AWC           杏子の海(22)


        
#2428/5495 長編
★タイトル (MMM     )  93/12/11  19:12  (194)
          杏子の海(22)
★内容




 石に跌づいて転んだ僕はやがて肘から血を流しながら立ち上がった。まっ暗な闇の
中に杏子さんが待っている網場の桟橋の光景が僕の目には見えていた。きっと杏子さ
んは僕が来るのを待っていて海の中に飛び込むのをためらっているのだろう、と思っ
た。僕が走ってくるのを、僕が走ってくるのをきっと僕が来る方を眺めながら見つめ
ているのだろう、と思った。
 僕のジーパンは膝のところが赤黒く染まり、そこに泥が付いていた。肘にも泥と砂
が付いていた。僕は杏子さんがきっとまだ海のなかに飛び込んでなくて、僕が走って
来る方を眺めていると信じていた。
 きっと杏子さんは僕を待っているからだから僕は転んで血が出てとても痛くても走
らなければならなかった。杏子さんは悲しそうな表情で僕が来るのを待っているよう
だった。僕が来ないかもしれないと悲しみながらも。
 桟橋の停留所の薄暗い街灯の下で、僕が走ってくる方を淋しげに眺めている杏子さ
んの姿を思って僕は泣きそうだった。だから僕は懸命に走った。悲しげに僕の方を見
つめている杏子さんのことを思うと僕は痛みや苦しさに負けずに走らなければならな
かった。



 杏子さん。僕はこれじゃダメだ、これじゃダメだ、といつも思ってきた。でもどう
しようもなかったんだ。どう努力しようにもどうしようもなかったんだ。
 ----僕は最後の努力を杏子さんを救うために必死に桟橋へ向かって走り続けていま
した。僕の今の苦しさは僕が小さい頃から受けてきた地獄のような日々の苦しさを凝
縮したかのような苦しさでした。僕は僕の腹綿が飛び出る程の苦しみを味わっていま
した。
 ----死んじゃいけないんだ、杏子さん 死んでだけはいけないんだ。僕も今までど
れだけ吃りなどのため苦しんできただろう。でも僕は死ななかったし、へこたれなか
った。少なくとも親には元気なような顔をしてみせてきた。死ぬことだけは、死ぬこ
とだけは負けなんだ。自分の人生に、自分に、負けることなんだ。そして僕らが苦し
みを背負って生れてきた価値が全く無くなるじゃないか。
 僕らは苦しい宿命を持って生まれてきたからこそ、他の人たちよりも明るく逞しく
生きなくっちゃいけないんだ。またそのことが他の普通の人たちの励しにもなるんだ
。
----僕は夜の闇を、大昔の世の中からの闇を破るような勢いで走っていました。僕は
ものすごく速くそして一生懸命に走っていました。僕や杏子さんを小さい頃から(も
の心がついた頃から)覆ってきた暗い不幸な運命を吹き払うように僕は走っていまし
た。
----僕の頭に『僕らは何のために…僕や杏子さんのような不幸せな人は何故生まれて
きたんだ?』という激しい疑問が沸いてきていました。『僕らは何故生まれてきたん
だ。人は何故生まれてくるんだ。この世は何なんだ。生きるって何なんだ。』
 僕の葛藤は激しく、今にも走りながら気が狂いそうになっていました。
(僕らは暗く宿命を持って生れてきた。でも僕らはそのためにふたりだけの、ふたり
だけのだったけど幸せな恋を育むことができた。もしも僕らが五体満足な体で生まれ
てきていたら僕らは欲情だけの、虚しい恋しかできなかったに違いない。

(杏子さん、身を投げちゃダメだ。
----僕には今にも桟橋の欄干から身を投げようとしている杏子さんの姿を苦しい息の
中に垣間見ることができていました。桟橋はまっ暗で静かに波が打ち寄せているだけ
です。



『君を死なせてなるものか。君を死なせたら僕は。』
----僕は野球部やラグビー部がきついと言っていた以上に走っていたようでした。僕
のいつもいく垂水床屋の前を通り過ぎていました。僕は懸命に走っていました。でも
胸元からこみ上げてくる何かを僕は感じ取りました。そのとき僕にはそれが何か解り
ませんでした。



 僕と君は手紙の中で青春を作ってきた。迫りくる暗闇。夜光灯がなくて足元がよく
見えない道を僕は懸命になって走っていた。川にかかっている橋。神社の岡。僕はた
だ闇の中をやみくもに走っていた。足元に注意する余裕なんてなかった。
 とにかく早く桟橋へ着こう、着こう、と焦っていた。早く桟橋へ着かなければ杏子
さんが死んでしまうと思って僕はもう息ができないようになりながらも走った。喉の
奥に何かがつまっていてこう息ができないのだろうと思ってきていた。



 君のもとへと走りながら僕の胸には『君よりも僕の方が苦しかったのに、それなの
に君は死んでゆこうとしている。』という思いがぬぐい切れないでいた。

 もう死んで水の上に横たわっている君。
 君のもとへと走りながら苦しみ抜いている僕。
 まるで僕らの今までの人生の縮図のような気がした。


 君は真面目すぎた。真面目すぎたから自分というものをあまりにも見つめ過ぎて死
んでいったのだと思う。君は真面目すぎた。だからだと思う。


 走りながら僕は、君の苦しみと僕の苦しみとを比べてみていた。君の方が僕よりも
ずっと苦しくて辛かったことを僕は走りながらこのとき始めて知った。君の苦しみは
僕の苦しみと全然ちがっていて、僕は君の苦しみを理解してあげることができなかっ
た。そして僕の方がとても苦しんでいるのだ、とばかり僕はずっとずっと思ってきた
。



 いつも一人っきりで海を見つめていた君。いつも寂しそうだった君。いつも寂しげ
にこの浜辺を車椅子で通っていた君。水溜りの道や貝殻や砂利の道を苦労しながら通
っていた君。僕は女の子と喋るといつも傷ついてきた。だから僕は君と喋っても笑わ
れるばかりで傷つけられると思ってきた。馬鹿な僕だった。



 僕らは何回同じようにして生まれそして死んでゆこうとしているのだろう。いつの
世でも僕らは不幸せだった。でも僕らは僅かな幸せを…ほかの人たちは快楽と呼んで
いるのかもしれない。でも僕らには快楽はあまりなかった。僕らにあったのは苦しみ
の間の僅かな憩いのひとときだけだった。拷問のような時間の間のほんのひとときの
安楽の時があっただけだった…得てそれで幸せだった。
 僕らはでも幸せだった。最後の4年間だけだったのかもしれない。でも僕らはこの
4年間、たしかにお互い苦しかったけれど幸せだった。手紙でお互い慰め合ってきた
し、僕らは学校でなんか本当に苦しかったけど頑張り抜いてきた。



 悪魔はこうして僕の心にも杏子さんの心にも巣喰い始めていたらしい。いや杏子さ
んよりも僕の方に悪魔は巣喰っていたらしい。走りながら僕ははっきりとそう感じた
。



(僕らは前世、ム―大陸で恋人同士だったんだ。でも僕らは神さまをあざ笑ったり神
さまの悪口を大声で言ったりしたためこうなったんだ。僕らはそして前世の罪の償い
を今世でこうして受けているけど僕らはこうして死んでいくんだね。罪の償いをする
前にこうして僕らは死んでゆくんだね。



  僕らを取り巻く闇は魔の闇で、僕らは毎日震えおののいているけど、僕は今まで負
けてこなかったし、君も明るく強かった。君はときどき泣いて手紙を書いてたけど、
でも次の日には明るく学校へ行っていた。君は明るく強かった。



 中学の頃、僕は挫けそうになる心を励まして、杏子さんの幸せのために毎晩12時
ぐらいまで題目をあげていた。しかし、僕はもう、杏子さんのことをほとんど思わな
いようになっていた。僕の頭には杏子さんの友達だった○○さんや○○さんなどのこ
とでいっぱいだった。
 僕もやっと大人になったのかもしれない。また性欲に目覚めてしまったのかもしれ
ない。でも僕は毎日のお祈りの中で杏子さんの幸せを祈ることはやめてはいなかった
。たしかに以前より杏子さんのことをあまり祈らないようにはなっていたけれど。
 僕は毎日のお祈りの中で自分の醜い心と葛藤していた。杏子さんのことを祈るべき
だったけど僕の目には○○さんや○○さんなどの美しい姿が散らついていた。



 僕は信仰を心の支えにして生きてきたし、杏子さんにも僕の信仰をするようにすす
めてきた。でも僕の真心が足りなかったのかもっと強く杏子さんにすすめなかったの
が悪かったのか今こうして杏子さんは死んでゆこうとしている。僕の真心が足りなか
ったのだ。僕の真心が足りなくて杏子さんはこうしてむざむざと死んでゆこうとして
いるのだ。僕の真心が足りなかったんだ。
(僕は血を道端へと吐きながら走っていた。僕の白いシャツにはまっ赤な血が僕と杏
子さんを覆ってきた悪魔の呪いのようにべったりと付いていた。僕はもう気が遠くな
りかけてきていた。もう倒れてしまいそうにも思えた。でも僕は依然として走りつづ
けていた。)



 僕の祈りが足りなかったのだと思う。僕はこの頃あまり杏子さんのことを御本尊様
に祈ってなかった。自分の成績の上昇のことを主に祈るようになっていた。自分の病
気のことも…それに杏子さんのこともあまり祈らないようになってきていた。
 でも僕が医者になることは僕と同じような病気で苦しんでいるたくさんの人たちを
救うことにもなるしそれに杏子さんと同じような病気で苦しんでいるたくさんの人た
ちも救うことになるんだった。だから僕は一生懸命勉強していたし、毎日学校がとて
も辛くても休まずに真面目に行っていた。辛くて泣きだしそうになったとき僕はいつ
も御本尊様の前に座って祈っていた。夜の一時や二時まで祈っていたこともあった。
 でも僕はたしかに中学の頃や高校一年の頃のように杏子さんの幸せを願って夜遅く
まで題目をあげることをしなくなっていた。3分の2は自分の成績の上昇を願ってい
た。そして3分の1の中で自分の病気や杏子さんの病気のこと、僕の家の幸せのこと
などを祈ってきた。



 僕は真実とは何なのか、とこの頃迷っていた。そして僕は小さい頃から信じてきた
創価学会の信心に疑いを持ち始めてきていた。中二の頃、この信心をしたために喉の
病気になったのだと思い、僕はこの信心に怒りさえ抱き始めていた。もう勤行はぷつ
んとしなくなっていた。また勤行をしなくなったため勉強時間が増えたことをとても
喜んでいた。でも能率が前と比べて全然上がらないことに気付いてきていて再び信心
を始めようか、勤行を始めようか迷い始めてきていた。
 2週間だった。僕が信仰から遠ざかっていたのは。そして僕が再び信仰を始めよう
と決心したとき君が死を思い立ったなんて。魔が働いたんだ。勤行をしなくなった僕
の周りに魔が働いたんだ。



 僕には御本尊さまがあった。でも君には頼るべきものが何もなかった。僕は苦しく
てたまらないときにはいつも御本尊さまの前に座ってお祈りをしていた。学校がとて
も辛くてたまらないときには。でも君にはなかった。君には僕と文通していることだ
けが君にとってただ一つの心の支えだったのかもしれない。それなのに勉強に忙しく
て手紙を書くのが億劫になっていた僕は馬鹿だった。苦しんでいる君のことを忘れて
。そして僕は自分のために、自分の将来のためだけに勉強していたのかもしれない。



 君が疲れていたとき、僕はノホホンと毎日を送っていた。僕は君がそんなに苦しん
でいるとは知らなかった。それにもう君の心は僕から離れていったんだ、と思ってい
た。






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