#2427/5495 長編
★タイトル (MMM ) 93/12/11 19: 9 (193)
杏子の海(21)
★内容
(高2の5月のこと)
(杏子さんから別れの手紙の来た一週間後の日のことである)
その日僕は学校が終わるといつも行く県立図書館へも行かずまっすぐ家へ帰ってき
た。土曜日だった。杏子さんからの別れの手紙が来てからちょうど一週間が経ってい
た。いつも学校帰りに県立図書館へ行っていたので5月の青空の眩しさに青春を思わ
せるものがあったけれど、失恋、初めて味わった失恋に、失恋とはこんなものかとた
め息をつき続けていた。
白痴のようになった僕の心はそれでも杏子さんの住む網場の光景へと名残り惜しそ
うに飛んでいた。そんなに悲しくはなく甘美な思い出への哀感があるだけだった。
僕は家へ帰ると目玉焼きをつくって昼食を食べたあと夏目綜石の「心」を読み始め
た。2時間ぐらい読んだだろう。いつの間にか眠ってしまった。
…電話が鳴っていた。でも完全に暗くなっていてそしてまだ父と母がかえってきて
いなかった。電話のベルは僕の耳には虚しく消えるように『ああ鳴ってるな』という
一個の無機的心象を起こしただけだった。
再び電話が鳴った。さっきから30秒ほどしか経ってなかった。そのとき僕はなぜ
か立ち上がった。いつもなら寝たままのはずだった。そして僕は立ち上がっても夢遊
状態に近かった。
これは根性ではなかった。不思議な力が僕に働いているようだった。僕は階段を急
いで下りた。足元がおぼつかなくて踏みはずすにちがいないと思ったのにちゃんと降
りた。そして受話器を取った。
『あっ、敏郎さん、敏郎さんですか、杏子です、このまえは手紙でごめんなさい、
ごめんなさい、あれはウソです、私は敏郎さんのためにならないと思ってワザとウソ
を書いたのです、許してください、ほんとうは私敏郎さんのこと好きなんです、でも
怖かったし、
僕は何と言っていいか解らなかった。また喋らない方がいいと思った。喋って変に
思われるよりも喋らない方がいいということを僕は日頃身にしみて感じていたから…
。僕からは空白だった。
『敏郎さん。ごめんなさい。ごめんなさい。許してください。
杏子さんの声は始めは明るかったが次第に泣きそうな声になっていた。
『ウウッ(杏子さんの泣き声が聞えてきた) 敏郎さん、いま桟橋の前から電話して
いるの。ごめんなさい。許して下さい。
僕は何か言うべきであろうかと迷った。また、言おうと思うが言葉が出てこなかっ
た。僕は激しく緊張していた。震えていたほどだった。口を開けても言葉が出てこな
かった。
『敏郎さん、駄目ですか、私家からは電話しにくかったからここまで出てきたんです
けれど。敏郎さん。』
『ウッ、ウッ、
僕はやっと声を発したがやはり言葉は出てこなかった。冷や汗が出ていた。あまり
にも出てこないので僕は喋るのをあきらめかけていた。こんなにも言葉が出てこない
のは始めてだった。
『敏郎さん。私死にたい。もう耐えきれません。なぜ私だけがこんなに苦しむまなく
っちゃいけないの。
杏子さんの声はもうほとんど叫び声に変わっていた。
電話がバタンと切れた。僕はすぐに駆け出した。いや、杏子さんの最後の叫びが発
しられているときにすでに僕は杏子さんの所に走っていくことに決めていた。電話で
は僕は喋れない。それに杏子さんの最後の叫びが発しられている途中で杏子さんの死
の決意を僕ははっきりと感じとっていた。
電話の切れる前に僕はもう走る姿勢に移っていた。僕の躰は一気に走る弾丸のよう
になっていた。ものすごいダッシュだった。
僕の耳にはこの世のものとは思えない極限の苦しみのようだった杏子さんの最後の
言葉がまだ鼓玉していた。
『バカだ。杏子さんは。バカだ。』
僕は走っていました。風のように。風になっていました。僕の情熱が風に変化して
いました。すっかり暗くなって闇になった道を運動会での100m競争のように力い
っぱい走っていました。いつか小学校の頃学級対抗リレーで走っていた僕を車椅子か
ら手を叩いて喜んで応援してくれていたまだあどけなかった杏子さんの姿が思い出さ
れてきます。あの頃からすでに5年近くたっているんだね。あの不思議なほどに明る
かった君がこうして自殺しようとしているなんておかしいな。何かのまちがいじゃな
いのかな。と必死に走りながら僕は思うのでした。
僕は風になっていました。杏子さんへ、杏子さんのいる網場の桟橋へと僕は風にな
り僕はまっ暗な夜道を風として素早く移動していました。誰も見えない闇の中を僕は
風になって杏子さんを救うため、可哀想な杏子さんを救うため、僕のためにこんなに
なってしまった杏子さんを救うため、風になっていました。
最近僕はたしかに杏子さんの存在がうとましく思えてきていた。杏子さんの存在が
僕を肉欲へと(あの美しい肉欲へと)走らせるのを邪魔しているような気がしていま
した。
僕は泣いていました。僕は性欲のために知子さんに魅かれ杏子さんから離れようと
していたのでした。
“性欲”というものはとても巨大で、邪悪などろどろとした悪魔のようなものでし
た。
知子さんは悪魔だったのです。大きな目をくりくりと動かして僕を魅惑した丸い白
い頬の悪魔だったのです。
大きな大きなどろどろとした鈍黒色の津波が走る僕を押しとどめようとしているよ
うでした。それは港の方から押し寄せてくる僕を杏子さんのもとへ来らせまいとする
怒涛のような魔力でした。
杏子さん、死んじゃいけないんだ。死ぬことだけはやめなくっちゃ。死ぬことだけ
は。網場の桟橋までは1kmほどあるでしょうか。僕は7時半の暗くなったばかりの
闇の中を必死で駆け続けていました。髪を振り乱しながら。
走りながら僕に杏子さんとのずっと以前の思い出が今鮮やかに描き出されてきてい
ました。ほとんど忘れてしまっていたことなのになぜ今こうやって鮮やかに蘇み返っ
てきたのだろうかと僕は訝しんだ。
僕が小学4年のときだった。ある夕方僕と杏子さんが松尾商店の前の道ですれ違っ
たことがあった。そのとき杏子さんが僕に呟いたのだった。何を呟いたのかはっきり
と聞き取れなかったけどあれはこういうことだった。
『敏郎さん、高見敏郎さんというのでしょう。』 僕はそのときよく聞き取れず少し
無視して歩いたあとやっぱり気になってふっと杏子さんの方を振り向いたがそのとき
杏子さんの車椅子は動いてなくて杏子さんの背中が心なしか震えていたのが感じら
黷ス。震えていなかったのかもしれなかったけど僕はなんとなくそう思えた。
それから僕は俯いて歩いていった。その頃はまだ喉の病気にも罹ってなかったし喋
ろうと思えば喋れたのだけど喋り方がおかしいと自分でもうすうす自覚し始めていた
僕はそのまま無視して通り過ぎた。車椅子の上に乗っている譬ようもなく光り輝いて
いる美しい女の子だったけど。
そして5年のときだった。僕が海岸べりの道で友だちとキャッチボールをしている
ときちょうど杏子さんが通りかかった。頬を赤らめて俯いて通り過ぎようとしている
杏子さんを見てオッチャン(僕の友達)は一瞬…
ああ、僕の心変りは単なる一時の気まぐれだったんだ。僕はやっぱり小さい頃から
杏子さんを一番好きだったし今もそうだ。だから今こうやって君を救おうと必死に走
っているんだ。これは責任感じゃないんだ。君を好きだから、君を愛しているからこ
うして走っているんだ。
走りながら僕は考えた。
あれは一昨日のことだった。
僕は図書館へ行かず久しぶり早く帰ってきて、ゴロと散歩に行った。目指すのはも
ちろん杏子さんの家だった。手紙を永いこと書いてないで4日前、杏子さんから絶交
の手紙を貰ったばかりだった。この4日間、僕は学校へ行くのがやっとだった。家に
居るときは悶々とした心も学校へ行けば何故か晴れていた。
そして一昨日、僕は学校帰りに交通事故を目撃した。一緒に帰っていた大久保が『
おっ、高見。可愛かとの歩いて来よる。』と指差して何秒か経ったときのことだった
。その女の子が横断歩道でクルマから跳ねられた。そして10mぐらいも飛んでいっ
た。
その女の子は杏子さんにそっくりだった。僕は人がその女の子の方へと群がるなか
、僕にはそれが何かを暗示しているように思えてとても不気味だった。
そのとき小さな金属性のものが僕の方に転がって来た。もう大久保は女の子が飛ば
された所へと走って行っていた。少し弧を描いてそれはちょうど僕の足元まで転がっ
て来た。丸いワッペンのようだった。手に取ってみるとそれはカスタネットの片方だ
った。赤いカスタネットだった。
丸い金属性の紋章の入ったワッペンが転がって来ていると思ったのは僕の間違いだ
った。でも転がって来るときアスファルトの道の上でたしかに金属性の音をたててい
たみたいだった。
僕は訝しげに僕がワッペンだと見誤ったカスタネットの千切れた一つを拾い上げた
。
救急車の音と10mも先へ飛ばされた女の子の周りに集まる人々の喧騒が片手に千
切れたカスタネットを持った僕を包んでいた。
走りながら僕は水の中に潜む杏子さんの死の前の悲しい僕の名を呼ぶ声が聞えてき
たように思った。喋れなかった僕。遂に一言も出てこなかった吃りの僕。僕はその悔
しさを走り続ける根性へと変えていた。今にも倒れ込みそうで道端の青い草群にどっ
と身を投げ出したい衝動を何度も感じた。
でも僕は走り続けた。闇が走り続ける僕を覆いつくそうとしている。僕は何度も立
ち止まろうとした。でも僕は空を見上げながら走り続けた。すると黒い夜空に流れ星
が杏子さんの涙みたいに流れたのを見た。ああ、杏子さん死んだのかな。
その星は杏子さんの涙のようで黒い天空を桟橋の方へと落ちていった。杏子さん。
杏子さん。僕は何度も躰じゅうに力を込めて躰の中からそう叫んだ。杏子さん。杏子
さん。
僕の躰は熱気になり一気に杏子さんの待つ桟橋へと飛んでゆけたら、と思った。
----僕は走りながら杏子さんとの電話を思い出していた。----
『敏郎さん、私をからかっていたのですか? 敏郎さん』
(僕は杏子さんのその言葉に一瞬自分の心を疑った。もしかしたら僕は杏子さんをか
らかっていたのかもしれなかった。いや、少なくとも僕は杏子さんを自分の慰みもの
にしていたような気がして僕は暗然とした心持ちになった。)
『敏郎さん。本当のことを言って。敏郎さん、本当は杏子をもて遊んでいらしただけ
なのね。私、ちゃんと解っているわ。』
(悪魔が杏子さんの心にしのび込んでそう思わせたんだ、と僕は思った。僕の目には
悪魔の姿がはっきりと見えた。悪魔はこんなに苦しみもがいている僕らを見て笑って
いた。)
『敏郎さん、なぜ、なぜなの。なぜ私だけがこんなに苦しまなくっちゃならないの。
』
(僕は何も答えられなかった。受話器から聞こえてくるその声に僕は絶句したままだ
った。
僕は毎日、杏子さんの幸せを祈ってきた。少なくとも杏子さんはこの4年間は幸せ
だったはずだった。かえってこっちの方が励まされていたくらいだった。
魔が杏子さんの心にしのび寄り、杏子さんの魂まで黒く塗り潰され始めてきていた
。
杏子さん、死んでだけはいけないんだ。死んでだけは。僕たちは何のためにこうし
て今まで励まし合ってきたんだ。杏子さん、死んでだけはいけないんだ。生きなくっ
ちゃ。僕らはお互い辛い障害を持って幼ない頃から生きてきたけど僕らはその分ほか
の人たちよりも一生懸命になって元気に生きなくっちゃいけないんだ。僕らは本当に
生きるのが辛くて毎日毎日死んだ方がいい、と思ったりしてきたけど、でも僕らは辛
いからこそ負けないで歯をくいしばって生きてゆかなければいけない。それに僕らは
今まで何のために生きてきたんだい。それにこれまで育ててきてくれた両親に対して
どうするんだい。)
----僕は泣いていました。僕はこの頃自分のことしかあまり考えないようになって(
それに勉強が忙しくもあったので)杏子さんのことを放ったらかしにしていたことを
とても悔んでいました。
僕は自分のことだけを考える人間にいつか堕落してしまっていたのです。
闇の中をひた走りながら杏子さんとの4年間の楽しかった文通のことを思い出して
いた。僕たちは手紙でだけ結ばれていたけれど、