#2467/5495 長編
★タイトル (AZA ) 93/12/31 10:12 (173)
ダイイチシボウのこと <23> 永山
★内容
当日、大学のコンピュータルームで、松澤は千堂麻知子と会った。千堂は問
題の通知とフロッピーディスクを持って来ていた。
「もう一人の自分に分からないよう、こっそりと持ち出して来た物だから、す
ぐに戻しておきたいんだけど」
そう言って、彼女はフロッピーをパソコンにセットし、その内容を松澤に見
せてくれた。
「これは……」
訳の分からない思いで、千堂が言う「もう一人の自分が書いた日記」という
物を松澤は眺めた。
「まだ信じられないかもしれないけど、これは真実なの。今でも、こうやって
相手に気付かれずに持ち出すことはできるんだけど、このままじゃ、私はいつ
まで経っても一人の私になれないと思う。だから、私はもう一人の自分をどう
にかして説得を試みるから、それまでは待ってくれないかしら?」
通知を手に、彼女は松澤に願い出た。そのときも疑心暗鬼のままに、松澤は
断わった。それはそっちの問題であって、自分は関係ないと。
「でも、私がこの通知を持ち帰っておかないと、相手はすぐに気付くわよ。も
う一人の自分だって、あなたのことを知っているから、何かの行動に出るかも
しれないし。あなたに殺人の罪を擦り付けようとしているのだって、もう一人
の自分なんだから」
このときになって、松澤は事件の全体像を知ると共に、千堂麻知子の言葉を
信じることに決めたのだった。
「それなら……」
松澤は一つの提案をした。それは、通知の中身だけは返してもらい、封筒は
まだ持って行ってもらうというものだった。これなら、しばらくの間ではあろ
うが、もう一人の千堂の目をごまかすことができると考えた訳である。目の前
の千堂麻知子も、この案に賛成してくれた。
その間、一度だけ、松澤は欲求を抑えていられなくなり、会社説明会に行っ
た帰りに、適当な駅で降り、近くの公園で小さな女の子に声をかけた。だが、
幸か不幸かそれは失敗に終わり、松澤は何もせずに帰宅したのだった。
(今思えば、あのときは何もできなくて正解だったんだろうな)
トーカルの合格通知を取り戻した松澤はトーカルに連絡を取ろうとはしなか
った。それを後回しにしてまで、彼の頭脳には優先すべき計画が芽生えていた
のだった。彼は千堂麻知子を利用して、自分のやってきた殺人の全てを彼女に
擦り付けてやろうと考えたのである。
(今はまだ、最初の日記しか見つかっていないみたいだな。あれの中身は、僕
が都合よく改竄してやった物なんだが、怪しまれていないようだ。放っておい
て僕の名前を出す訳にはいかない。
そろそろ、他の『日記』のあるフロッピーディスクも見つかるはずだ。もち
ろん、内容は僕が勝手に書いた物だ。それが発見されれば、これまでの幼女連
続殺害事件とされている罪は、全て千堂のやったと警察では解釈するだろう)
松澤は目立たぬように千堂麻知子と何度か会い、彼女のフロッピーディスク
に松澤の創作した文章ファイルを忍び込ませたのである。拡張子というものを
変えておけば、見知らぬファイルが増えていても簡単には気付かないものなの
だ。普段通りにワープロを立ち上げている分には、画面に現れないのだから。
これで前準備は完了した。
その内、千堂がちゃんと一つの人格になったことを示すために、彼女の方か
ら通知の封筒を持って現れるというのを聞き、松澤は計画を実行した。最初は
彼女を家に上がらせ、風邪薬でも大量に飲ませて意識を失わせてから細工をし
ようと考えていたのだが、幸運にも彼女自身二つの人格を同時に持ってしまっ
て混乱しているところに遭遇したので、それも利用したのだ。
松澤は千堂とは知り合って間もないことを示すために、前に返してもらった
通知を千堂が握りしめていた封筒へ押し込んだ。後は警察に知らせるだけだっ
た。例え、目を覚ました千堂が松澤との関係について何を言おうとも、それら
全部は松澤が作った日記によって否定されるのである。
(全くもって、彼女が二重人格者だったのは、都合がよかったな)
松澤はそう回想してから、電話の横に置いた封筒を見た。翌朝一番にトーカ
ルへ電話を入れようと考えてのことだ。封筒と中身の通知は今日まで、警察が
事件の証拠品の一つだとして預かっていた物だ。ようやく、それも終わって返
って来た。
母親には、事件について全て筋書き通りに説明しておいた。通知が戻ったん
だと伝えたとき、彼の母親は喜んだ後、
「どうするの? やっぱり、トーカルの方を選ぶことにするの?」
と息子に聞いてきた。松澤敏之はすぐに肯定の返事をした。
松澤は、明日の朝、トーカルの人事へどんな話し方をしようか、さらには内
定をもらったよその企業をどうやって断わろうかまで考えながら、床に就いた。
終章−−暗転
一日明けて、松澤敏之にとって信じられないなことが起こっていた。
やっとのことで手元に戻って来たトーカルの通知が電話横から消えていたの
だ。 すぐさま母親に聞いてみたが、何も知らないと言う。
「どういうことなんだよぉ!」
声に心を反映させてまで、敏之は焦り、探しまわった。
「まさか、網戸をして窓は開けておいたから、誰かが入って盗んで行ったんじ
ゃないかしら……」
ふと漏らした母の言葉が、敏之の耳に嫌な感じに響いた。すぐに網戸を調べ
てみる。が、結局は外部から侵入者があったような痕跡もないため、警察に届
けることもなく、彼は諦めざるを得なくなってしまった。
「折角、取り戻したと思ったのに……」
「ごめんなさい。母さんがちゃんと戸締りしておけばよかったんだわ」
慰めてくれる母親に、敏之は感謝した。いつも夏場は窓を開けて網戸の状態
にしているのだ。母が戸締りを怠った訳ではないのが分かっているからこそ、
彼は母の心配りに感謝した。
「……もういいよ。あの通知を巡って、これだけ嫌なことに巻き込まれたんだ。
所詮はトーカルと僕自身とは縁がなかったってことなんだよ、きっと」
「敏之……」
驚いたように、母親が息子を見つめる。
「仮にさ、また通知を見つけて首尾よくトーカルに入社できたとしても、恐ら
く会社で嫌なことに巻き込まれるんだ。もう、そう思うことにしたよ」
「よく言ったわ。えらい!」
母親がいつもの明るさを取り戻し、敏之の肩をどんと叩く。敏之は無理な作
り笑いから、徐々に本当に笑えるようになるのを自分で感じて、ようやく吹っ
切れた。
「じゃあ、今夜はお祝いにしようか。色々あったけど、これでちゃーんと就職
先が決まったことになるんだから。ね?」
「それがいい」
そして夜が来る。
母子二人は、久方ぶりにしこたま酔い、食事の後片付けもできないほど、ふ
らふらになってしまった。
「う……」
目を覚ますと、敏之は一瞬、自分の置かれている状態が飲み込めないでいた。
やがて記憶が蘇り、事態を把握する。
弱い電灯の下、母の姿を探す。と、そうするまでもなく、母はテーブルにも
たれ掛かるようにして眠っていた。腕枕をしているけれど、起きたときに腕が
しびれてかなわないだろうな。敏之はそんなことを思って母親を見ていた。
腕の下に何か白い物があることに気が付いた。敏之は何だろうと思い、目を
凝らす。
「何だ、日記か」
敏之は自分の口から漏れ出た「日記」という単語にびくっと反応してしまっ
たが、すぐに自制心を取り戻した。
(あのことはすぐにけりが着くさ)
そう思い込みを強くしてから、彼は母親の日記に手を伸ばした。
(いつも秘密にしていたけれど、どんなことを書いているんだろう? 日記を
取り上げても目が覚めないようなら、見てやろう)
酔いが残っていたせいだろう。敏之は、母の日記を盗み見ることに何のため
らいも感じなかった。いつもの彼なら、母親の言うことは絶対に聞くのだが。
母は目を覚まさなかった。
(えっと、何々……)
何の気なしにページをめくっていた敏之は、手を止めた。
<トーカルからの通知が戻って来るなんて、そんな。思いもしなかった。もう
戻って来なくたってよかったのに。トーカルからの通知が盗まれたらしいと知
ったときは、私は神に感謝する思いだったけれども、今はまるで反対。どうし
て戻った? 罵声を浴びせてやりたい。信じたくない。あれがあるせいで、敏
之が私から離れて行ってしまう……>
そんなことが、そのページには書かれてあった。
「まさか」
小さくつぶやき、敏之は続きを急いで追った。自分の読む速度の遅さがまだ
るっこしく感じられる。
<……通知を取り上げたのは、私の近くにあの子を置いておくため。そう信じ
込むことで、罪の意識よ、消えてほしい。通知は燃してしまったけど、私のし
たことははっきりさせとかなくてはならないと思うから、ここに書き残すと決
めた。いつか、この事実を笑って敏之に話せる日が来ればいいのに>
そこで日記は途切れていた。
(何で? 分からない!)
叫びたいのをこらえ、敏之は心の中で叫んだ。
(どうしてそんな風に考えたのさ? 僕がお母さんから離れて行く訳がないだ
ろう。東京で暮らすことで、距離では離れるかもしれないけれど、会えなくな
る訳じゃないんだし……)
頭の中でぐるぐると何かが周り巡っている。敏之は気分が悪くなり、涙が出
そうになっていた。
彼は母親の心意を知りたくて、前の方のページへと手を動かした。焦って音
を立ててしまったが、敏之の母は気付く様子もない。
「あっ!」
敏之は、小さい声で悲鳴を発した。あれだけ話してくれなかった父親のこと
が、そこには書かれているらしかった。
<敏之が第一志望しているトーカルが、洋菓子のパレスを吸収合併するという
記事が新聞にあったけれど>
このことは、敏之もいつか新聞で読んで知っていた。
<何てこと……。パレスはあの人が勤めているところなのに。運命のいたずら
なんて使い古された言葉ではすまされない、何かがあるというの? このこと
はきっと、敏之にもあの人にもよくない結果をもたらすと思う。何も根拠はな
いんだけれど、そんな気がしてならない。何とかして敏之をトーカルから気持
ちを離れさせたいんだけれど、どうしたらいいのか……。今は分からない。見
当もつかない。ただ、敏之がトーカルに入れなくなることを願うだけ……>
「そういうこと……」
敏之は力が抜けていくのを感じた。へなへなと全身が柔らかくなり、ついで
溶けて流れてしまいそうな、不安定な精神。
(僕はどうしたら)
心の中で、松澤敏之はつぶやいた。不思議と言うべきか、静かな気持ちが敏
之の中で広がって行った。
(どうしたらいいのか、僕も分からない。お母さん、あなたのしたことは僕に
とって許容範囲を越えている……。だけど、これまでに僕に色々としてくれた
あなたを感謝する気持ちもある。僕がお母さんの言いつけを守って、この日記
を見なければ、こんなことにならなかったのも事実……)
敏之は次に、たとえ心の中と言えども口にするのは恐ろしい言葉を挙げた。
(これを見なかったことにするか、それともあなたをコロスか……)
敏之はほんの一瞬間だけ迷ってから、声を振り絞った。久々に喋るような気
がして、舌が震えるような感覚がする。
「お母さん」
そう言いながら、彼は母親の肩に手をかけた。
−終