#2429/5495 長編
★タイトル (MMM ) 93/12/11 19:16 (194)
杏子の海(23)
★内容
敏郎さん、私、生まれ変わりたいの。健康な足をもって生まれ変わりたいの。
意味の中に君が沈んでいく姿が見えていた。でも僕は一生懸命走っていた。胸の痛
さに何度も倒れた。でも君のことを思って僕は何度も起き上がって駈け始めた。僕は
5度も6度も倒れたと思う。血を吐いて僕は倒れていた。でも君のため僕は桟橋まで
どうしてでも辿り着かなければならなかった。君のため、僕は胸からたくさん血を吐
いても桟橋まで辿り着かなければならなかった。
すべて君のためだった。君のため僕は草村の中に横たわることは、眠ることはでき
なかった。たとえもう間に合わないと解っていても僕は走らない訳にはいかなかった
。
君は素直すぎた。春の風のように素直すぎた。あんまり自分を見つめすぎて、そう
して木の葉のように死んでいこうとしている。
----敏郎・走りながら----
僕も生きることに疑問を感じてきていた。でも僕は死ななかった。君は、でもいま
死のうとしている。君はあんまり深く考え過ぎたのだと思う。幸せもほかのところに
あるということを君は忘れていたのだと思う。
網場の桟橋まであと400mと近づいた頃でしょうか。僕は遂に胸の辺りの痛みに
耐えかねて立ち止まりそうになりました。
でもやはり僕は駆け続けました。次々と湧いてくる小さい頃から今までの杏子さん
との出来事が僕を肉体的苦痛から解放したようでした。僕はもう魂だけで走っている
ようでした。
僕は魂だけになっているようでした。駆けている足が自分のものでないような気も
してきます。杏子さんの桃色の顔が闇にポッカリと浮かび微笑んでいます。その笑顔
は譬ようもなく美しくて
『敏郎さん、私、幸せになりたかったの。でもなれなかったわ。それになれそうもな
いの。』
----杏子さんは桟橋の上で夜空を見つめてそう呟やいていた。僕は闇のなかを一生懸
命走ってきていた。杏子さんが海に飛び込むまでに桟橋に着かなくてはいけない、と
一生懸命一生懸命走ってきていた。----
『敏郎さん。私、幸せになりたかったわ。敏郎さんと文通だけでなくって電話でも喋
りたかったわ。私、寂しかったの。でも敏郎さん、吃りだし喋るのが苦手だから電話
は絶対かけちゃいけない、っていつもいつも手紙の中に書いてあるから、私、電話し
なかったの。私、手紙よりも電話の方がずっとずっと良かったの。敏郎さんの声を聞
きたかったの。敏郎さんがどんなに吃ったって、どんなに喋り方がおかしくったって
いいから私 敏郎さんと喋りたかったの。でも電話をしたらもう文通もしないって敏
郎さん言うから、私、電話もしないで来たの。』
『敏郎さん。私、敏郎さんと喋りたかったわ。どんなに吃ったっていいから、どんな
に喋り方がおかしくったっていいから私 敏郎さんと喋りたかったわ。』
----杏子さんは涙を一しずく一しずく落としながら夜空に向かってそう呟やいていた
。----
----『僕は走りながらも桟橋の方向に大きな一しずくの流れ星が流れたのを見た。本
当に杏子さんの涙のようだった。僕は緩くなりかけていた全力疾走をまた力の限りの
疾走に変えた。でもすると胸の中から何か温かいものが込み上げて来るのを感じた。
それは血だった。電灯の光りに照らしてみるとまっ赤な血が僕の右手の平にたくさ
んたくさん流れるように溜っていた。
僕は思わず近くの草叢に倒れた。胸が掻きむしられるほど痛くなったからだった。
悪魔の爪が僕の肺を掻きむしっているようだった。
でも僕は熱い血の塊を両手に抱いたまま立ち上がらなければいけなかった。僕は杏
子さんの居る桟橋まで走っていかなければならなかった。胸の痛みや血に汚れている
自分の躰のことなんてどうでも良かった。
僕は走らなければならなかった。杏子さんの居る桟橋までたとえ気を喪なってまで
も僕は走らなければならなかった。
僕は走らなければならなかった。どんなにしてでも走らなければならなかった。
僕の足はふたたびよろけ出し、膝から激しく倒れた。口から出てきたのはやはり血
だった。僕はもうダメだと思った。走れないし、それにもう走っていったって杏子さ
んが海に飛び込むのに間に合わない。
僕は倒れて身じろぎしながら人の一生って何だろう、と考えていた。人の一生って
何だろう。哀しい哀しい浜辺の光景が杏子さんの姿とともに見えてきていた。可哀想
な杏子さん。ゴメンネ。傷付けてそうして自殺にまで追いやったのは僕だしそれに杏
子さんの病気だった。ゴメンネ。杏子さんゴメンネ。
悲しい海辺の光景しか見えなかった。何故杏子さんはそんなに悲しそうなんだろう
と思った。杏子さんの表情はとても哀しく僕に涙を出させた。
悲しい海辺の光景は僕がこのまま草群のなかで死んでゆくことのようにも思えた。
口から溢れてくる血はものすごい量になっていた。咳とともに僕の胸は錐でもまれる
ように痛みそして口いっぱいに熱い血が溜った。
杏子さんの髪は潮風に吹かれて僕の方に揺れていた。悲しげな杏子さん。僕は人は
何のために生きるのかと思い横たわりながら身じろぎしていた。
春のタンポポだろう。倒れ伏してもがいていた僕の目の前にタンポポが月夜に照ら
されていた。僕は意識を喪いかけていた。夢を見た。杏子さんと春の野原で手を繋い
で駆けてゆく夢だった。黄色いタンポポやレンゲの花が咲き乱れていた。
----美しいはかない夢だった。一分か二分ぐらい見ていただろう。僕は起き上がっ
た。そして胸にたまっていた血を吐くと再び走り始めた。僕はもう泣いていた。胸の
痛みに僕は耐えかねていた。
僕も、生きることに疑問を感じて、何度か死のうと思ったことがある。でも僕は今
こうして走っている。
僕も何度か死のうと思ったことがある。でも僕はその度に仏壇の前に座った。そし
て一時間も二時間も題目をあげた。明日の学校での苦しみのことを考えると僕はとて
も辛くなっていた。でも僕は耐え続けた。
野原に倒れ伏しながら僕は泣いていた。エゴイストになっていた自分。もう杏子さ
んと文通するのをやめようとさえ思っていた自分。自分の幸せだけを追い求めようと
していた自分。手紙を書くのがわずらわしくて手紙を書いてなかった自分。杏子さん
の悲しみを考えなくなっていた自分。
僕はカラスになって飛んでゆくだろう。立石のあの崖を。黒い黒いカラスになって
、夕暮れに、僕は仲間と飛んでゆくだろう。飢えと戦いながら。寒さと戦いながら。
あのペロポネソスの浜辺の先の立石の岩場で僕は黒いカラスになり、毎日、釣り人
が残したオキアミを食べたり、死にかけて海面に浮かんでいる小魚を食べたりして過
ごすだろう。
草の原に倒れ伏していた僕の目に、杏子さんが天使のように空へ舞い上がってゆく
夢を見た。
『苦しかったの。敏郎さん。杏子、苦しかったの。だから先に天国へ行きますけど許
して下さい。もっともっと敏郎さんと文通して、そして落ち込みがちな敏郎さんを励
ましてやりたかったけど、私、苦しかったの。もうこんなみじめさや苦しさに耐えき
れなかったの。
----僕は涙を溜めて天へと登ってゆく杏子さんの姿を見送っていた。
僕は眠り込んでしまおうと思った。快い眠りの中に僕は浸り込んでしまおうかと思
った。また起きて走り続けたら今度こそたくさん血を吐いて死んでしまいそうだった
。
自分を取るか、正義を取るか。エゴイズムに浸るか、人のために不幸な人のために
苦しさに立ち向かって行くか。ものすごく厳しい道かもしれない。死ぬ可能性はかな
り高い。自分のために生きるべきか。親のために生きるべきか。それとも今死のうと
している不幸な杏子さんのために立ち上がって走り続けるべきか、僕は迷った。
僕は立ち上がった。でも気力も体力も僕は喪っていた。でも君への“恋”の力があ
った。君への“恋”のため僕はそのまま倒れ伏してしまうのを立ち上がったのかもし
れない。
君は僕に生きる力を与えていた。挫けがちになる僕に、君の手紙は、僕に生きる勇
気を与えていた。もう明日からは学校へ行くまい、と何度思ったことだろう。でも君
の手紙を読んで、僕は学校へ行った。そして学校というものが本当は楽しいことを、
君は僕に教えてくれていた。
僕はまた駆け始めていた。自分は自分の虚栄心のためか、それとも本当の自分の正
義感のために走っているのか解らなかった。杏子さんを救おう、可哀想な杏子さんを
救おうという虚栄心なのかもしれない。
虚栄心のために走る僕。杏子さんのためでなくって、自分の虚栄心を満足させるた
めに走る僕。醜い僕。自分のために走る僕。醜い僕。
君は僕が走って君のもとへ来ているのを朧げな意識の中で感じ取っていたのかもし
れない。でも僕はそのときにはもう安らかな眠りに入っていて僕の駆けて来る足音も
苦しい呼吸の音も聞えなかったにちがいない。
『杏子さん。』
横たわった僕に、杏子さんの涙のように、悲しみの涙が流れた。流れ星が流れてい
た。僕の哀しみの涙のようだった。
『杏子さん。』でも僕は寝ている訳にはいかなかった。僕のために死んでゆこうとし
ている女の子、とてもとても純粋な女の子の心を裏切らないためにも(どうせ間に合
わないような気がしていたけれど)僕は起き上がって走らなければならなかった。
僕は草の間に立ち上がった。走り始めなければならなかった。胸の中がとても痛く
て去年の冬に雁ったカゼのためだろう、と思った。
僕は走らなければならなかった。でもまた胸の痛みに耐えかねて座り込んでしまっ
た。
『杏子さん。僕の青春の全てみたいだったような杏子さん。』
僕は哀しみと苦しみに打ちひしがれながらも再び立ち上がろうとしていた。
杏子さんが海に飛び込んだ『ざぶんっ』という音が倒れ伏してもがいていた僕の耳
に聞こえてきた。でも僕は胸が痛くて苦しくて野原の中で転げ回っていた。春の野草
の上で僕は途方もない苦しみと…僕は杏子さんをもて遊んできたのではないのだろう
かという思いと、そして僕は少なくとも杏子さんを自分の慰みものにしてきたのでは
ないかという懺忌の思いと…戦っていた。僕は杏子さんを苦しめただけではないのか
、という思いと、そして『僕が、僕がいま杏子さんを殺そう、としているんだ』とい
う思いと戦っていた。
僕は杏子さんに何をして来たんだろう。僕は四年間、杏子さんと文通してきて、そ
うしていま杏子さんを死にいたらしめようとしている。