#2461/5495 長編
★タイトル (AZA ) 93/12/31 9:52 (186)
ダイイチシボウのこと <17> 永山
★内容
第五章
僕は迷っている。通知を返そうか返すまいか、ということを。今さら返して
も、遅いだけかもしれない。何の役にも立たないかもしれないが、少なくとも、
本来の持ち主へ返すだけで、僕の気持ちは安らぐかもしれない。それだけ、僕
は追い詰められた気分になっている。
昨日、栗本さんから呼び出しがかかったから、何だろうと思って行ってみた
ら、まさか、あの男と顔を合わすことになるなんて。
男の名前を栗本さんから聞かされたときの衝撃。全身の肌に寒気が走り、周
りの景色が急激に収縮していくかのような眩暈を覚える、あの不快な感覚は二
度と味わいたくない。よく、あそこで取り乱さずに、あれだけの対応ができた
ものだと、己に対して感心してしまう。
あの男・松澤敏之は、何を考えて僕に近付いて来たのだろう? この僕−−
千堂麻知子には何の想像もつかない。想像するのが恐ろしいのだ。
ひょっとしたら、何もかも知った上で、あの男はこちらに接近して来たのだ
ろうか? 僕がトーカルからの合格通知を盗み取ったということを突き止め、
僕を摘発するために……。
いや、それだと話がおかしなことになる。まず、僕が通知を盗ったことなん
て、調べられるはずがない。仮に、近所の誰かからこれこれこんな人物がうろ
ついていた等と聞き込んだとしても、それが僕かどうかなんて、確認のしよう
がないはずだ。
それに、万々が一、僕のやったことだと相手が突き止めたとしよう。それな
らばどうして、直接、僕を詰問しないんだ? この場合、一般的に考えるまで
もなく、悪いのは僕となろう(ここで言う『僕』とは、もちろん、『あいつ』
のことだ)。松澤は、何の策も弄することなく、僕を問い質したらいいんだ。
「どうしてこんなことをするんだ?」と。僕は何も言い返せまい。「あいつ」
のやったことだと説明する自信は、前にも書いたように、ない。
松澤敏之がそうせずにいるということは、何かがあるのだろうか? 僕の仕
業だとする証拠がないのだろうか? それにしても、何か探りを入れてきても
いいようなものだと思う。
恐ろしい想像だが、もしかすると、僕に対して松澤は復讐を考えているのか
もしれない。報復。彼にとって、僕は未来を盗んだ許し難い人間だ。そんな相
手に復讐しようとするのなら、当然、同じ目に遭わせてやろうと考えるに違い
ない。それには、僕の就職先を知らねばならない。だからこそ、彼は穏やかに
接して来たのではないか? 最初は静かに……という訳か。
ここまで思考を広げておいて、僕は考え直す。今日、聞いた話の限りでは、
あの男には、まだトーカルへ入れる可能性がわずかながら残されているらしい。
少しでも失地回復の可能性があるのならば、盗んだ相手に復讐だの報復だなと
考えている余裕はないというものだろう。一刻も早く、通知を取り返し(つま
り、事故に巻き込まれたことを証明し)、すぐにトーカルの人事につなぎを取
るのが選択すべき最善の道だ。
そう考えると、松澤は僕が通知を奪い取ったことに、まだ気付いていないと
考えるべきではないか。いや、それ以前に、僕のことを疑いもしていないよう
にも思える。
そうなのだ。僕は偶然が重なる形で、彼への通知を横から奪い取った。この
行為は偶然であるが故に、普通に論理的に思考を働かせても、正解にたどり着
くことができない難問となっているのだ。松澤の方にも、何か幸運な偶然がな
い限り、通知を盗んだのは僕(もう一人の僕)だという真実にたどり着くこと
はできないに違いない。
僕は安全圏にいる。そう確信しよう。自分自身を信じなくてはならない。
そうではあるが、ここしばらくは、栗本さんと会うことは避けるのが賢明な
ようだ。あの人と出会うことは、それだけ松澤と顔を会わせる機会も多くなる
気がする。
全く、この件については、偶然に翻弄されっ放しだ。僕が、大学から唯一人
のトーカル合格者がいることを知ったのも偶然ならば、僕が松澤の家に行き、
そこへ郵便配達夫が彼への合格通知を運んで来たのも偶然。僕の内から「あい
つ」が顔を出し、松澤敏之本人のふりをしたのが成功したのも偶然に数えられ
よう。その流れで女の子を殺してしまい、それが今までばれないで来ているの
も、近くで連続幼女殺害事件が起きていたという幸運な偶然。そして今日、知
ったのが、僕が通知を奪い取った相手の松澤が、栗本さんと知り合いだったと
いう偶然。一つの事件の加害者と被害者が、一人の人物を介してつながるなん
て、こちらにとっては不幸な偶然ではある。
考えてみると、うまくバランスが保たれているものだ。幸運な偶然があった
後に、不幸な偶然が顔を出す。自分は神秘主義者でも何でもないのだけれども、
こんなことが続くのであれば、正に神の意志を感じてしまいそうだ。願わくば、
幸運な偶然が続くようにと、祈りたい。
今日は、何故だか知らないが、化粧を濃くしてしまった。いつもなら、ほん
の申し訳程度にしか施さないのに、今朝に限って念入りなまでの時間のかけよ
うだった。おかしい。僕はどうしたんだろう? あまり好きでないのに、真っ
赤な口紅を引きさえした。
アクセサリーを手に取りもしたが、それはさすがにやめた。似合わないこと
は、僕自身がよく知っている。
一つだけ会社説明会に行き、その足で大学の講義に向かった。すると、思っ
ていた通り、知り合いの男子学生から、くだらない冷やかしを聞かされてしま
った。
「今日はきれいに化粧してさ。心境の変化?」
なんてくだらない。こういう反応をされるのは、一番嫌いだ。それが分かっ
ていたのに、僕は化粧を念入りにやってしまった。本当に、どうかしているん
だろうか?
僕の中で変化が起こっている。あいつが何もしてこないと思って、油断して
しまったようだ。ここで言う「あいつ」とは、松澤敏之のことではなく、もち
ろん、もう一つの「僕」のことである。
僕は今まで、男に負けないようにと努めてきた。と言うよりも、むしろ、こ
の世の中に厳然として存在している、男女差別に押しつぶされないように努力
してきたと言うべきか。
小学生の頃、僕は青色が好きだったから、男子がしているランドセルの方に
よく目が行ったものである。自分が持っていた、いや、持たされていた赤のラ
ンドセルは、何か毒々しく、生き物の血の色のように思えたものだ。それなの
に、学校教育という訳の分からない化物は、男子は黒(僕の通わされていた小
学校では青だったが)、女子は赤と決めつけているのである。今ではさほど、
赤を嫌悪することはなくなったが、青系統の色が好きなのは変わっていない。
女はみんな、赤とかピンク色が好きだと思うのは、大きな間違いである。
中学生の頃、学校に初めてブラジャーを着けて行ったとき、一部の男子から
酷くからかわれた。単に成長が早い(さほど早いとも思えないが)という、全
くもって非論理的な理由だけで、中身の乏しい悪口や卑猥な言葉を浴びせられ
たのである。これは、私……僕だけでなく、他の女生徒も同じ目に遭ったと記
憶している。その他にも、生理による体育や水泳の欠課も、男子生徒からの揶
揄の標的とされていた。不条理極まりないこの仕打ちに、僕はいわゆる女言葉
を使うことを拒絶し始めていた。それも、無意識の内に。だからこそ、今でも
こんな言葉遣いをするし、自分のことを「僕」とも称しているのだ。
嫌なことばかり思い出されてしまうのだが、続けてみよう。高校生の頃は、
男子と一緒になろうとしてばかりいた。髪もなるべく短くし、学校以外ではス
カートを着ないようにしてきた。一度、高校二年の冬だったと記憶しているの
だが、制服反対の署名運動を起こしたこともある。だが、これは僕の親が猛烈
に反対してしまい、あっけなく潰されてしまった。両親は、育英会とかでの体
面を考えたのだろう。
でも、そのおかげもあって、僕は高校からの推薦をもらって、今の大学に入
れることになったらしい。ここで栗本さんと出会えたのだから、よしとしなけ
ればいけないのかもしれない。
栗本愛さんは、僕が入学したときは一つ上の先輩だった。初めて栗本さんと
会ったのは、クラブ見学で色々な部室を巡っていたときのことで、少し荒っぽ
い喋り方をするけれども、とても面白い人だという印象を持った。そこのクラ
ブは自動車クラブという、何をするところだか、僕にはもう一つ掴めない部で
あったので、入ることは敬遠した。それでも、栗本さんとはそれからもちょく
ちょく会うことになる。何故ならば、第二語学で同じクラスに割り当てられて
いたからである。栗本さんは語学は苦手で、一度落としていたのだ。
それからずっと、友達としてつき合ってきたと思う。栗本さんが、他の男と
違っていたのは、世間で言うところの女らしくない言動を僕がしても、何も気
にせずにいてくれた点であろうか。気にしないどころか、それを美点として誉
めてくれたこともあった。大学に入ってからだけでなく、高校三年生以前の他
の全ての男達は、僕が男っぽいことを言ったりやったりすれば、幻滅したよう
な顔になるか、息がるんじゃねえという風な意味の忠告をするのである。そん
なもの、余計なお世話でしかなかった。
栗本さんは、僕を一人の人間として見てくれた初めての男性だったと思う。
もっと言えば、初めての人だったかもしれない。僕と栗本さんはそんなつなが
りだったため、いくら僕の方が慕っていても男女の恋愛関係のようにはなるこ
とはなかった。
それでも、過去に一度、そうなりかけたことがあった気がする。本当になり
かけたのかどうか、自分でもはっきりしない。それは、栗本さんが三回生にな
る前の春季休暇のとき、バイクで交通事故に遭ってしまい、その一年を棒に振
るような重傷を負ってしまったときのことである。他人に言わせると、僕はか
いがいしく栗本さんを見舞ったことになるらしい。確かに、幾度かは講義をさ
ぼってまで、栗本さんの入院している病院まで、電車やバスを乗り継いで行っ
たこともある。一人暮しをしている栗本さんだから、鍵を借りて衣服を取りに
下宿まで行ったこともあった。
そんなとき、たった一度だったが、僕と栗本さんが病室で二人きりになった
ことがあった。陳腐ではあるが人気のあった恋愛物のテレビドラマの話をして
いたせいか、そういう気分になったのだろう。折しも、ドラマと同じように外
は雨だった。僕と栗本さんは、真剣に見つめ合った。
それから何があったかと言うと、何もなかったのである。それだけ。ただ、
見つめ合っただけだが、あれは紛れもなく、恋愛感情といった物が混じってい
た行為だと、僕は思っている。それで終わってしまったので、そのときの感情
の正体が何なのか、今になってもはっきりしていないままではあるが。僕が漠
然と、恋愛感情を含んだ、複雑な感情の発露だった信じているだけなのかもし
れない。
次の年、つまり去年の四月、僕と栗本さんは同じ学年になった。あのときは、
栗本さんに追い付けたような気がして、嬉しい気持ちになった。あるいは、栗
本さんが僕を待っていてくれたように感じたから、嬉しかったのだろうか。
そのままいつかの複雑な感情も忘れることなく忘れ、僕は就職活動に入った
のだ。最初に、トーカルを志望するようになったのも、栗本さんが前々からそ
こを狙っていたと知ったからである。
だが、結局は、僕も栗本さんもトーカルを落ちてしまった。松澤敏之という
男のせいだと、無茶な理屈で彼にはひどい目に遭わしてしまったと、今では謝
罪したい気持ちで一杯になっている。が、これを明かす訳にはいかない。
僕と栗本さんがトーカルに蹴られてしまったことで、僕の内から、あいつが
目を覚ましたのかもしれないと思うようになった。あいつは僕が昔、封じ込め
た、女の部分なのだと考えられる。どうして、僕と栗本さんのトーカル不合格
がこれにつながって来るのかを解析すれば、次のようになろうか。
このまま就職活動を続けても、男である栗本さんと、女である僕・千堂麻知
子は、同じ会社に入れそうもない。今年の、特に女子学生に対する就職戦線の
厳しさに加え、唯一の頼みの綱としていたトーカルが切れたことで、その思い
は僕の中で一層強くなったのだろう。大学を卒業し、別々の会社に入ってしま
えば、栗本さんに会えなくなる。例え、連絡を取り合ってたまに会うことがあ
っても、栗本さんが離れて行くことに変わりはない。そんな気持ちが僕の中で
強まり、それがあいつの復活を誘発したのだ。女として栗本さんとしっかり結
び付いてしまえば、別々の会社に入ったとしても、遠く離ればなれに暮らした
としても、「赤い糸」のような物は残るんだ。そう思い込んで、あいつは僕を
乗っ取ろうとしたのだろう。
僕は今、弱気になっているみたいだ。あいつの気持ちが、少しは分かるよう
な気がしているのだから。あいつは必死なのだ。栗本さんから離れたくない、
いつまでも一緒にいたいという気持ちで、突っ走っている。
僕だって、できることなら、あいつ−−彼女のような行動を取ってみたい…
…。ふっと、そう思うこともある。ことに、栗本さんのことを考えると、そこ
へ連想が行ってしまうことが多い。
そう、この間、化粧を念入りにしてしまったのは、彼女の攻撃なのだ。そう
でなければ、僕が弱気になっているせいで、相手の方が精神的に上回った。つ
まり、化粧を人並にしてみたいという欲求が、はっきりと心に表れたのだと思
う。
彼女の気持ちも分からないことはない。しかし、今になって自分の生き方を
変える気は、僕にはまるでない。就職活動でも、泣きたくなるほどまでにあか
らさまな男尊女卑を見せつけられた。僕は、こんな差別がこの国からなくなる
まで、今のスタイルを変えないと心に誓ったのだ。
−続く−