#2448/5495 長編
★タイトル (AZA ) 93/12/31 9: 7 (183)
ダイイチシボウのこと <4> 永山
★内容
これは……。
車を路上駐車させて、わずかばかり歩いてきた僕は、目的の家−−うちの大
学からトーカルへの唯一の合格者の家を目の前にして、少なからず驚いていた。
こんな小さな家だとは。もっと、それなりに金持ちの家庭で、子供に家庭教
師を何人も就けられるようなところかと思っていたのだが、それはあまりに漫
画的な空想だったらしい。
とにかく、僕は表札で確かめた。夕刻、暗くなりつつあったので読みにくか
ったが、間違いない。
そこへ、バイクに乗った郵便配達の人が来た。
瞬間、僕は自分でも信じられない行動に出ていた。
「あ、うちへ郵便ですか」
「そうですよ。松澤さん?」
人のよさそうな声が返ってきた。比較的若い郵便配達夫は、少しも僕のこと
を疑っていないようだ。
「はい」
「速達があるから、直接、渡そうと思っていたんです」
そう言いながら、相手はこちらに郵便物の束を差し出してきた。しかも、何
ということだろう。一番上に、トーカルからの速達が!
「どうも」
動揺を内に隠しながら、僕は礼を言った。それがやっとだった。
それから、郵便配達の姿が見えなくなるまで、そこで立ちすくんでいた。ど
うやら、家の者には気付かれなかったみたいだ。
僕は少し考えてから、問題のトーカルからの速達だけを手元に残し、他の郵
便物をそこの郵便受けに入れてやった。盗むにしても、できるだけ少ない方が
いいだろう。
盗む! そうだ、これは犯罪なのだ。急いでこの場を離れなければ。こうな
ると、当初の目的−−それさえ、曖昧だが−−は打ち捨てて、即刻、ここから
遠ざかるべきなんだ。
そのとき、どこの子供か知らないが、小さな女の子がこちらを見ているのに
気付いた。白いスカートをはいていて、うちの近所のがきと比べたらかわいげ
があるが、今は何となく不気味に感じてしまう。
僕はびくっとしたが、動じることはないと、自らに言い聞かせた。そのまま、
ゆっくりと立ち去ればいいんだ。無視すればいい。
ところが、その女の子は何を思ったのか、さっきの家の郵便受けに手を突っ
込もうとするではないか! これでは家の人間に気付かれるかもしれない!
慌てて僕は、その女の子に駆け寄り、手を強く握った。
それで食い止めたつもりだったが、今度は今にも女の子の顔が泣き叫び出し
そうに見えた。必死になって、僕は手でその子の口を押さえつけた。口だけを
押さえたつもりだった。
どのぐらいそうしていたのだろう。まるで時間の感覚がない。
はっと気付いたとき、すでに女の子は、僕の腕の中でぐったりとしていた。
と同時に、女の子の身体が急に重くなったような感触があった。
「お、おい」
情けない声を出していたのは、僕だった。とても自分の声だとは思えないそ
れは、虚ろに耳に響いた。
僕はその子供の生死を確かめたかったが、恐ろしくてできなかった。それよ
りも、このままこうしていると、誰かに見られてしまいそうで、そちらの方に
もっと恐怖を感じてしまうのだ。
決断すると、僕は周囲を見渡した。誰にも見られていないことを確認すると、
女の子をしっかりと、なるべく小さく見えるように抱え、自分の車まで猛然と
駆け出す。いいか、落ち着くんだ。
僕は助手席側のドアを開けようとした。手が震えてキーがうまく差し込めな
い。が、何とか開けて、女の子の身体を半ば投げ込むようにして、座らせた。
そして急いで反対側に回り、運転席に自分の身体を押し込める。
あてはなかったが、とにもかくにも、車を発進させよう。ところが、意識で
はそうしようと思っているのに、また手が、指が震えて、キーがなかなか入ら
ない。左手を右手に添え、やっとのことでキーを押し込むと、過剰な力でそれ
を捻る。エンジンがかかる音に一瞬、驚いてしまう。落ち着くんだ!
車をスタートさせる。
最初の何分間かは、自分でもどこを目指して走っているのか分からなかった。
はっと気が付くと、山が見える方向へと走っていた。どうやら無意識の内に、
人のいない場所、いない場所へと車を走らせていたらしい。
山の麓まで、もう少し進んだところで、まだ造成される前らしい林を認めた。
その周囲に人家はない。これはラッキーだと、自分で思い込んだ。
車を急停止させる。そのとき、助手席の女の子の身体が、がくんと前に傾い
た。そして物がぶつかり合う音。ダッシュボードに女の子の額がぶつかったの
だ。
慌ててその小さな頭を手で押さえ、元のように座らせようとしたら、子供の
生気のない瞳と、目があってしまった。
「ヒ」
と、少しだけ悲鳴を上げてしまったが、それを続けてしまうのを何とかこら
え、僕は車から降りた。そして助手席の方へと回り、子供の遺体を担ぎ出す。
軽いのか重いのかさえ、感覚が得られない。
僕はそのまま、なるべく林の奥へ分け入ると、とりあえず息をつき、女の子
の身体を草の上に横たえた。そして考える。
どうすべきか。まず最初に、女の子の左胸に片耳を近付けた。何も聞こえな
い。聞こえるのは、自分の乱れた呼吸の音だけだ。念のためにと、最後の望み
を託すつもりで、左手首の脈を測ってみたが、やはり何の感触も得られなかっ
た。
覚悟はしていたが、間違いなく死んでいる。この女の子は死体と化し、僕は
殺人者と化したのだ−−。
どうすべきか、改めて己に問う。ここに放っておけば、どうなるだろう?
この子がいなくなったと知れば、いずれここを捜すことになるかもしれない。
どのぐらい、あの家からここまで距離があるのか分からないが。
どちらにしても、見つかることを想定して、せめて、何か偽装工作をしてお
くのが賢明な行動であろうか?
時間がないので、いい考えは浮かばない。どうメリットがあるのか、自分で
もよく分からなかったが、変質者の仕業に見せかけることにした。女の子のス
カートをめくり上げ、下着を膝小僧の下までずらした。
そうだ。思い出した。ここより少し離れた場所ではあるが、三件目の幼女殺
害事件があったんだ。その一環の犯罪に見せかけることができれば、自分の身
を安全圏に置くことができるかもしれない。そうとなれば、もう少し、衣服を
乱しておかなければならない。
そうしているとき、自分の髪の毛が、ふわりと子供の着物の上に落ちた。そ
うだった! 余計な偽装よりも、自分の髪の毛を落としていないか、注意しな
くては。どの程度科学捜査が進歩しているのか知らないが、髪の毛一本でも犯
人特定の有力な証拠になると聞いたことはある。
だが、どんどん暗くなっているため、非常に見つけにくい。できる限り、回
収したつもりだが、見落としがないとは断言できない。
僕はこれだけのことをした後、自分の服がほころびたり、ボタンが取れたり
していないかをチェックした。大丈夫みたいだ。よし、立ち去ろう。無論、例
の速達はしっかりと握りしめて。
車に戻ったとき、助手席に目が行った。何かが落ちている。じっと目を凝ら
すと、それは髪の毛だった。自分のではない。とすると……。
また恐ろしくなった。助手席を中心に、執拗なまでに掃除をしなくてはなら
ない。すぐにでもやろうかと思ったが、このままここに車を止めて掃除をし、
万が一にも、誰かに見られてしまっては、元も子もない。そう考え直すと、僕
は急いで車を発進させた。
松澤敏之は、当然、母が家にいるものだと思って帰宅したのだが、家の中は
真っ暗であった。朝、起きたとき、「今日も出かけるから、家になるだけいて
よ」と頼んでおいたのだが、どうしたんだろう? 母さんがこんな時間に出か
けるなんてのも、珍しいことだし……。
訝しく思いながら、部屋の明りをともす。と、テーブルの上に書置きがある
ことに気付いた。
やや流れたような字で、そこにはこう記してあった。
<おじいさんが交通事故に遭ったと、電話連絡がありました。午後二時頃に。
見舞いに行きますので、今晩は帰れなくなるかもしれません。何か買って食べ
てください。二:三〇>
「おじいちゃんが!」
びっくりして、電話に飛びつく。手近にメモしてあった母の実家の番号を確
かめ、ダイヤルする。呼び出し音が十度以上繰り返されたが、向こう側の送受
器が持ち上げられることはなかった。
(病院か、やっぱり)
慌てても仕方がないと思い直し、敏之は向こうからの電話を待つことにした。
何か夕食になる物を買ってこようと思ったが、はっと思い出して、郵便受けに
走った。まだ、今日は金曜日。最後の望みをかけてもいいじゃないか。噂なん
か気にしないで……。
が、それは空虚な期待であった。多くの郵便物が、乱雑に入れてあったが、
それらしき物は見あたらない。二度、見直してみたが、結果は同じだった。
(……落ちたか……。いい感じだと思ったんだけどな。ああ! もう、早く吹
っ切らないと! さあ、明日から、また他の企業にあたって行かないと)
さすがに落胆したものの、敏之は開き直った。自分を落とした代わりに、お
じいちゃんを助けてくれよな、神様。そう思うことにした。
そして、すっかり暗くなった中、いくらかのお金を握りしめ、今晩の食事を
求めて出て行った。
二十四時間営業のコンビニエンスストアから戻って来ると、敏之は幕の内弁
当を電子レンジで温め始めた。同時に、やかんをコンロにかける。
と、そのとき、電話のベルが鳴った。
母さんだ! と察すると同時に、彼は電話に駆け寄った。
「もしもし、松澤ですが」
「あ、敏之? お母さん」
母親の声を聞いて、敏之は少し安心した。それほど深刻な様子ではない。き
っと、おじいちゃんも大丈夫なんだろう。
「今、病院? 少し前に、おばあちゃんの家に電話したんだけど」
「そうなの、病院なの。おじいちゃん、散歩して来た帰り道で、乗用車にはね
られちゃって……。そんなに外傷はないんだけれど、脳波とか検査しなくちゃ
ならないらしいから、病院にいるのよ。一応、付き添いたいから、今晩はお願
いね」
「うん、分かってる。頑張って元気になるように、おじいちゃんとおばあちゃ
んに言っといてよ」
「ええ。それより、敏之。ごめんね、家にいられなくなって。どうだったの、
通知の方は?」
「それが……だめだったみたい」
明るく答えようとしたが、その意志とは裏腹に、敏之の声はかすれてしまっ
ていた。思わず、せきばらいをする敏之。
「そうなの。残念だったわね。でも! もっと他に、敏之にぴったりの会社が
あるわよ、きっと。がっくりしてないで、頑張らなきゃ」
「うん。もちろん」
母親に優しく声をかけられて、どうにか気分がすっきりしてきた。実は、喉
が痛くなっていた敏之だったが、それも和らいだ感じだ。
「明日、早速、ゼミナーにでも回ってみようかなと思っているから、家に帰る
の、何時になるか分からないけど」
「いいから、頑張りなさい。こっちの方は、多分、明日の昼ぐらいには帰れる
と思うから、そのつもりでいて」
「はい、分かった」
「じゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
電話を切ってから、敏之はふぅっと、大きく息を吐いた。
(うん、これで落ち着いた)
と思っていたところに、ピーイッという響き。ちょうど、お湯が沸いたらし
い。敏之は、例えこんなつまらないことでも、自分は運がいいんだと思い込む
ようにした。
ところが、そんな敏之の思いは、その日の内に破られることになる。
食事も終え、風呂から上がったところで、外が騒がしいことに気付いた。窓
にヘッドライトによるものらしい光が当たっている。と思ったら、それは消え
た。珍しく、向かいの家に車での来客らしい。
何かしら緊張する敏之。
(車が来たのに、音が聞こえなかったな。さっき、風呂で頭を洗っていたとき
だったのかな。それとも、ドライヤーを使っていたときか)
そう思いながら、道路に面した窓を開け、彼は夜の空気を吸い込んだ。
−続く−