っ
たのだが、これはもう理屈ではない。無力な二の宮をいたぶるのはさすがに誇り高い弘
徽殿の女御には出来なかったが、そうであるだけに却って不安がつのってゆく。
 一の宮が廃され、二の宮が擁立される日がくるかもしれない。弘徽殿の女御がそんな
思いに囚われてゆくのを私は横で見て、何度もそれを打ち消さなければならなかった。
 二の宮が優れているのは親としてはむろん嬉しかったが、優れすぎているのは確かに
厄介だった。私が望まずとも、陰謀渦巻く朝廷で二の宮がいかなる者に利用されぬとも
限らなかったからである。二の宮は存在そのものが、一の宮を擁する勢力にとっては潜
在的な危険だったのだ。
 ちょうどその頃、高麗から渡来した高名な人相見に二の宮を見せたことがあった。そ
の者が言うには、
「宮は帝王となる相をお持ちだが、不思議なことにもしそうなれば国が乱れると出てい
らっしゃいます。臣となられる方と見れば栄達の極みに進まれるという相でいらっしゃ
いますが」
 と、しきりに首をかしげるのだった。
 私は思い悩み決心した。しかるべき後見もないまま親王としては、窮乏するばかり
で、悪くすれば良からぬたくらみに利用されるかも知れない。いっそのこと臣下に下せ
ば、右大臣家の疑念も氷解し、かつ自力で栄達を掴み取れるであろう。そうなれば帝た
る私も除目などで後押ししてやれるだろう。
 二の宮を臣籍に降下させよう。
 思い立つまま、私は重臣らが列席する中、二の宮の降下の儀式を執り行い、彼に源の
姓を与えた。
 以後、この者を人びとは源氏の君と呼び習わすようになった。




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