#103/598 ●長編
★タイトル (ICK ) 02/10/04 13:57 (248)
源氏の君のものがたり・桐壺(上)
★内容
私は人ではなかった。
帝の嫡子に生まれ、あらかじめ帝となることが約束されていたこの身、望んで得られ
ぬものなど何ひとつないと、そう思っていた。
私が見せる利発さと、美貌を多くの人が愛した。そうした愛をうとましく思うほどに
私は傲慢だった。
仙洞御所に隠居した我が父、先の帝が仰々しく春宮たる私に御位を譲ると言ったのは
私が数えで十五になった年だった。それをさも、有難がれと言わんばかりの父の口ぶり
はいささか鼻持ちならないものがあった。
何もかもを心得ていると思いすました父の、そののっぺらとした顔を見ることさえ何
とはなく腹ただしく、受け答えも少なく黙っていれば、我が子は成長し重々しくなりつ
つあると父は解釈したようで、その身勝手な考え方もいちいち私の心の棘を刺激した。
三十路も入ってもなお、帝たる身に生まれた人ならぬ人はかくも人の心の動きの読め
ぬ愚鈍なものに成り果てるのだろうか。帝たる父は人ではなかった。人でさえなかった
と言うべきだろう。世人は父を現人神と呼んだが、その肥大化した自意識を隠そうとも
しない父は私には神というよりは物の怪の類に見えた。
それとも神とは本来は物の怪の類なのだろうか。
私はそのようなものになりたくはなかった。もっと幼い頃、高ぶる思いを何にぶつけ
れば良いか分からず、一日中蹴鞠をしていたことがしばしばあった。あるいは侍従や女
房たちの世話しない監視をくぐりぬけ、内裏の屋根に登り、流れ行く雲を日がな一日眺
めていたこともある。
そうした私を評して世人は「物狂いの親王(みこ)」と囁いた。父は私を庇った。あれ
は学問が出来る、心根が優しいなどと並び立て、あくまで後継者は私であると断じた。
しかし世人の評の通り、私は狂っていたのだ。狭い宮中から逃れたいと欲し、白粉の
奥に塗り固められた欺瞞と陰謀を憎悪することが「物狂い」ならば私は確かに狂ってい
たのだ。
自由。何を望んでも与えられぬことはない筈の私はただひとつ自由だけは決して得ら
れなかった。それを欲することさえ許されなかった。私の逃走癖の責任を取らされて、
長年に渡って仕えた女房が断罪され、しばらく罷免された後は、一人歩きすることさえ
決して許されなくなった。
一の宮、春宮。それが私の名前だった。それは私自身の名ではない。私の役割の名だ
った。私は役目として存在し、私個人として存在してはならなかった。
帝になればなったで、その役目の名が変わるだけのこと。そして私を取り囲む檻が一
層甚だしくなるだけのことだ。私が憎悪する、薄ら笑いの貴族どものその頂点に立つべ
き飾りとして、私は存在して行かなければならないのだ。
私を元服させ、新帝とさせると同時に、私の末の弟を父は新たに春宮にたてさせた。
末の弟は兄の私から見てさえ凡庸極まりない子供で、大人しいだけが取り得の人形だっ
た。まだ、八歳に過ぎなかった末の弟を春宮にたてたのは、今後帝位を自分の血統で継
承すると父が言外に宣言するためである。
先々帝、つまり父の先代の帝は父の兄にあたる人で、病を得て早々に退位していた。
だからこそ帝位が弟に過ぎなかった私の父に回ってきたのだが、あちらの宮家では自分
たちこそが本来は正統であるとの意識があって、私が帝となった時の春宮には、先々帝
が退位後にもうけられた男宮をたてるべきだとの声もあったのである。それを封じて、
強引に父は末の弟を新しい春宮にたてさせたのだった。その後、兵部卿に任官されたこ
とから兵部卿の宮と呼ばれることになるその親王(みこ)は私よりも二歳年少なだけで、
凡庸さで言えば私の末の弟といい勝負だったが、少なくとも年齢では八歳の幼児よりは
春宮に相応しい人だったのだが。
雅に歌などを読みながら父はそうした思惑を張り巡らせていたのだ。ただ、帝位を自
分の血統で独占したいと言う浅ましい思いを抱えている癖に、優雅に、時おりはあちら
の宮家へご機嫌伺いの使者などを遣わしていたのだ。お前たちなど滅びてしまえと内心
は思いながら。
それを偽善と言うのだろうか。ならば偽善こそ、私が我慢ならないものはなかった。
しかし憤って見せるのもまた偽善と言うべきだろう。何故ならば、私こそがそうした偽
善の総元締めとも言える帝に他ならないのだから。
元服、そして即位と同時に私は女をあてがわれた。右大臣家の一の姫である。父と右
大臣の間で話がついていたようで、私が口を挟む余地はなかった。新興の権勢家たる右
大臣家を外戚として取り込めば私の権力も安定するだろうという父の親心から出たもの
だけれど、それを有難がる気分にはなれなかった。
私は将棋の王将と同じだった。大切にはされるけれども、結局はひとつの駒に過ぎな
い。同じように駒として私の元に嫁いできた四歳年長のその姫を、最初、私は哀れに思
った。同じ駒同士、語れることがあるかもしれないと思ったが、すぐにその思いは失わ
れた。
内裏の弘徽殿に住まうことを許されたことから弘徽殿の女御と呼ばれることになるそ
の女は、自分が駒であることに何ら疑問も戸惑いも抱いていなかった。彼女はあちら側
の人間、そうした疑問を抱くような軟弱な人間を嘲笑する方の人間だったからである。
私はすぐにこの女には心を求めても無駄だということを理解した。あちらも私の心な
ぞは一切無心しなかった。ただ、絶え間なく要求したのは自分と右大臣家の権勢、そし
てそのよすがとなるべき、私の胤に過ぎなかった。
ならば与えてやろうという伝法な気分になって私は弘徽殿の女御を抱いた。そしてす
ぐに彼女は望みのものを得た。入内(じゅだい)してから間をあけることもなく、弘徽殿
の女御は懐妊し、十月十日の後に無事に御子を出産した。男宮だった。
私の息子。私の長男。一の宮。やがては私に代わり、この役目を引き受けるであろう
人形(かたしろ)となるべき子。人はおまえを敬い、掛け替えのない親王として扱うだろ
う。しかしその視線はおまえ自身に向けられることは決してないのだ。おまえを通して
存在する朝廷という名の権力を、そしてそれによってのみ叶えられる欲望を人は見るだ
けなのだ。
それを哀れむ資格は私にはない。私もその人形(かたしろ)に他ならないのだから。
帝となって三年の歳月が過ぎ、右大臣家以外からも妃が入れられた。麗景殿の女御、
承香殿の女御、あるいは数多の更衣たち。駒に過ぎぬ女たちに駒に過ぎぬ私は心を動か
されることはなかった。望まれるがままに私は女たちを抱きはしたが、不思議なことに
弘徽殿の女御が産んだ一の宮以外に子が生まれることはなかった。聞こえてくるところ
では、他の女人に男宮が生まれることがないよう、右大臣家では密かに祈祷を催してい
るということだ。その心根を浅ましいと思い、不快には思ったが、結局はそれだけのこ
とだった。それが人というもの。人を憎み人たる身を恨んでは、物の怪になるより仕方
がない。
私は日々を倦み、人を呪いながらも朗らかな顔を作り、竜座の奥に鎮座して百官を総
覧し天下をしろすめす帝として、ただ一刻一刻が過ぎてゆくのを待った。私は自分の人
生がそうして潰えてゆくのだと思っていた。
あの人に出会うまでは。あの人を愛するまでは。
あの人の父親は既に死んでいた。按察使大納言の任にあった人だ。大納言と言えば朝
議にも臨席すべき高官だからむろん、私とは面識があった。しかし控えめな人で、古い
時代の権勢家の末裔とも言うが、左右の両大臣家の権勢に押されて微笑しながら沈黙を
守っていることが多かったように思われる。下から上げられてきた数々の案件や要望を
上手に取りまとめ、両大臣の調停をさりげなく行いながら片付けてゆく実務家、私の印
象はそうしたものだった。
大納言が死した時、朝廷の朝臣の中にはこれを偲ぶ声が多かったが、つまるところそ
れだけの存在だった。大納言にはしかるべき嫡男もないとなれば、この按察使大納言家
はやがては絶えてゆくことになろうと容易に予想された。
故に、その大納言の未亡人が、ひとり娘を後宮に入内させたいと人を介して要望して
きた時、私ならずとも多くの者が奇異に感じたものだった。後宮に入内させるとなれば
その妃の実家は莫大な出費を強いられることになる。大納言家なれば不可能ではなかろ
うが、それはあくまで不可能ではないという程度の話だ。まして当主たる大納言が既に
いない状態でその支出に応じてゆくのは並大抵の苦労ではなかろう。
仮に娘が栄達を遂げても、その余慶をこうむるべき兄弟が大納言家にはいない訳で、
こうなるとそもそも何のために入内させるのか、その意図が分からなかった。
後宮には弘徽殿の女御を始め多くの妃がいる。大納言の娘は大臣の娘が女御という位
で入内するのに対して、それよりは一段低い更衣という位で入内しなければならない。
一旦、入内すれば要らぬ気苦労もしなければならない訳で、どうしてそこまでして入内
に拘るのか、全然理解出来なかった。
その辺りを、故大納言の未亡人は「主人の遺言だったものですから」と言うのみで、
合点が行くようには説明してくれなかった。彼女自身、その理由が分からなかったのか
も知れない。母ひとり、娘ひとりとなれば、故大納言が残した遺産で風流に生きるもよ
し、適当な公達を婿に迎えて今一度華やぎを求めるもよし、損得勘定からすればそうす
る方がよほど楽であるはずなのに、敢えて入内という険しい道を行く。
そうした険しさを妻と娘に遺言でもって強いた男と、私が知っている穏やかな亡き大
納言の面影はどうにも重ならなかった。淡々とした穏やかさの影に亡き大納言はその胸
のうちで何を滾らせていたのだろうか。
故大納言のその娘は入内した時は十六歳で私よりは二歳年下だった。淑景舎(桐壺)
に一室が与えられたことから、桐壺の更衣と呼ばれることになったあの人のところへ初
めて赴いたのは、入内してから数日過ぎてのことだった。亡き大納言がかくも入内に拘
ったという娘がいかほどの者であるのか、興味はむろんあったが、他の女御更衣の手
前、余り浮き足立つのもみっともないということで敢えて数日の間を置いたものだっ
た。
桐壺へと向かう私の歩みを遮る者は誰もいない。桐壺へと参上すると、身なりはきち
んとしているが明らかに新しくはない衣類を身につけている女房たちがぬかずき、平伏
している。決して裕福とはいえない按察使大納言家の内情が偲ばれて、他の妃たちに比
較すれば明らかに貧相な調度で入内しなければならなかった桐壺の更衣にうっすらと同
情心が沸いた。奥へ進んでゆくと、御簾などが掲げてある。その背後に影のみが見える
のは桐壺の更衣、私の新しい妃だった。
「御簾などを掲げて。知らないのかい。帝たる私はどこへでも行けるのだよ」
それは嘘だ。本当は私はどこへも行けやしない。しかしだから尚更、私の世界である
べき内裏で、私を遮ろうとする御簾などを見かけると蹴破りたくなる。さすがに蹴破り
はしなかったが、煩わしげに御簾を払いのけると、そこにはさすがに美しい紅梅色のう
ち掛けを纏った女が黒髪を震わせながら、顔を隠しているのが見えた。
私に抱かれるためにここへ来たのであろうに何を今更恥ずかしがっているのであろう
か。このような娘は今までいなかった。今までの女御更衣は恥ずかしがるそぶりはした
が、それが明らかにそぶりと分かる範囲のもので、帝に礼を失しないように少なくとも
向きだけはこちらの方を向いていたものである。
それを桐壺の更衣は、心底この突然の乱入者を厭うているようで、いささかの憤りと
共に私は彼女の肩に手をかけ、強引に振り返させた。
艶やかに磨き上げられた前髪がはらりと私の指の間に滑り落ち、その面(おもて)が露
になった。私はその顔に釘付けになった。
美しい、と私は思った。いや、その刹那はそう思うことさえままならなかったかも知
れぬ。ほっそりとした眉、澄んだ薄茶色の瞳、瑞々しい頬、桃色に咲き誇るかのような
潤んだ唇。
後宮には美しい女はむろんいた。美しい女しかいなかったというべきかも知れない。
容貌と言う点では差して優れているとは思えぬ弘徽殿の女御なども世間並みの基準から
言えば美しい部類に入るのであろう。
しかし桐壺の更衣のこの美しさ。彼女は私に微笑み返しはしなかった。彼女には媚び
る必要がなかったからだ。媚びによって得られる諸々の事柄を彼女が嫌悪していること
はその視線の透明さから窺い知ることが出来た。世人はそれを欲するがために朝廷に膝
を屈しているというのに。
それからのことはよくは覚えていない。私は彼女に、そう、夢中になった。彼女の肉
体を貪り、その言葉に浸った。彼女とは何でも話し合えた。そしてすぐに私たちが同じ
魂を持つ、この人形ばかりの貴族社会で、たったふたりきりの人間であることを理解し
た。
彼女は父大納言を恨んでいた、と語った。所詮は父も娘を後宮に入れて、叶わぬ野心
をさまようさもしい男に過ぎなかったのか、と後宮に入ることが決まってからはそう嘆
いたという。
自分は後宮に入り、他の妃と寵愛を競い合うその労苦が嫌だったのではない、とも言
った。ただ、そのように誰かの駒として魂が擦り切れてゆくのが苦痛なのだ、と言っ
た。
物狂いの親王(みこ)と言われた私のように、桐壺の更衣は自分も幼い頃は館を抜け出
して野原を駆け巡る「物狂い」だったと語った。ただそのようにして生きていたい、そ
のようにして生きていきたいと望みはそれだけであったのに、ただひとつの望みは叶え
られなかったと呟いた。
夜風に誘われるまま、私たちは桜が咲き誇る庭に出た。ふさりふさりと桜の花が舞い
散る。その一枚が私たちの方へ流れて来た。
「この桜の花のように、あなたはふいに訪れた艶やかで清らかな人だ」
桐壺の更衣を得て、私は自分が何を欲していたのかをようやく知った。そしてその望
みのものはついに得られたのだ。満足の思いと共に私は桐壺の更衣を見つめた。
この日この時を始めとして私は私の人生が生まれたのだと思った。私の人生、そして
私たちの人生が。
それからの日々は桐壺の更衣を求める毎日だった。女官長である尚侍に清涼殿へ妃を
呼ぶよう申し付ける。
「いずれの殿舎の妃をでございましょう」
「桐壺を」
そういう私に源尚侍は非難がましい視線を向ける。立て続けに桐壺の更衣ばかり召し
出している。これは後宮の暗黙の約束事を破るやりようだった。帝は身分の高い妃から
順に公平にかつ漏れなく召し出さなければならない。己の愛情でさえ帝はままならぬ。
しかし私はそ知らぬ顔をしておのが意を貫くことにした。朝廷がそれでどうこうなると
いうのならば、壊れてしまえ。
実際、私の桐壺の更衣への思いは理屈ではもうどうにも出来ないものにまで達してい
た。なるほど、私の行為はいかにも理不尽であっただろう。しかしその理は私が定めた
ものではない。それを受け入れたことさえない。そのような不純なものが、私と桐壺の
更衣の人生に入り込んでくることさえ嫌だった。
しかし周囲は否応なくさざなみだってくる。桐壺の更衣を召し出してひと月たった
頃、桐壺の門が閉じられ、桐壺の更衣が呼び出しに応じられないということがあった。
一人寵愛を受ける彼女に不快を示したいずれかの女御更衣に仕える女房の差し金に違い
ない。その時は蔵人に扉を開けさせて、事なきを得たが帝の私すらも嘲笑する女どもの
腹黒いそのやりように私の腸は煮え繰り返った。その次の夜も桐壺の更衣を私は召し出
したが、今度は弘徽殿あたりの廊下に汚物が撒き散らされ、桐壺の更衣が立ち往生する
ということがあった。
弘徽殿の女御の仕業なのは明らかだった。この時ほど権高なこの女が後宮の妃たちの
喝采を浴びたことはなかろう。右大臣家の権勢を嵩にきてこの女は何をやっても許され
ると思っている。
ならば、とその知らせを聞いて、私は立ち上がった。
「主上、いずれへ参られます」
それを見て尚侍が私を制そうとした。
「弘徽殿へ参る」
私が何をなそうとしているか、尚侍には分かっていたに違いない。両手をかざして、
私を押し戻す形をしながらすがるようにして私を止めようとした。
「右大臣家と事を構えれば朝廷の安寧は損なわれることになりかねません」
賢しらにそう申す尚侍を私は蹴飛ばしたい気分になりながら、かろうじて思いとどま
って、しかし声を荒げて言い放った。
「私を誰だと心得るか。帝なるこの身を制し得る者は地上にはいないのだ!」
弘徽殿へと向かう私の後ろに蔵人たちが女官たちが転ぶようにしてついて来る。時な
らぬこの騒ぎに後宮の妃や女房たちの耳目が集まるのを御簾の向こうに感じる。
弘徽殿の前にたどり着けば、なるほど廊下には汚物が撒き散らされ、晒し者になった
かのように桐壺の更衣と僅かな女房たちが震えながら立ち尽くしていた。私は白布を持
って来させて、それを廊下の上に敷いた。
「さあ、こちらへ」
桐壺の更衣の手を取ると私は抱きかかえるようにして私は彼女を渡らせた。その後を
女房たちが続く。歯噛みしながら、弘徽殿の女御は御簾の向こうで怒りに震えているに
違いない。もうこのままにはしておけない。私は決心した。
「少しこちらで待っていなさい」
桐壺の更衣にそう言うと、私は御簾を開けて弘徽殿の間に入った。すぐさま、並み居
る弘徽殿の女御付の女房たちが平伏する。三十人はいようか、するべき仕事もない無駄
な女たちだ。すべては右大臣家の権勢を誇示するためだけに、抱えているのだ。右大臣
家らしいやりようだった。
「あなたの仕業か」
私は御簾の向こうにいる弘徽殿の女御に言った。
「何のことでございましょう」
彼女の低い声はつとめて冷静さを装っていたが、怒りで裏打ちされているのは誰の耳
にも明らかだった。
「はっきりと申し渡しておく。桐壺の更衣を召し出すのは私の意思である。それを邪魔
立てするのは帝たるこの身に弓引く行為であると心得よ」
私の激しい怒りに触れて、女房たちのうちには泣き出す者もあった。馬鹿馬鹿しい、
泣いてどうなるというのか。それで私の気が休まるとでも思っているのか。
「何のことを仰せか分かりません」
「あなたに分からぬ筈がない。あなたは右大臣が誇る、いと賢い姫君だ。あなたは一の
宮の母でもある。それ故にこれまでは言うべきことも我慢し、あなたの顔を立ててきた
が、あなたがこのような振舞いを続けるつもりならば私にも考えがある。罪にはしかる
べき罰を与える。その際は一の宮も右大臣も連座を免れぬ。そう心得られよ」
彼女は一言も発しなかったが、屈辱に身を震わせるその表情は手に取るように分かっ
ていた。これを言ってしまったことで今後、桐壺の更衣が更なる風雨に晒されることも
懸念された。しかし私には言わずにはいられなかった。今はただ、私の愛する人を苛め
るこの女が憎かった。
私は踵を返して退出しようとした。その瞬間、呟くように、搾り出すようにして弘徽
殿の女御はくぐもった唸り声を上げた。
「それほどまでに、あの身分の卑しい女に篭絡されておしまいになったのですか!」
「あなたにも他の妃にも済まないという気はある。しかしもはやあなたが私の心を得ん
がためになす数々の行為を私は残念には思っても、優しい気分では受け取れないのだ。
あなたがもがけばもがくほど私の心は離れてゆく。どうかこの上はこれ以上、あなたを
憎ませないでくれ」
そう言って私は立ち去った。振り向くことはしなかった。無残なことをしたという思
いもあった。けれどもそれ以上に逸る気持ちがそこにはあった。その先には桐壺の更衣
が私を待っている。
#104/598 ●長編 *** コメント #103 ***
★タイトル (ICK ) 02/10/04 14:00 (318)
源氏の君のものがたり・桐壺(下)
★内容
桐壺の更衣は一言も私に恨み言を言わなかった。しかし様々な嫌がらせを私の目の届
かぬところで受けているのだろう、そのやつれた顔を見れば、彼女の心労がありありと
浮かんでいた。
朝議では右大臣が憮然とした表情でいることが多かった。娘を蔑ろにされて、父とし
ては面白くないのだろう。それは当然のことだけれども、あの弘徽殿の女御を私が愛す
べき理由がどこにあるというのか。世人は私の振舞いに驕慢を見るだろうが、自分の娘
だから私が寵愛するのは当然だという右大臣の思い込みは驕慢ではないのだろうか。
父院は仙洞御所に私を呼び出して、桐壺の更衣とのことを難詰した。
「右大臣は朝廷の要、その娘たる者をそう蔑ろにすべきものではない。まして弘徽殿の
女御はおまえの長男を生んだ人ではないか。いずれは春宮の母となり、国母ともなろう
とする人をそうそう粗略にしていい筈がない」
「春宮位にあるのは末の宮。末の宮の子孫が帝位を継ぐかもしれません。先々帝にも親
王がおられる。血筋から言えばあちらが帝位を継がれても不思議はありますまい。弘徽
殿の女御は確かに一の宮の母ではありますが、それだけで一の宮が将来の帝になり、弘
徽殿の女御が国母になるというのはいささかお気が早いのではありますまいか」
とうとうと述べた私の口ぶりが父は気に入らなかったようで、鼻白んだ感じでフンと
言った。
「おまえは息子に帝位を継がせぬつもりか」
「帝位など、一族のうち最も相応しい者がその任につけば良いのです。天下は天下の天
下であるからして、ひとりの天下ではありません。その任に相応しからざる者が社稷を
継げば、本人にとって不幸であるばかりか天下の災いとなるでしょう」
私がそのいい例だ、と挑むようにして私は父の視線をじっと受け止めた。私は自ら望
んで帝となったのではない。すべては父の思惑と野心から出たことだ。その父が、私の
行状を帝に相応しからぬ者として非難する。だが、元を正せばそのような不届き者を帝
位に据えたのは父ではなかったのか。
その意が分かったのか分からぬのか、ともかく父は私とそれ以上、言い争うつもりは
なかったようで、さりげなく視線をそらした。
「まあ、おまえにも言い分はあろう。だが恐ろしいのは世人の噂。唐土にも楊貴妃を寵
愛したばかりに安史の乱を招いた玄宗皇帝の例もある。右大臣を追い詰めて、本朝の安
録山としてはいかがする」
玄宗皇帝は唐朝の全盛を築いた皇帝ながら、晩年、楊貴妃を愛し、その一族のみを抜
擢したがために周囲の反感をかって安録山らが反乱を起こす契機を与えた。それによっ
て唐朝の衰微は決定的になったと言う。
なるほど、身分の低い女性を狂うほどに愛するという点では私と玄宗皇帝は似通って
いる。しかし、桐壺の更衣は楊貴妃ではない。あの人は一族をひいきして抜擢するよう
な要求はしないし、私も公私のけじめはつけているつもりだ。弘徽殿の女御が元からあ
りもしない寵愛を失ったからといって右大臣が失脚した訳でもないのに、どうして私と
桐壺の更衣が非難がましいことを言われなければならないのか。
「娘可愛さに右大臣が乱を起こすというのならそれこそ不敬の至り。今後の社稷の安寧
を揺るがすことにもなりかねませんのでその時は弓矢で決着をつけるしかありますま
い」
私は憮然として言い放ったが、聞いている父も憮然として、それ以上は何も言おうと
しなかった。
私があれだけのことを言ったので、弘徽殿の女御はあれ以後はさすがに表立っては桐
壺の更衣にあそこまでの嫌がらせをすることもなくなったが、それでも細かい嫌味は女
房を通じて頻繁に桐壺の更衣の耳に達するようである。女房も大抵のことは自分の胸の
うちに閉まって黙っていればいいものを、気がきかぬ者ばかりで、あんなことがあっ
た、こんなことを言われたといちいち桐壺の更衣に知らせるものだから、桐壺の更衣も
滅入って、とうとう床に伏してしまった。恨み言ひとつ漏らさぬ気丈な人が、ふと、
「実家に帰りとうございます」と囁くように吐き出す。その一言が今までの胸のつかえ
を栓をしていたかのように、後は涙が溢れて、言葉にならないようだった。
「そんなことは言わないでくれ。あなたがいなくなればこの先、私はどうやって生きて
ゆけばよいのか」
私は身勝手だ。私が愛すれば愛するほどこの人を追い詰めることが分かっていなが
ら、桐壺の更衣を手放すことが出来ない。そしてこの人を失ってどう生きてゆけばいい
のか。その思いもまた真実だった。
桐壺の更衣は長く床に伏した。いずれの物の怪がついたかと心配して私は加持祈祷な
どをさせたが、この長の横臥がただの病ではないことがまもなく明らかになった。桐壺
の更衣は懐妊したのだ。
私は一層、桐壺の更衣をねぎらい、労わり、昼も夜もなく桐壺に日参した。日ごとに
その腹が膨らみ、出産もまじかに迫った頃、右大臣家では腹の子が流れるよう呪詛させ
ているとの噂が私の耳に届いた。おそらく事実であろう。一の宮を擁する右大臣家とし
ては万が一男宮が新たに生まれようものなら一の宮が春宮になれぬかも知れぬ。そうな
れば次代の政権構想が大いに揺らぐことになるのだろう。
宮を調伏することは違法で、これをしたという理由で今まで多くの公卿たちが失脚し
てきた。それを思えば右大臣家のやりようは呆れるほどに大胆だとも言える。それだけ
自分たちの権力を過信し、どうあっても私如きが右大臣家に手出しを出来ぬと思ってい
るのだろう。何しろあちらは先の帝、私の父の覚えがめでたいと来ている。父と右大
臣、同じ権力亡者同士話も合うのだろう。
しかし私はどこかで楽観していた。心の底から、魂と魂でむつみあった両親から生ま
れる子がよこしまな調伏などに破れる筈がない、私はそう信じていた。帝とその妃がで
はなく、人と人が愛し合って生まれてくる子だもの、そうしたどす黒い霧を晴らす光を
背負って生まれてくるに違いない。
出産も間際になるまで私は桐壺の更衣を手放さなかった。しかし神聖なる内裏が不浄
の血で汚されるのは決して許されぬことだったので、やむなく、出産のひと時を里に下
がらせた。人が生まれてくるのに伴う血を不浄と見なす考えはどうにも私は馴染めなか
った。不浄と言うならばこの後宮に蠢く魑魅魍魎の怨念をこそ言うべきではないか。
そして子が生まれた。私の第二子、そして期待通りの男宮だった。
右大臣家は二の宮が生まれて、不安が甚だしくなったらしい。世人は一の宮こそ次代
の春宮に擁立されようと半ば断じていたが、それを決めるのは帝たる私である。私は一
の宮を愛してはいたが、右大臣家で養育されている私の長男は私の息子である以前に右
大臣家の一族だった。馴染みのない息子に、私は系図上のつながりしか見出すことが出
来なかった。
弘徽殿の女御の立場に立てば、何故自分がなおも女御の地位に留め置かれて中宮に擁
立されないのか不可解であろうし、不満であっただろう。彼女が中宮になれば一の宮は
長男であるのみならず正室の子ということになり、次代の春宮となるのはほぼ確実とい
うことになる。
なのに何故、彼女を私は中宮にしないのか。中宮にすれば、彼女は一層の勢威を得
て、桐壺の更衣に辛く当たるのが確実だったからだ。彼女がいま少したおやかな人柄で
あれば、右大臣は孫の一の宮のことを案じる必要もなかっただろう。
二の宮を生んで、桐壺の更衣は元から儚げだったのが一層甚だしくなった。その顔を
見慣れた筈の私でさえ、時おりはっとするほどなまめかしく、それがまた哀れだった。
散る間際の桜花のように、今日を限りとして咲き誇っているかのような印象を私に与え
た。皺むくれになってもいい、腰が曲がってもいい、それでも生きていてくれ。その思
いを天が嘲笑うかのように日毎に桐壺の更衣は衰弱してゆくようだった。
それでも、二の宮が三歳になり、盛大に袴義を執り行う頃まではかろうじて命をつな
いでくれていた。それは床に伏すのが常態になり、生きていると言うよりは死んではい
ないというのに近かったけれども、それでも私は桐壺の更衣の時おりの笑顔を見るのを
よすがにしていた。二の宮の愛らしさは格別だった。皇子は妃の実家で育てるのが通例
だったけれども、桐壺の更衣には父はもういないというのを口実にして、私はこの子を
御所で育てた。二の宮を生んで、桐壺の更衣はもう犯すべからざる宮の母となった訳
で、かつての嫌がらせは嘘のように収まった。しかしそれで人々の思惑が鎮まった訳で
は毛頭なく、手出しが出来なくなっただけ、桐壺の更衣への不快感は増したと言うべき
だろう。
弘徽殿の女御あたりはどのように感じているのか。以前は桐壺の更衣を不愉快だとい
う程度のことだったろうが、今は二の宮が生まれ、二の宮は一の宮に対する無視しがた
い脅威だと考えているに違いない。
二の宮は今はただあどけないだけの幼子に過ぎないが、本人の預かり知らぬ大人たち
の陰謀に知らずに巻き込まれている二の宮が哀れで、それだけにいっそういとおしかっ
た。
二の宮の袴義が終えた頃、桐壺の更衣の病はいよいよ激しくなった。宮中で人が死ぬ
ことは許されていない。桐壺の更衣は万が一のことがあれば幼い二の宮にも障りがある
ことだからとしきりに里下りを欲したが、ここで彼女を手放せば二度と会えぬのではな
いかという思いから私はどうしても云とは言えなかった。そうこうするうちに、故按察
使大納言の未亡人、桐壺の更衣の母などからも娘を里下りさせてくれとの要望が送られ
てくる。やむなく、私は折れて、それを許可した。
二の宮はそのまま桐壺に留めておくことにした。この子までいなくなれば私が寂し過
ぎるし、出立の途中、また他の妃たちに嫌がらせをされて二の宮にまで危害が及ぶので
はないかと桐壺の更衣が懸念したからである。皇子を産み、御息所と称されるようにな
った彼女に今更どうこう出来る女もいるまいと私は思ったが、純粋だった彼女をかくも
用心深くさせるほど宮中での暮らしは過酷だったのかと思うと、私は桐壺の更衣に心か
ら申し訳なく思った。
出立の時間が来たが、私は桐壺にあって、最愛の女性をなおも手放しかねていた。
「生きるも死ぬも共にと誓ったのに、あなたは私を置いていってしまわれる」
言っても詮無い繰言と知っていながら、私はそれを言わずにはいられなかった。言っ
たその言葉が桐壺の更衣の心を傷つけることになるやもと思いながらも、たぎるような
悲しみが胸の奥から溢れてきて、それを紛らわせるために私は言わずにはいられなかっ
た。
桐壺の更衣は虫の息で絶え絶えになりながら、
「どうか、この子を」
とだけ言った。
私は頷きながら、ようやく出立した桐壺の更衣を見送った。これが彼女との別れとな
った。
どうか、この子を。その先、桐壺の更衣は何を言いたかったのか。どうか、この子を
よろしく頼みます。
そうだろうか。それだけだろうか。あるいは、と私は思う。
どうかこの子を帝にしてやって下さい。
この子を帝に。それは誰よりも桐壺の更衣と二の宮を愛する私も考えないことではな
かった。いや、取り繕っても仕方がないだろう、二の宮を見るたびにそう思ったと言う
べきだ。二の宮の愛らしさ、利発さ、すべてが帝たる地位に相応しいように思える。だ
がしかしそうなれば、一の宮はどうなるのか。
その考えも嘘だと、私は気づいた。私は一の宮のことなど気にかけていない。一の宮
を払いのけてでも二の宮に帝の地位を譲りたいという思いがそこにはあった。不実な父
と弘徽殿の女御が私をなじるのには相応の根拠があったのだ。弘徽殿の女御には何ら同
情するところがないが、一の宮には父として素直に恥じ入るべきものがあった。
だが恥じ入ってもなお、一の宮を傷つけてもなお、二の宮に位を譲りたい。そこまで
心のうちを直視して、私ははたと気づいた。この思いは、今まで私が散々軽蔑していた
父や右大臣らの子の栄華を無理やりにでも願う浅はかな思いと何ら変わらぬではない
か、と。
物狂いの親王と言われた私を、父はなぜが特に気にかけ、異論があったにも関わらず
春宮とし、帝とした。それを私は父の妄執と見て、感謝せぬばかりか軽蔑して来た。そ
れと同じ思いに私もまた囚われている。
もし桐壺の更衣も同じ思いであるならば、権力だの栄華だのに一切関心が無かった彼
女も子を得て変わったということになる。そのような腹黒い思いを厭い、嫌ってきた私
たちだったのに、二の宮という存在がすべてを変えてしまったのか。
桐壺の更衣は里下りしたその日の晩、儚くなってしまった。
予想していたこととは言え、愚かにも私は取り乱し、泣き叫ぶしかなかった。私の想
いがいかに深かったか、私がどれだけ桐壺の更衣を生きるよすがとしていたか、腹黒き
後宮の女たちにせめては見せつけたいという気持ちもあった。あの人は特別だったの
だ。世人がどう言おうと、妃が数多かしづく私にとってあの人のみが唯一の妻だったの
だ。せめてはそれを見せつけておかねば、この悲しみ、いかんともし難かった。
急報を聞いて出仕してきた左大臣なども見かねて、「余りに嘆きが深ければ故人は道
に迷うと言いますから」などと言って私を慰めようとしたが、私はそれさえも厭わしか
った。もし道に迷って霊となり現れるというのならむしろ出てきて欲しい。魂の傍らを
失って、私はどうやって生きていけばいいのか。いや、生きていく理由があるのか。
あった。二の宮が滂沱と涙が流れる私の傍らで、不思議そうな顔をして眺めている。
小さな指を伸ばして、私の頬に触れてくるのがたまらなくいとおしい。この子のため
に、生きなければならない。しかるべき後見もないこの子を私が守ってやらなくて誰が
守ってやるのか。
そう気持ちを奮わせようとするのだが、桐壺の更衣を失った嘆きは余りにも大きかっ
た。私は半年近く、清涼殿の奥に篭り、政事も左右の両大臣と内大臣に委ねて朝議にも
臨席しなかった。後宮の女たちのところに通うこともなくなった。
「生きている時のみならず死んでからも主上を独り占めするとは憎い女ね」
弘徽殿の女御などはそう言っているらしい。清涼殿に程近い弘徽殿で、毎夜、管弦の
宴などを催すのが憎らしい。私のこの嘆きように、不満の声も出始めていたが、私は世
間に徹底して思い知らしめるためにも、桐壺の更衣との思い出に浸っていたかった。私
とあの人がどれだけ強い絆で結ばれていたか、その間を引き裂こうとした世間がいかに
不遜で残酷であったのか。今こそ思い知れ。
二の宮は故按察使大納言の未亡人に引き取られた。私は手放したくなかったが、母の
喪中に子が宮中に留まっていてはならぬ、とこればかりは父院を始め、年長の皇族たち
が雁首を揃えて主張したので、それは承諾しなければならなかった。
ではせめての我儘を聞いて欲しいと言って、私は桐壺の更衣に三位の位を追贈した。
女御たちの位は殿上人にも匹敵する三位であり、更衣はそれよりは大分低い五位が普通
である。それでも生前、私は無理を押して桐壺の更衣に四位を授けていた。この上、三
位に上げれば、亡き人は彼女を卑しい身分と言って苛めた女御どもと同格になる。
私のこの措置を、父院や朝議は我儘が過ぎると言いながら、私の嘆きが余りにも激し
いのでそれで幾らかでもそれが緩和されるのならばとしぶしぶ認めた。私は内心ほくそ
えんだ。これを私の感傷から来た措置だと彼らは単純に思っているかも知れないが、そ
れだけではなかった。
亡き人を女御の身分に上げるのはこれは出来なかったが、少なくとも弘徽殿の女御な
どと同格の位に上げることが出来たならば、その子である二の宮は一の宮と同格という
ことになりはしないか。少なくともそう主張することは出来る筈だ。
右大臣などはこの意図に気づいたのかどうか、二の宮に遅れをとらぬよう、高名な学
者に一の宮の学問を見てくれるよう依頼したということだ。
ひとたび実家に引き取った二の宮を、故大納言の未亡人は何やかやと理由をつけて宮
中に参内させなかった。母たる桐壺の更衣が宮中にいない以上、二の宮は確かにあちら
で養育するのが世間の筋ではある。しかし遠国にいる訳ではないのだもの、頻繁に宮中
に参らせてしかるべきではないか。あの右大臣家でさえ、一の宮を日がな開けず宮中に
参内させるのだ。その時ばかりは私と弘徽殿の女御は父と母になって、我が子の成長に
目を細めるのだから。私は二の宮に会いたい思いが募り、何度も使者を遣わして、未亡
人に二の宮を伴っての参内を促した。あの人の室もそのためにそのままにしているとい
うのに、未亡人は何やかやと理由をつけて、二の宮を参内させなかった。あの人の母た
る人が、どうしてそんなにまで意地悪をするのか。使者に立った靫負命婦(ゆげいのみょ
うぶ)などには、帝なる私に繰言をしそうでそれが怖いと言ったという。
結局、何やかやと二の宮が三歳になるまで、あの人は私に二の宮を会わせなかった。
この仕打ちに私は憤った。あの人の母でなければただでは済まさないところである。我
が子はどうなっているだろうと、それを思わない日はなかったが、ようやく二の宮が参
内することになり、二の宮をようやく目にしたその時、私は我が子ながらその余りの愛
らしさに言葉を失った。我が子ゆえに欲目で見たのではない。周囲の者もみっともない
ことながら、思わず感嘆の声を上げたほどだったのである。
二の宮はすぐに私になつき、「ちちうえ、ちちうえ」などと舌足らずの声で言いなが
ら駆けずり回るのを、これ以上の満足はない思いで、私は眺めた。しかし一方で不吉な
思いも私にはあった。神に見入られたその愛らしさに、同じく美貌の人だった私の最愛
の故人を思った。天帝なり竜王なりが、目をつけては大変だとばかり、私は思わず肩掛
けで二の宮をくるみ、二の宮を誰の目にも触れさせぬようとした。それを二の宮は不思
議な面持ちでじっと見つめるのみだった。
二の宮と会えなかった長の歳月は辛かったが、今にして思えばそれがかえって良かっ
たのかも知れない。二の宮と会えた喜びの大きさは爆発するばかりで、あの人が逝って
以来ようやく私は常心を取り戻せたようだった。悲しみが癒えることは決してないが、
悲しみを悲しみとしたまま人は新たに日々を重ねてゆくことも出来る。朝議にも臨席
し、妃たちを呼び出す気にもなった私を見て、世間はようやく安堵したようである。
しかし安堵ならないのは右大臣と弘徽殿の女御で、二の宮を余りに寵愛する私の姿を
見て、次期春宮位を二の宮に奪われるのではないかとしきりに猜疑した。思えば、疑念
がどす黒い思いを生み、それにからめとられた桐壺の更衣は若くして儚くなってしまっ
たのだった。二の宮を今、それと同じ定めにする訳にはいかない。
二の宮に帝位を譲りたいという気持ちはなおも抜きがたくあったが、それを言っても
詮無いことだった。大袈裟ではなく、あくまで帝位に固執すれば二の宮の命に障りがあ
るかも知れなかった。
私は一の宮、二の宮を傍らに侍らせ、三公(左大臣、右大臣、内大臣)と私の末の弟
である春宮を御所に呼び寄せた。
「今日集まって貰ったのは他でもない、次の春宮のことである」
と私が言うと、座に緊張が走ったのが分かった。しかしそれに構わず、私は言葉を続
けた。
「まだ私が玉座にあり、春宮が控えているというのに更にその先のことをとやかく言う
のは不本意だし外聞がいいものではなかろうが、昨今の朝廷のざわめきを思えば、この
あたりではっきりとさせておくのがよかろうと思った。私のみで決めるのは春宮にも、
(春宮の後見である)内大臣にも申し訳ないことだが、結局は誰かが決めねばならぬこ
と、ここはどうか受け入れて欲しい」
私がそう言うと、春宮は伏して、
「兄上のなさりたいように」
と言った。その姿は明らかにやつれて、病がちだとは聞いてはいたが、久し振りに会
うと、この人の命がそう長くは無かろうと私には思われた。気の毒なことながら、そう
なれば私の決定は次期春宮ではなく、次期天皇を決めるものになるやも知れぬなと内
心、思った。
「次の春宮には私の長男たる一の宮を充てたい。異存はおありか」
そう言った瞬間、右大臣の顔がぱっと明るくなった。その隠しもしないあからさまな
喜びようを見て、おまえを喜ばすためにそう決めたのではないぞ、と罵りたくなった
が、堪えた。左大臣は感情を表に出さなかったが、右大臣家の栄達は彼の家の不利益で
あるので、喜ばしく思っていないのは明らかだった。しかし長男を後継者に据えるとい
う決定は、誰も文句のつけようの無いものだったから、黙っているようだった。
「かくなる上は一同、一の宮を守り立ててやって欲しい。それぞれのいきさつも思いも
あろうが、過去は水に流して、その他の宮のこともよろしく頼みたい」
私は右大臣を見据えながら言った。おまえたちが欲しがっていた次期春宮の地位はく
れてやった。これで二の宮を恨む理由もなくなっただろう。私が言いたかったのはそう
いうことだった。
一同平伏して、こうして私の息子たちのうち、右大臣の孫である一の宮が皇統を継ぐ
見通しとなった。
それから数年が過ぎた。
故大納言の未亡人も世を去り、二の宮は私以外頼るべき者もない孤児となった。異例
のことながら私は二の宮を宮中で育てることにした。本来ならば養育する者があろうと
無かろうと皇子は母方の実家で育てられるべきだが、気のきかぬ女房たちのみがぬかず
くあの二条院へ二の宮を追いやることは出来なかった。まだ、幼い二の宮はつねに私の
横に侍り、内裏であればどこへでもお通り御免が許される特別な存在となった。女御更
衣たちも亡き人への嫉妬はこの愛らしい宮を見れば氷解するようで、二の宮は誰にでも
愛され、大切にされた。
「過去にはいろいろあったが、この子も今となっては母のいない哀れな子です。どうか
可愛がってやってください」
妃たちにそう頼めば、いずれの妃も貰い泣きし、かくも愛らしい宮をどうして邪険に
出来ようかと言ってくれた。そのような優しい心持があるならば、桐壺の更衣にも何
故、今少しそのように接してくれなかったかという無念はあったが、人それぞれの闇を
抱えて悶えていたのだろうと、今は人並みに苦しみを知った私には分かるので敢えてそ
れは言わなかった。
一の宮を春宮に内定してからは弘徽殿の女御も少しは落ち着いたようだった。冷静に
なってみれば随分この人にも心労をかけた訳で、その反発のされようはいかにも憎々し
かったが、この人なりの苦悩があったのだと思うと、何もかもが哀れで、今はひたすら
和解して穏やかな気持ちで歩み寄りたかった。弘徽殿にも敢えて私は二の宮を伴う。最
初は嫌がっていた弘徽殿の女御も、二の宮の素直な愛らしさに触れて、一の宮が春宮に
なるのも決まったことだしこれ以上はめくじらをたて、罪の無い子にあたるのは止めよ
うと思ってくれたようだった。
時々は右大臣家から参内する一の宮と二の宮があどけなく笑いながら、追いかけっこ
などをして遊ぶのを私と弘徽殿の女御は目を細めて微笑みあう。こんな日が来ようとは
かくも激しい日々には思いもつかないことだった。弘徽殿の女御はその後二度懐妊し
て、女宮をふたり生んでいた。それですべてが丸く収まるのならばこのうえは何も言う
ことはなかった。
ただ、右大臣家の不安は執拗だった。弘徽殿の女御もかろうじて理性で抑制してはい
たが、二の宮の愛らしさに直接触れれば厭わしい思いは氷解するものの、いなくなれば
また不安が募るようだった。
というのは二の宮が容姿のみならず何をやらせても余りにも優れていて、帝の子に生
まれずとも土塊の中から拾い上げられてさえ必ず栄達の道を進んだであろうと思わせた
ほどの神童だったからである。対して、一の宮は出来が悪いと言うのではないが凡庸
で、二の宮と比較すれば明らかに見劣りがした。それは母の欲目から見ても歴然たるも
のだったようで、まして世人のせわしない噂は、二の宮の神童ぶりを称えるものばかり
だったから、弘徽殿の女御としても胸をいためずにはいられなかった訳である。
一の宮は帝になる子なのだ、そのような些細な噂で動揺してはいけない、と私も言っ
たのだが、これはもう理屈ではない。無力な二の宮をいたぶるのはさすがに誇り高い弘
徽殿の女御には出来なかったが、そうであるだけに却って不安がつのってゆく。
一の宮が廃され、二の宮が擁立される日がくるかもしれない。弘徽殿の女御がそんな
思いに囚われてゆくのを私は横で見て、何度もそれを打ち消さなければならなかった。
二の宮が優れているのは親としてはむろん嬉しかったが、優れすぎているのは確かに
厄介だった。私が望まずとも、陰謀渦巻く朝廷で二の宮がいかなる者に利用されぬとも
限らなかったからである。二の宮は存在そのものが、一の宮を擁する勢力にとっては潜
在的な危険だったのだ。
ちょうどその頃、高麗から渡来した高名な人相見に二の宮を見せたことがあった。そ
の者が言うには、
「宮は帝王となる相をお持ちだが、不思議なことにもしそうなれば国が乱れると出てい
らっしゃいます。臣となられる方と見れば栄達の極みに進まれるという相でいらっしゃ
いますが」
と、しきりに首をかしげるのだった。
私は思い悩み決心した。しかるべき後見もないまま親王としては、窮乏するばかり
で、悪くすれば良からぬたくらみに利用されるかも知れない。いっそのこと臣下に下せ
ば、右大臣家の疑念も氷解し、かつ自力で栄達を掴み取れるであろう。そうなれば帝た
る私も除目などで後押ししてやれるだろう。
二の宮を臣籍に降下させよう。
思い立つまま、私は重臣らが列席する中、二の宮の降下の儀式を執り行い、彼に源の
姓を与えた。
以後、この者を人びとは源氏の君と呼び習わすようになった。