AWC           杏子の海(25)


        
#2431/5495 長編
★タイトル (MMM     )  93/12/11  19:22  (184)
          杏子の海(25)
★内容



            (夢の中で)

----誰も知らない夜の道を僕は歩いているようだった。『何処なのだろう、ここは?
』
 僕には訝しかった。前に杏子さんが歩いている。杏子さん、足が悪くて歩けなくて
、だからいつも車椅子に乗っているのに、何故杏子さん歩けるのだろう。僕は不思議
だった。
 それにここは何処なのだろう。僕はたしか旅館の中に入っていって倒れたはずだっ
た。誰も居ない中庭に僕は倒れ込んだはずだった。
 おかしいなあ、と思っていた。それに杏子さん、何処へ行こうとしているんだろう
。でも杏子さんは今海の中に居るはずじゃないのだろうか。それとも杏子さんは飛び
込むのをやめて近くの神社の森の中に…。いや、こんなはずはない。
 赫い夕陽が静かに西の方の空に流れて行っている。杏子さんはその雲に乗って何処
かへ行くのだろうか。さっき見た、杏子さんが歩いてゆく幻影は、杏子さんが雲に乗
って空へと消えてゆく姿だった。杏子さんはもう死んで、天国へともう旅立ったらし
かった。もう杏子さんは死んだ、という僕への知らせのように思えた。

 僕は夢から覚め気がつくと旅館の塀の木の壁に爪をたてるようにして立ち上がった
。たしか一分も寝ていないはずだった。夢は半覚醒状態のまま走馬燈のように僕の頭
に浮かんでは消え、また浮かんでは消えていたから。
 胸の痛みはそのままだったし、息もまだ切れていた。僕は歩いた。もう歩くしかな
かった。桟橋まではもうあと100mほどだった。僕は少し駆けた。でもキリリッと
胸が痛みすぐに立ち止まった。そしてまた歩き始めた。やはり歩くしかなかった。
 空を見上げれば星が瞬いていた。僕はこんなに遅れてしまってもう杏子さんは完全
に桟橋から身を投げているだろうな、と思い悲しかった。でも僕の躰はこれ以上早く
歩くことができなかった。僕は悲しくて星を見上げながら泣いていた。



           (杏子 水の中より)

 敏郎さん、来て。早く来て。
 杏子の口に塩からい水が一口、二口と入ってきています。
 敏郎さん早く。早く来て。
 私、死んじゃう。
 敏郎さん、早く。

 私、依然として水の中でチャップンチャップンともがき続けました。私、狂ったよ
うに水面でもがき続けているのよ。敏郎さん早く来て。早く。
 敏郎さんのタタタッと走る音が聞えてきます。でもその足音は遠くてもう間に合わ
ないみたい。
 敏郎さん、とても激しい息づかいで走ってきているけれど
 敏郎さん死にそうなほど一生懸命に走ってきているけれど
 私、早く水の中に入りすぎたみたい。
 私、もうダメみたい。
 敏郎さん さようなら
 今まで楽しい思い出たくさんありがとうございました
 私、幸せに霊界に旅立ってゆけます。たくさんたくさん思い出ありがとうございま
す。
 小さい頃からのいろいろな思い出ありがとうございます。

 水がまた一しずく一しずく杏子の鼻や口から入ってきています
 苦しくって私自然と泣いてきちゃった
 敏郎さん さようなら
 杏子の涙が一しずく一しずく海のなかに溶けていっちゃってるみたい
 私、あんまり苦しくって 本当はワンワン泣いてるの
 でも水の中だから誰にも聞えずに大丈夫なの


 すると天使さまが現われて
 光る手の平を私の前に差し出して
 私をソッと水面から救って下さいました
 天使さま ありがとう
 天使さまはとても優しそうな微笑みを浮かべられて
 私の手を取って下さいました。
 でも、でも、天使さま。私、敏郎さんが好きなの。敏郎さんに抱かれて死にたいの
。
 敏郎さんの走るタッタッタッという音がもうすぐそこに聞えてきています。
 天使さま、ごめんなさい。私、敏郎さんに抱かれて死にたいの。

 私ふたたびチャプンと水面に落とされて ワンワンと泣きながら敏郎さんの来るの
を待っちゃった。天使さま、ごめんなさい。私、地獄行ってもいいのです。でも最後
に敏郎さんに抱かれたいから、天使さま、ごめんなさい。
 私、ワンワンと水の中で泣き続けました。



 僕は悲しく目を潰った。ごめんネ、杏子さん。
 僕の意識は薄れ出し道端の草の匂いをかぎながら眠りにつこうとしていた。でもこ
のとき僕の胸の中から何か不思議な力が湧いてきた。僕がちょうど中一の頃ゴロと杏
子さんと出会ったあのペロポネソスの浜辺の裏の林の中で寝て杏子さんの後姿を見遣
っていた光景が僕の目に不思議に湧いてきた。僕はいつの間にか立ち上がっていた。
四年ほども前になるそのときの光景が暗い夜道を目の前にして蘇み返ってきていた。
僕は再び駆け始めていた。やっぱり走るしかなかった。胸の痛みに耐えて走るより他
に方法はなかった。
 ごめんね、杏子さん。僕は暗い闇の中を再び泣きながら走っていた。ごめんね、杏
子さん。もうとうてい間に合わないようだった。激しい罪悪感が僕を襲っていた。



 私、ダメネ。私、ダメなのね。
 敏郎さん、喋ってくれなかった。敏郎さん、電話の向こうで迷惑そうにしてたみた
い。私、やっぱりダメね。
 私はそうして桟橋へと近づいていっていました。松尾商店の前の電話ボックスから
桟橋まで緩やかな下り坂です。『私、ダメネ。やっぱりダメなのね。』
 私、泣いていました。敏郎さん喋ってくれなかったわ。敏郎さん喋ってくれなかっ
たわ。どうして。どうしてなの。敏郎さん。
 敏郎さんのいじわる。
 私、悲しくって桟橋に乗っかかったまままっ黒く佇んでいる海面を見つめていまし
た。敏郎さんのいじわる。敏郎さんのいじわる。
 ……
 私はやがて“チャポンッ”と黒い海さんの口に飛び込みました。冷たい。冷たい。
とても冷たいわ。
 敏郎さん。敏郎さぁ〜ん。
 私、水の中でもがきました。敏郎さぁ〜ん。敏郎さぁ〜ん。
 私、死にたくないわ。敏郎さぁ〜ん。敏郎さぁ〜ん。
 私、必死で敏郎さんが助けに来てくれるのを祈っていたようでした。そしてなるべ
く水を飲まないようにと一生懸命耐えました。
 ……
 なんだか、敏郎さんの、タッタッタッ、と駆けてくる音が聞えてくるみたい。敏郎
さん私を助けに今来てるのかな。でもホントに敏郎さんの足音が聞えてくるわ。敏郎
さんやっぱり私を助けようとしているのね。敏郎さんがすぐ近くに迫ってきているみ
たいだわ。
 敏郎さんの駆けてくる激しい息づかいが聞えてくるわ。敏郎さんとても苦しそう。
敏郎さんの駆けてくる姿が見えてくるわ。敏郎さん必死に走っている。
 私、チャプン、チャプンと水の面でもがきました。私、生きてなくっちゃ。敏郎さ
んの来るまで生きてなくっちゃ。
 私、水面を両手で叩いてたのよ。チャプンッチャプンッと水しぶきがあがっていた
のよ。
 私、敏郎さんが来るまで生きていて、そうして私を助けるために海に飛び込んでき
た敏郎さんに思いきって抱きついちゃうんだから。私、生きてなくっちゃ。



(君は幸せに死んでいこうとしているようだ。僕は一人残され、これからは夕方にな
るとゴロともう杏子さんの出ていることもない浜辺を散歩することになるのだろう。

----君は恵まれていたと思う。君は幸せだったと思う。----

 浜辺に来ると落ち着かなくなるゴロ。僕の心もこの杏子さんと始めて会話をしたこ
の浜辺に来て揺れ動くのだろう。僕は中二の頃、杏子さんが幸せでありますようにと
、毎日、朝晩祈っていた。声がかすれて出なくなるまで僕はそう祈っていた。でも僕
は高校に入ってからはあまり祈らなくなった。杏子さんが遠くの存在のように思えて
きたし、僕は忙しくてあまり祈る時間も心の余裕もなかった。僕は高校に入ってから
はほとんど自分のことを祈っていたと思う。僕は高校に入ってからは自分の幸せのこ
とで精一杯だった。)



『敏郎さん…私もうダメ… 敏郎さん…私…もうダメ…
(杏子さんは薄れゆく意識の中でそう叫び続けました。杏子さんの体はだんだんとま
っ暗い海の底へと沈んでゆきつつありました。)
----杏子さん、死んじゃダメだ。杏子さん、死んでだけは。
 僕も薄れゆく意識のなか必死に歩き続けながらそう叫び続けていました。もう桟橋
は見えていました。でも僕の足はすでに鉛のように重たくなりつつありました。僕は
一歩進むのももう大変な努力が要るようになっていました。僕はもう疲れ果て力尽き
ていました。
『敏郎さん。敏郎さん。』
----僕には薄れゆく意識のなか必死に僕に助けを呼ぶ杏子さんの声をはっきりと聞き
取っていました。僕は立ち上がると再び走り始めました。いや、よろけるように歩き
始めただけでした。



 ずっと前、杏子さんの方が元気な時があったのに。ずっと前、杏子さんの方が元気
な時があったのに。それなのに杏子さんが今から死んでいくなんて信じられないな。
僕には信じられないな。
 ----君はいつも元気だった。僕には信じられないほど君はいつもとても元気だった
。



『杏子さん。』
----今にも倒れそうに歩いていた僕の傍に杏子さんがいて、杏子さんが僕に手を差し
伸べているようにも思えました。でも現実ではさっき絶望の声をあげて電話を切った
杏子さんでした。15年近く生きてきて死んでいくのはダメだよ、杏子さん。生きな
くちゃ。今まで生きてきたじゃないか。僕も今まで生きてきたんだ。一年の三学期、
結局僕はほとんど学校行かなかったけど、(読まされるのが辛くて。現国の時間、読
まされるのが辛くて、)でも、今、僕は生きているだろ。現実に、僕はちゃんと生き
ているだろ。
 僕は進もうとしない自分の足を(僕の足はもう氷ついて前へ一歩も二歩も出られな
いでいました)うらめしく思いながらも、僕はやっと一歩、また一歩、と歩き始めて
いました。


 僕は正義のために歩いているのでした。杏子さんのためでも何でもありませんでし
た。僕は正義のため、歯を食い縛って歩いていました。もう杏子さんのためでもあり
ませんでした。僕は正義のため、ただ正義のために力の限界を振り絞って歩いている
のでした。
 今にも倒れそうでした。でも僕は正義のため歩き続けました。





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