AWC           杏子の海(27)


        
#2433/5495 長編
★タイトル (MMM     )  93/12/11  19:29  (197)
          杏子の海(27)
★内容
----ごめんネ。杏子さん。
 僕はもう起き上がれなくなっていた。僕は道の横に倒れ伏したままだった。杏子さ
んとの楽しかった文通の思い出の数々が思い出されてきていた。そして僕らが文通し
合うきっかけとなった思い出のペロポネソスの浜辺のことなんかが。
 辛かったけど楽しかった日々の思い出が走馬燈のようにもう立ち上がれなくて倒れ
伏したままの僕の頭の中を駆け巡っていた。
 僕は自分の良心にもそして根性にも敗れ去っていた。僕の心は弱くて僕は裏切り者
だった。涙が次々と頬に伝わり落ちていた。
 きっと杏子さんは今ごろ水の中で僕よりも苦しい目を受けていると思いつつも僕は
もう立ち上がれないようだった。でも僕は四たび立ち上がったのだった。もう桟橋は
目の前だった。僕は杏子さんを死なせるわけにはどうしてもいけなかった。
 僕は激しく泣きながら歩いていた。桟橋が見えてきた。月の光が淡く桟橋を照らし
ていた。杏子さんの車椅子がそうしてかすかに見えた。
 僕は何のために歩いているのか解らなかった。僕は一度は杏子さんを棄てた男だっ
た。僕は踏み絵を踏んだ切利支端のように歩いていた。僕は償罪のために歩いている
のだった。僕は愛でもなくもう死にかけた杏子さんへの償罪のために歩いているので
した。



(僕が桟橋に着いたときもう僕の頭は朦朧となっていた。たくさん血を吐いたためだ
ろう、と思っていた。桟橋のバス停の灯りも僕の目にはぼんやりとしか映らなかった
。
 僕は桟橋に着くと陸と桟橋と繋いでいる鉄のかすかな傾斜を降りていきました。で
も桟橋には誰もいなかった。でも教室の半分ぐらいの広さの桟橋の上には朧ろに杏子
さんのものと思われる銀色に灯火に輝く車椅子があった。でも車椅子には誰も乗って
なかった。僕は駆け寄って車椅子の前に膝まづいたけど、やっぱり車椅子の上には誰
も乗っていなかった。
 僕は海の方を向いて叫んだ。小さな声しか出ない僕の喉がこのとき虎のようになっ
て大きく杏子さんの名を呼んだと思う。
『杏子さん。』『野口杏子さん。』
 僕の声は闇の中に哀しく哀しく響き渡っていったっけ。僕は涙をボロボロ流しなが
ら何回も何回も杏子さんの名を呼んだ。
『杏子さん。』『野口杏子さん。』
 僕の声は夜の海の光りの中に哀しく哀しく吸い込まれてゆくだけだった。)



  『敏郎さん、生きてね。私の分まで、生きてね。』
  ----杏子さんは網場の黒い海から舞い上がりながらそう言っていた。
  『敏郎さん、生きてね。私の分まで生きてね。』



 桟橋には杏子さんが“白銀の…”と自慢していた車椅子だけが寂しく闇の中にポツ
ンと置かれています。誰も乗っていません。
 杏子さん。杏子さん。どこに行ったのだろう。
 黒い海面はひっそりと佇んでいて何も見えなかった。月の光が非情そうに反射して
いるだけだった。
 僕は悲しげに海面を見つめました。黒く澱んでいる港の水面を。
 杏子さんがボラのように海面を飛んでいないかと思いました。杏子さんがボラにな
って楽しげに夜の海面を飛んでないかと思いました。涙とともに僕は海面を見つめて
いました。
 何も見えません。海面は波音一つ立てていません。一瞬何かが飛び上がったような
気がしましたがそれは本当のボラでした。杏子さんではありません。
 カモメらしい白い鳥が泣き叫びながら僕の視界を通り過ぎてゆきます。
 杏子さんはどこへ行ってしまったんだろう。
 杏子さん、どこだい?。出ておいで。
 僕は空を見上げた。あっ、空に舞い上がったのかな。今ごろ杏子さんはウルトラセ
ブンのように空を飛んでいるのかな。
 かっこよくなったんだな、杏子さん。
 空は暗く雲がかすかに白っぽく見えて星がところどころに遠い他国の家々の灯りの
ように見えます。消えていったんだな、杏子さん。あの遠い他国の家々の灯りのなか
に。明るい幸せな他国の家々のなかに。今ごろ暖炉にあたって遠い旅の自慢話をして
いるんじゃないのかな。遠い日本という国の西の果ての長崎の一漁村ではかなく短か
い人生を送った自分の生涯をおもしろおかしく語り聞かせているのかな。そして僕の
ことも。僕のことも自慢げに話ているんだろうなあ。
 暖炉にあたりながら暖炉の火が橙色に揺れてて美しいんだろうなあ。コーヒーが出
ていてケーキもある。
 明るく杏子さんが喧ましいほどに喋りまくっている。

 やがて僕の目に15mほど沖にたゆたっている砂袋くらいの物体が見えました。今
まで沈んでいたけど海底から浮き上がってきたのかなっ、と思いました。僕に会いた
くて浮び上がってきたんだなっ、て思いました。頬を赤らめて浮び上がってきたんだ
な、杏子さん。
 僕は始めそれが全く動いていなかったため砂袋かなって思いました。静かな港の海
面に浮かんでいる人の背中くらいのものが月の光に反射されて見えていました。
 それは杏子さんの背中なのでしょうか。まるで小さなゴミ虫の背中のようでした。
僕は思わず両足でコンクリートの桟橋を蹴りました。そして僕の躰は頭から5月のま
だ冷たい水の中めがけて落下し始めました。



 冷たい五月の夜の海の中を杏子さんの方へ向かって泳ぎつつあった僕は、『何故、
僕らだけがこんなに苦しまなければならないんだ。なぜ僕らだけが。』と苦しい息の
下で思っていました。
 僕らだけ何故こんなに苦しまなければならないのだろう。ほかの人たちは幸せに暮
らしているのになぜ僕らだけこんなに苦しまなければならないのだろう。
 杏子さんの死の前の涙は、港の黒い水のなかに溶けていって、僕はその水のなかを
泳ぎつつあるのかもしれない。杏子さんの悲しみの涙は冷たくて、だからこの海の中
が冷たく感じられるのかもしれない。


 僕は黒い海の中を懸命に泳ぎつつあった。顔をあげ杏子さんの浮かんでいる方向を
確かめながら僕は懸命に進んだ。杏子さん、僕が悪かった。僕が君から思われつづけ
たいという醜い欲望のために君と喋らず喋ることによって必ず幻滅されることを知っ
ていたから僕は喋ることを極力避けてきたけれどそうしたらこんな結末になっちまっ
て。
 僕はたしかに知子さんに性欲によって惹かれつつあった。しかし僕がどんなに知子
さんに心惹かれつつあったにせよやはり僕の心の片隅には君の面影が不動のものとし
て横たわり続けていた。
 君は僕にとって女神のような存在であり続けた。
 でもこの頃僕の胸にどうしようもない衝動として湧きつつあった性欲という邪悪な
ものが僕を君から遠ざからせつつあった。君が疎ましく僕には思えつつあったのは事
実だ。
 悪魔の峻動が僕の躰のなかで胎動し続けていたんだ。

 海の中は苦しく杏子さんまでの距離が厭に長く感じられた。水中で靴を脱ぎ少しで
もよく進めるようにした。僕は泳ぎは得意なはずだった。しかし桟橋まで全速力で走
ってきたためだろう。僕は自分が黒い冷たい海水の中に沈んでいこうとしているのを
感じていた。まるで海の中から何者かが僕の足首を引っ張っているように。
 でも僕は必死に泳ぎつづけた。僕は泣くように海面を叩きつけながら必死に泳いだ
。



 杏子さんの悲しみの涙は
 黒い水の中に溶けていっていて
 僕を冷たく覆っている。
 杏子さんの死の前の涙は悲しくて
 一生懸命泳いでいる僕にも嗚咽を起こさせている
 杏子さんの死の前の涙はとても悲しくて…



 夜の海の中はとても寒かった。
 まるで僕らの今までの人生のように寒かった。
 とても寒くて、
 それにとても苦しくて、
 僕は沈みかけていた
 走り続けて疲れつきて沈みかけていた。



 黒い水の中に沈みつつあった僕は
 途中でフッと意識を取り戻すと
 海面へと海面へと夢中で足を漕いだ。
 やがて海面へポツリッと浮かび出て
 僕は夜空のお月さまに始めて気づいた。
 走ってくるとき全然気づかなかったのに
 まんまるいまんまるいお月さまが
 ちょうど夜空のてっぺんに輝いていた。



 …でも僕は黒い海中から浮きあがると僕の意識はふと現実の世界に呼び戻され僕は
懸命に両手を水車のように動かし始めた。

 僕の両手は水車になっていた。
 そして僕は今、アメリカ開拓時代の蒸気船のように両手を水車のように回して黒い
海面を泳ぎつつあった。僕は今世の新しい黒人奴隷のように自分を思った。


 水車は疲れていました。
 ここまで全力で走ってきて疲れ切っていました。
 水車はやがて回転をやめました。
 そしてブクブクと水車は黒い海中に沈み始めたのです。
 気がだんだん遠くなってきました。

 でも水車はハッと意識を取り戻すと
 海面へ海面へと浮上し始めました。
 いっときの休息は終わり
 杏子さんの家ぐらいの厚さの黒い黒い海の壁を上昇し始めました。
 そしてパッと海面に浮かび出ました。

 すると黒い大きな波が僕を覆います。巨大な巨大な家のような波でほんとは海面は
波一つ立ってないはずでした。でも僕の躰は再び沈みかけ杏子さんまで辿り着くのに
嵐の中の南海の荒波を乗り越えなければならないようです。僕はこのままふたたび黒
い波の中に呑み込まれてしまいそうでした。
 でも僕は再び海面に出ると両手を水車のように回し始めました。一度回転をやめ沈
みかけた僕は再び動き始めました。
 杏子さんまでの距離は遠く、僕の周囲に巻き起こる荒波は僕が造っているのです。
僕が水車のように両手を動かすその波動が僕の周りに荒波を造っているのです。



 海の中で、疲れ果てて沈んでゆきながら僕は、『なぜ、僕らだけこんなに苦しまな
ければならないのだろう。世の中のみんなは、幸せに暮らしているのに、なぜ僕らだ
け、身体に障害を持った僕らだけ、苦しまなければならないのだろう。』と思って震
えていた。『なぜ、僕らだけ、苦しまなければならないのだろう。』と思って僕の胸
の中は悔しさに煮えくり返ろうとしているようだった。
 僕の胸の中が、お腹のところから湧き上ってくる感情の昂ぶりみたいなものに、浸
されてゆく。お腹に感情の昂ぶりみたいなものが感じられる。なんなんだろう、これ
は。----僕はそう思って、海の中で躰を硬直させながら震えていた。そして僕は再び
思いっきり海面へと出て杏子さんの方へ向かって泳ぎ始めた。
 泳ぎながら僕の脳裏には小さい頃からのいろいろな出来事が走馬燈のように思い出
されてきていた。それは杏子さんとの思い出が多かった。
 小さい頃の杏子さんとの出会い。そして口もほとんどきかず僕が中一の夏の頃まで
過ぎた日々。辛かった小学校時代、あの空白の日々。
 今は取り壊された懐かしい木造校舎。そこで僕は小学一年、二年と過ごしたと思う
。二年生のとき僕のクラスの担任だった厳しかった女の先生。また、小学一年の三学
期頃から始まった僕の鼻の病気。
 苦しかった、本当に苦しかったあの頃。そして鼻の病気のことで悩みながらも比較
的幸せだった小学三年、小学四年の頃。僕が小学四年の途中から僕たちの日見中学に
転入になった近所の二つ年下の杏子さん。車椅子で、でもいつも微笑みを浮かべてい
た杏子さん。僕には幸せそうに見えた。体は元気でも鼻の病気でこんなに苦しんでい
る僕よりもずっと幸福そうに見えた。




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