#2403/5495 長編
★タイトル (ZBF ) 93/11/25 5:54 ( 90)
一遍房智真 魔退治遊行 往生 西方 狗梓
★内容
一遍房智真 魔退治遊行−往生− 西方 狗梓:Q-Saku/Mode of Fantasy
エピローグ
一遍は一人、伊予の国から讃岐へと向かっていた。正応二年春。超一と超二は
鎌倉郊外での決戦の後、死んだ。消え失せた、と言った方が良いかもしれない。
或る朝、突然、しかし静かに息を引き取っていた。それから一遍は、菩提を弔い
ながら全国を遊行した。多くの衆生に南無阿弥陀仏の札を与え、心を救った。歳
老い、一旦は伊予に戻った。が、何者かに憑き動かされたように、讃岐に発った。
途中、三島明神に立ち寄り、すでに無用となった破魔の太刀を奉納した。讃岐の
坂出に至った。とある神社で旅の疲れを癒していた。
一遍は怪しんだ。目の前にある六角形の岩から、ただならぬ妖気が発してした
のだ。段々、強くなる。魔の気配がする。見るうちに、岩の表面に、ドス黒い血
が滲み出してくる。一遍の前に、衣冠束帯姿の男が現れる。
「一遍房智真よ、待っていたぞ」蓬々とした髪、五寸近くも伸びた爪、血走った
眼は切れ上がり、裂けたように広がっている口からは血が滴っている。恐ろしい
天狗の姿だ。一遍は、驚かなかった。此処で凄まじい魔に遭うとすれば、何者か
は解っていた。
「崇徳院。帝の位にありながら、日本国の大魔縁となり、何と浅ましい姿」とっ
さに法印を構え、気を集中する。
「待て、朕に法力は残っておらぬ。もう何の力もないのだ。憑いていた魔は既に
散った。朕は帝位から引きずり下ろされた惨めな亡者に過ぎぬ」
「では何故、現れた」
「話がある」崇徳は岩に腰掛け、浅ましくも哀れな顔を一遍に向ける。
「今更、何の話が」
「まあ聞け」崇徳は淡々と語り始めた。
崇徳院は五歳で即位、二十二歳で退位した。すべては父・鳥羽院の都合であっ
た。帝位に執着した崇徳は、再び即位することを夢に見、我が子に望みをかけた。
しかし、思惑は悉く鳥羽院に裏切られた。鬱積した崇徳は父院の崩御直後、反乱
を起こした。保元の乱、後四百年にわたる乱世の幕開けである。
崇徳院は敗北し、讃岐に流された。その地で天皇家を呪った。血で書き写した
五部大乗経に呪詛の誓いを記し、海に沈めて魔の法力を得た。日本国の大魔縁と
なったのである。桓武帝の末裔・平氏に憑依し、世を乱した。しかし清和帝の末
裔・源氏に破られた。次いで源氏の血が絶えた時、再び桓武平氏の流れである北
条執権家に憑依した。そして、一遍に打ち砕かれた。大魔縁としての法力を失い、
惨めな亡者となった。
「一遍よ、朕とそなたはともに仏の掌の上で踊ったに過ぎぬのだ」
「な、何を……」
「考えてもみよ。朕が大魔縁となったのは、何の功力ぞ」
「それは、五部大乗経を……」
「そうじゃ。朕は仏によって大魔縁となり、仏法を守護する力によって法力を打
ち破られた」
「…………」
「朕もそなたも、仏の掌の上で踊らされたに過ぎぬのじゃ」
「しかし……」
「仏には魔が必要だったのじゃ。しかし、魔は限りなく広がり続ける。自ずから
律することは出来ぬ。御するために、そなたが遣わされたのじゃ」
「魔が必要? そんな馬鹿な」
「必要なのじゃ。いや、魔こそ世界の実体なのじゃ。その魔を制御するのが仏法。
魔とは混沌、仏法とは理。世界は混沌なのじゃ。理の働きは制御することだ。
混沌を消すことではない」
「しかし、それなら何故、院を大魔縁に」
「理も人の手にかかると、行き過ぎる。そのために大きな魔の力が必要だった。
理の力を弱めるために朕を大魔縁としたのじゃ。浅ましく帝位に執着する朕を」
「そ、そんな、ならば魔によって苦しめられた民は……。仏の都合で人々は苦し
み、戦で殺され引き裂かれたのですかっ」
「仏に都合などない。都合とは、欲望の謂じゃ。仏に欲などない。仏とは、摂理
そのものなのじゃ。人だけを苦しめる気もなければ、救う気もない」
「そ、そんな……」
「仏は万物の母なのじゃ。人だけの母ではない。仏にとっては万物は等しい」
「で、では何のため私は……、私は……」
「さらばじゃ」
「あ、崇徳院、お待ち下さい、崇徳院」
正応二年八月十八日、一遍は兵庫の観音堂に伏していた。六月ごろから急に体
調を崩していた。己の臨終が間近と覚った一遍は弟の聖戒を枕元に呼んだ。
「聖戒、儂の目に赤い物が見えるか」か細い声で一遍は問いかける。聖戒が覗き
込むと、一遍の瞳の中央に縦一本の赤い筋が走っていた。
「赤い筋、赤い筋が見えます」
「その筋が、儂を生に結びつけておる執着なのじゃ。これが見えなくなった時、
儂は往生する」
「そんな……」
「超一と超二が往生した後、儂には、もう失う物などないと思っておった。じゃ
が……。捨てるために家からも寺からも離れ遊行を続けてきたが。捨て切れな
んだ……」
「兄上っ、一遍様っ」
五日後の八月二十三日早朝、一遍は静かに息を引き取った。享年五十一歳。
肉体が分子となって拡散していく。感じていた圧力が今は無い。母の姿が浮か
ぶ。超一の姿が浮かぶ。超二の姿が浮かぶ。三つの姿が重なり、仏になる。
「阿弥陀仏……」一遍の声に仏は微笑む。頷いて、
「さあ、往生なさい。混沌に帰るのです」
瞬く恒星、流れる星、周りには冷たい、しかし深い深い暗黒。小さく硬く輝く
星々を、大いなる宇宙が包み込む。溶暗。
(完)