#2463/5495 長編
★タイトル (AZA ) 93/12/31 9:58 (159)
ダイイチシボウのこと <19> 永山
★内容
松澤は、家の前で不審なものを見かけた。その「もの」とは人間。そいつは、
松澤の家の前でうろうろしているのだ。少し離れて様子を窺っていると、夕闇
の中、浮かび上がるシルエットからその人物はどうやら女性らしかった。
女の外見は、見る者に恐怖さえ感じさせた。乱れに乱れた髪。夕日に光るの
は、爪に塗られたマニキュアか。爪はかなり長く伸びているようだ。女は、細
い腕を頭の方へやり、髪をかきむしるような仕草をしている。そのせいで、髪
が乱れているのだろうか。足の方は自分の意志で動いていないのか、まるで酔
っぱらいだ。少しばかり高さのある靴は、おぼつかないステップを刻んでいる。
その上、女は独り言をぶつぶつと口にしているらしい。何を言っているのか
分からないが、まるで、呪詛のお祈りのように聞こえる。
女のやっていることが、発狂したあまりの奇妙な踊りのように見えるため、
松澤はその女をとがめるのを躊躇してしまっていた。
そんな間にも、女は踊りを続けている。踊っているというよりも、見えない
相手に向かって喧嘩をしているように思えてきた。
しばらく観察を続けて、松澤は女が口に何かをくわえていることに気が付い
た。どうやら、四角い紙製の物のようだ。それを女は、右手と左手で奪い合う
ようにしている。口からその物体が右手か左手へと移ったとき、呪文のような
言葉を、女は吐いているのだ。正しく、狂人のような振舞い。
松澤は、まだ恐ろしさを感じていたが、とにかくやめさせようと思って、女
に近付いた。恐る恐る、声をかける。
「何をやってるんです。迷惑だから……」
どのように忠告すべきかを考え考え、言葉をつないでいた松澤は、女の顔を
見て言葉が出なくなってしまった。見覚えのある顔だったのだ。
「君は……」
やっとのことで、それだけを絞り出した松澤。
何日か前に初めて見た顔のはずなのだが、衝撃のせいか、記憶が欠落でもし
たかのように松澤は相手の名前までは口に出せないでいる。
松澤の前では、千堂麻知子が奇妙な踊りを続けていた。一人で二人の声を使
い分けながら。
「これは返さなくちゃならないのよ」
「だめだ、だめだ。そんなことしたら、僕は……」
「分からないな」
報告を受けた平成は、首を傾げるしかなかった。一緒に聞いていた小出も同
じである。
彼ら二人の前には、顔なじみになった松澤敏之の姿があった。
「順序立ててまとめていくと、君と同じ大学に通っている四回生の女−−名前、
千堂麻知子だっけ? その千堂が君の家の前で何か騒いでいた」
「騒いでいたと言うよりも、ふらふらしていて、気が違ったみたいに踊ってい
るように見えました。こう言っては何ですが、一人で喧嘩しているみたいに、
罵り合っていました。身の毛がよだつっていうか、本当に背筋が震え上がった
のは、あれが初めてでしたよ」
「ふむ……。それをやめさせようとした君は、彼女が君宛に書かれたトーカル
合格の通知を持っていることに気が付いた」
「はい。それで、どういうことなのか話を聞き出そうとしたんですけど、千堂
さんはもうおかしくなってしまったのか、何を聞いても、首を横に振るばっか
りで……。合間合間に『僕じゃない!』って男みたいな声で叫んだり、『あな
たが大人しくしていないから、こうなったのよ!』と女性の声で詰ったりしま
したけど、こっちの質問の答にはなっていませんでした」
「今、千堂って女学生はどうしてる?」
隣の小出に尋ねる平成。
「当初、最寄りの派出所で事情を聞こうとしたようですが、手に負えなくて、
病院の方へ運んだそうです。この場合、適切な処置でしょう」
「親御さんへの連絡は?」
「まだです。その女学生は手がかりとなるような物は持っていなくて、電話番
号とか住所とかが分からないので」
小出の返答を聞いて、平成警部は松澤に視線を戻した。
「君は、彼女の連絡先を知らないのかね?」
「はあ、僕もついこの間、千堂さんとは知り合ったばかりで……。ある人を介
して、知り合ったんです」
「その、ある人ってのは、千堂麻知子の電話番号、知っているんだろう、もち
ろん?」
「そうだと思うんですが、さっきその人、栗本さんと言いますが、そこへ電話
したら、留守だったらしくて……」
「うーん。大学に問い合わせた方が早いかもしれんが」
腕時計を見ながら、平成はつぶやく。夜七時を過ぎていた。公立大学の場合、
事務職員は公務員であるから、午後五時を過ぎてしまった今では、大学に残っ
ているかどうか。
「どうしたものか……。松澤君、とりあえず、その栗本って人につながるまで、
何度でも電話してみてくれないか。こちらがやってもいいが」
「あ、いえ、自分でかけます」
松澤はことの成行きに戸惑う様子を見せながらも、きっぱりと言った。
結局、三十分ほどして栗本につながり、千堂麻知子の住まいの電話番号が分
かった。幸い、家族三人暮らしで母親が在宅していたので、警部から彼らにこ
との次第を伝え、すぐに病院の方へ行ってもらうことになった。無論、刑事達
や松澤敏之も病院へ向かう。
ところが、彼ら全員が無事に病院に着いたものの、それはあまり意味をなさ
なくなってしまった。というのも、千堂がいつまで経っても落ち着かないでい
るため、やむを得ず、鎮静剤を医者が与えたのである。そして現在は、千堂は
静かに眠っている。
「刑事さん、麻知子はどうしたんでしょう?」
ほとんど事情を説明されないまま、病院へと呼び出された千堂の母親は、お
ろおろした態度のまま、平成警部に尋ねてきた。その前に聞かされた話による
と、父親の方は出張で留守にしているらしい。
「今は簡単な説明だけ、させてもらいます」
平成は、確実なところが未だに掴めていないこともあって、ぼかして答える
ことにした。まず、松澤のことを紹介するとしよう。
「こちらは、お嬢さんと同じ大学に通っている松澤敏之君です」
「初めまして、今晩は」
松澤が頭を下げると、千堂の母も黙って頭を下げた。それから松澤に、不審
な視線を投げかける。まだ、目の前の青年が自分の娘とどういう関係を持って
いるのか分からないからであろう。
「実はですね、麻知子さんはこの松澤君の家の前で倒れていたんです」
「まあ……」
「それを見つけたのが、彼でして。少し前に、就職活動を通じて知り合ったば
かりだそうですが、知っている顔だったので、こうしてここまで来てもらって
いる訳です」
松澤がここに来ていることが、千堂の母に不自然に聞こえないように説明す
る平成。
「それはそれは……。では、あなたが麻知子を助けて……?」
「い、いえ。助けただなんて大げさです。僕はただ、近くの」
松澤は言葉を飲み込んだ。近くの派出所へと言いかけたらしい。いきなり警
察に連絡したのでは、おかしくなってしまうと察したか、松澤は言い直した。
「家の電話を使って、救急車を呼んだだけなんです」
「どうもご迷惑をおかけいたしまして……すみません」
再び、頭を深々と下げる千堂の母。
その態度に、平成警部の方が恐縮してしまう。何しろ、こちらはいささかの
脚色を施して話しているのだから。松澤だって同じ気持ちだろう。
「それで、麻知子はどうして倒れていたんでしょう?」
「それは……。私は医者ではないので断定はできませんが、ちょっと耳にした
ことがありまして」
「何でしょうか?」
「麻知子さん、夢遊病とかそういった類の持病をお持ちですか?」
「は?」
「いや、大変、失礼な質問だと承知の上で、お伺いします」
「娘にそんなことはないと思いますけど……」
「そうですか。実は、娘さんが倒れているのを彼が発見した折に」
平成は松澤をの方を示しながら、言葉を続けた。
「少し、うわごとを口走っていたようなんですね。それも、全く意味をなさな
い言葉の羅列だったそうです」
「そんな……。信じられません」
首を横に何度も振る母親。
「落ち着いてください。そうと決めつけている訳じゃないんです。そういうこ
とがなかったというのは、本当ですね?」
「本当ですわ」
「それでは……。封筒について、何か聞いていませんか、お母さん?」
平成は、いくらか考えてから、封筒という単語を選んだ。言うまでもなく、
意味するところはトーカルの合格通知だ。
「封筒、ですか。さあ……。何も思い当たりませんが、それが何か、娘のこと
と関係あるんですか?」
「麻知子さんは、うわごとの中で、特に『封筒が』というような言葉を繰り返
して言っていたらしいんです。何か、ないですかねえ」
「……いいえ、何も」
「それでは、ご迷惑かとは思いますが、千堂さん。娘さんの部屋を見せてくだ
さいませんか?」
「どういうことでしょうか?」
さすがに訝しむ顔つきになって、千堂の母は問い返してきた。
「娘の部屋を調べる必要があるんでしょうか? 私には分かりませんが」
「こちらの見解としては、娘さんは何らかのショックを受けて、路上に倒れて
いたと考えています。そのショックが、肉体的なものか精神的なものかは分か
りませんが、何かの犯罪に巻き込まれてしまった結果、そうなったとも考えら
れるのです。ですから、その手がかりを探すために、まず、娘さんの部屋を見
せていただけないかと思いまして」
「そういうことでしたら……。主人も納得すると思いますわ」
平成は、相手がどうにか承諾してくれたので、心の中でほっと一息ついた。
ここまで話を持って来るのに、冷汗のかき通しだった。
そこへ、絶妙のタイミングで小出刑事がかけて来た。
「警部! 千堂麻知子から話を聞けるようになるには、少なくとも二日は見た
方がいいとのことです!」
その声に、千堂の母親は不安の度合を強めたようだが、平成としては安心で
きた。これなら、千堂麻知子が逃げ出す心配はないだろう。
「そういうことです、千堂さん。麻知子さんの側に着いていてあげたいとはお
思いでしょうが、その前に、ちょっと我々の捜査に手を貸してもらえないでし
ょうかね?」
「……分かりました」
迷った表情を見せた相手であったが、踏ん切りを着けたようにうなずいてく
れた。
−続く−