#2432/5495 長編
★タイトル (MMM ) 93/12/11 19:25 (183)
杏子の海(26)
★内容
苦しさに耐えきれず横たわった僕の目に流れ星が一つ明るく輝きながら流れたよう
でした。ああ、杏子さんが死んだのだな、と思いました。桟橋まではあと50mほど
でした。でも僕はもう立ち上がりきれませんでした。泣きながらその流れ星を見つめ
るだけでした。
『生きることは何だろうなあ。』って思いました。『死んでゆく杏子さん。』そして
これからも苦しみながらも生きてゆくであろう僕。本当に生きてゆくって何だろうと
息苦しさと胸の痛みに耐えかねて転々反側しながら考えていました。そしてどちらが
幸せだっただろうかなあとも考えていました。手紙の中で『車椅子の少年の方がずっ
と良かった』と何度も書いて杏子さんを困らせたこともありました。でも僕は体だけ
は健康に生まれてきてやっぱり僕の方が幸福だったのかなあ、と草いきれの中で思っ
ていました。
----でも僕は立ち上がりました。生きることや死ぬことを考えていたってどうしよ
うもないと思ったからでした。人生とはやっぱり“根性”なんだと。“根性”で生き
てゆくんだと。どんなに辛くても、血を吐いても、根性で生きていかなければいけな
いのだと。そして死んでゆく杏子さんはいけないんだと。死んでだけはいけないんだ
と。
僕はよろめく足で歩き始めました。もう走ることはできませんでした。桟橋のバス
停が夜の燈明に光って見えています。人一人居ないようでした。さっき杏子さんがか
けたと思われる電話ボックスの扉が風に揺られてカタカタと鳴っているようでした。
死んでだけはいけないんだ。僕も生きることがわからないけど、死ぬことだけはや
めなっくちゃ。死んだらすべてが終わりなのかもしれない。僕はきっと死んだら死後
の世界があると信じているけど、みんなは死んだらすべてが終わりだと言っている。
僕ももしかするとそちらの方が正しいような気がすることもあるけど、死んだら生き
ているときに苦しんで償わなければならない罪を放棄してしまうことになる。そうし
て家の人や親戚の人に償ってもらうことになってしまう。
僕も何度も死んだ方がましだと思ったか解らない。でも僕は死ななかった。僕は死
んだ方がましなような苦しみと小さい頃からいつもいつも毎日戦ってきた。でも死な
なかったのは、そのとき僕はいつも仏壇の前に座っていたからだと思う。そうして題
目をあげた。そして甘かった自分に…弱かった自分にその度に気付いていた。
胸元は息を吸う度に焼けるほど痛かった。でも僕は歩いた。桟橋まであと少しだっ
た。
僕たちの愛は結局実らなかったのかもしれない。でも僕らは幸せな恋をしたのかも
しれない。この世の誰よりも幸せな恋を、結局一度も手を繋いだことさえ、言葉を交
わしたことさえなかったのかもしれないけれど、僕らは誰よりも幸福だったのかもし
れない、誰よりも。
ときどき“自分の生きている価値って何なのだろう。自分は何のために生きている
のだろう。”と思ってしまいます。でも“ふっ、”と僕はその考えを吹き消してしま
う。そんなことって解らないんだ、と。そんなことどんなに考えたって解らないんだ
、と。
----僕は沈みゆく杏子さんの姿を倒れ伏しながら悲しく見つめていたようでした。
力尽きて再び倒れ伏した僕はそうして再び立ち上がりかけました。僕はもう幽霊の
ようでした。桟橋はもう目の前でした。でも僕は立ち上がれただけでもう前へは進め
ないようでした。
でも僕は一歩、また一歩と前へ進み始めました。胸の中には血がにじんでいるよう
でした。胸の痛みに耐えかねて再び倒れそうになるのを僕は杏子さんへの愛の力でど
うにか我慢し続けていました。もう限界でした。僕は血を吐き三たび倒れ伏しました
。
杏子さんとの楽しい文通やゴロと遊んだ杏子さんがよく来ていたペロポネソスの浜
辺の情景が僕の目にありありと走馬燈のように映っては消えていっていました。杏子
さんは自分の病気に負け、こうして今死んでゆこうとしている。僕も自分の病気に負
けてこうして力尽きてしまった。
黒い海の底へ沈んでいった杏子さんの姿を三たび倒れ伏した僕は悲しく見送ってい
るだけでした。
君の苦しみはもう星になって消えていったのかもしれない。
大きな大きなまっ黒い海の中に
君の苦しみは消えていったのだと僕は思う。
君は毎晩走っていた。
僕がいつも走るように
暗い夜道を僕と同じように走っていた。
何とかなる…と思ってきた。
でも、なんともならなかった。
僕の苦しみは続いた。
学校での日々の辛さはずっと続いた。
学校での日々の辛さは
3年間続いた。
いつか治ると思ってきた。
病院(耳鼻科)にも何軒かよく通った。
クラブを休んだりして一日おきに通っていたときもあった。
でも全然治らなかった。
ノドの病気も吃りも全然治らなかった。
僕の病気が治って君と話せる日が来ることを僕は祈ってきた。
でも君とは話せなかった。
僕は立ち上がったとき、たしかに君の名を呼んだんだ。もう桟橋が見えているとき
に僕は血を吐いて倒れ、もう起き上がれないと思っていたとき、僕は不思議に君の名
を叫べば君が助かるような…海面でもがいている君が岸辺に辿り着くような、また今
にも海の中に飛び込もうとしている君を僕のこのかすれた声が聞えたならば君を海に
飛び込ませないで済むような気がして僕は立ち上がって君の名を呼ぼうとした。
血で溢れた僕の喉は小さな声しか出さず、遠い桟橋に居る(またはもう冷たい海の
中に居る)君の耳に届いたはずもなかった。
君は凍えるような水の中で聞いていたんだろ。僕が走ってくる足音を。冷たい冷た
い水の中に沈みながら君は僕が懸命に君を救うために桟橋へ向かっている足音をちゃ
んと聞いていたんだろ。それなのに君は一度浸った海の中から這い出せないでいたん
だね。必死に岸辺へと泳ごうとしながらもできずにいたんだね。そうして君は苦しみ
の中で死んでしまったんだ。
僕が立ち上がった時、
草叢のなかから血を吐きながら立ち上がった時、
君も海の中で苦しかったと思う。
君より僕の方が苦しかったなんていうことは僕の思い上がりだったと思う。
君の方が僕よりずっとずっと苦しんでいたと思う。
(荒れた冬の海を前にして)
青い海の中で君は幸せだろ。
僕は白い世間の中で
もみくちゃにされ
苦しんで
今にも死んでしまいそうなんだ。
青い海の向こうに
冬の海に揺れながら立っていて僕を見つめている君が見えて来る。
孤独に耐えている僕を、
僕を見つめている君の瞳が僕の胸に突き刺さるように見えてくる。
桟橋のバス停の灯りが見えてきたとき、もうそこには杏子さんの人影も誰もいる気
配もなかった。たった一つの街灯は午後八時の闇を虚しく照らしているだけだった。
杏子さんの姿はもうそこにはなかた。
もう杏子さんは海の方へと向かったようだった。
杏子さんは海の方へと向かい
海の中へと消えていったようだった
暗い暗い海の中へ
まだ冷たい五月の海の中へ
僕は走る力を喪い
歩こうとした
でもまだ杏子さんは海の中へは飛び込んではいないかもしれなかった
それに飛び込んでいても助けあげられるような気がした
僕らの4年間は
いま僕が走っているこの闇のようだったのかもしれない
そして今のように血を吐くほど苦しい4年間だったのかもしれない
でも道端のところどころに見える明かりのように
僕らの4年間はところどころ明るかった
たしかにところどころ明るかった
手紙の中の君はいつも楽しげだった。
いつも夢を語っていて、
落込みがちな僕に
勇気を与えてくれていた。
そんな君が自ら死を選ぶなんて
僕には信じきれない。
君はあまりにも自分を真剣に見つめ過ぎていたのだと思う。
君はあまりにも真面目で
それに君は自分を真剣に見つめなければならないほど苦しんでいた。
そして君は自分をあまりにも責めさいなみすぎていたんだと思う。