#2378/5495 長編
★タイトル (MMM ) 93/10/16 5:59 (200)
「続・杏子の海」 敏郎
★内容
海の中で君の苦しさと僕の苦しさが溶け合って、黒い水の中に僕らは沈んでいって
いた。星空がそんな僕の目にぼんやりと映っていた。
何度も海面へ浮かび上がり助けを求めた。僕の意識は喪われてきていた。そしても
う一息もう一息と僕は水を飲んでいたようだった。
誰かが僕の首根っこを掴んだ。とても力の強い人だった。僕はそうして気を喪った
らしかった。
悲しみの夜は更けていっていた。眠れない夜は更けていっていた。家に帰ってきて
風呂に入ってもまだ僕の体は寒かった。冷たい黒い海のなかで僕の体は冷えきってい
た。そして窓から杏子さんの家の灯りを(いつまでもいつまでも今夜はついている灯
りを)いつまでもいつまでも眺め続けた。
僕も死のう。朝になったら僕も死のう。僕はそう思ったけれど、下へ降りていって
仏壇の前へ座って題目をあげたら元気が出てきてそして僕は
そして僕はもう戻ってこない杏子さんとの楽しかった日々の思い出を思い出しなが
ら題目を朝まであげ続けた。ほんのちょっぴりの…本当にほんのちょっぴりの思い出
かもしれないけれど。
(5月7日 夜 高二)
僕は死んで海のなかから引き上げられた方が良かったのかもしれない。抱き合いな
がら、僕らは屍となって引き上げられた方がよかったのかもしれない。
ゴロも涙を溜めて見送っていたし僕も僕も涙をいっぱい溜めて見送っていた。黒い
杏子さんの棺が霊朽車の中に運ばれるとき、杏子さんのお母さんは泣きながら棺に駆
け寄って泣いた。僕は…杏子さんを殺した僕は…ただその光景を悲しく見遣ることし
かできなかった。
(高二・五月)
君はいつも優しかった。本当にいつも苦しんでいた僕も励ましてくれていた。
いつも元気だった君。いつもくよくよしていた僕。そんな君が死んでしまうなんて
僕には信じられない。あんなに明るかった君が、とてもとても明るかった君が。
寂しかった…寂しかったからなの。私が死んだのはただ寂しかったからなの。病気
が苦しいのでも何でもなかったの。ただ寂しかったからなの。
君も必死だったということを僕は忘れていた。君は寂しさとの戦いに必死だったと
いうことを僕は忘れていた。僕は勉強に必死だった。でも君の寂しさとの戦いほど必
死ではなかった。
『死ぬなら私も一緒よ。』と君は言った。でも僕は死ななかった。そして君がその2
ヶ月後に死ぬなんて、冬のあの厳しい日に僕は君はそう言っていた。
(高二・六月)
いつか僕も負けかけたことがあった。でも僕は負けなかったし、その悔しさをバネ
にして僕は今生きている。一生懸命生きている。
(杏子さんの星)
ここにはまだ清純だった魂が白い天国へと舞い上がっていった。『なぜ死んだんだ
い。杏子さん。なぜ死んだんだい。』
杏子さんはあまりにも純粋だった故に、心は傷つき果てて死んだんだ。杏子さんは
あまりにも純粋だった故に、心は傷つき果てて死んだんだ。杏子さんはあまりに純粋
だった故に、この世に居るのが辛くてたまらなくなって、杏子さんはあまりに純粋だ
ったが故に。
あまりにも純粋だった杏子さん。杏子さんきっと星になったんだろう。今、夏の夜
空にきっと輝いているよね。どの星かなあ…杏子さんの星は。杏子さんが死んで一つ
星の数が増えたはずだけどどれかなあ?
杏子さんの星ってどれかなあ? 杏子さんみたいな星ってどれかなあ。僕今までも
この丘から杏子さんの死ぬ前からゴロを連れて星空を見上げていたけど、どれなのか
なあ。無数にある星だからどれだか解んないや。
するとピカッ、と光ったんだ。まるで杏子さんの黒い大きな瞳みたいにその星が揺
れた。あっ!あれなんだなあ!って僕、解ったよ。あっ、あれなんだなあ、って。
(杏子さん、明るい大きな星になったね。杏子さん、とっても大きな星になったね。
ゴロ、あれが杏子さんの星だよ。あの美しい星が。
僕は傍らに寝ていた黄土色のゴロのわき腹をつついた。ゴロ、あれが生前僕が愛し
ていた女のコの星なんだ。ほら、あの車椅子の… でもとっても綺麗だった 僕が文
通していた杏子さんの星だよ。
(ペロポネソスの丘にて ゴロと)
夜、キラリッと星が光って流れ星となって消えていった。あれは杏子さんの星のよ
うだった。ゴロも杏子さんのいなくなった海辺を歩きながら悲しげにその星を見遣っ
ていた。
海辺は、もう杏子さんの居なくなった海辺は、久しぶりに来た僕とゴロを悲しげに
いつもの波の音や浜辺の香りとともに迎えていた。図書館で勉強してからの散歩なの
で辺りはもうまっ暗だけど、哀愁というか、杏子さんが霊になってこの浜辺にとけ込
んでいるような気がしていた。
月の光だけに照らされたこの浜辺は、浜辺じゅうにいっぱい杏子さんの霊が満ち溢
れているようだった。そして浜辺全体が螢のように輝いているような気もしていた。
その日の帰り、僕は桟橋に立ち寄る気なんて少しもなかったのだけど、桟橋の横を
素通りしようと走っていたらゴロが突然、桟橋の方へと必死になって行きたがった。
杏子さんが死んで始めての散歩だったからゴロは僕らの四日前の出来事を見たかった
のだろうか。僕らの恋の名残りがまだその桟橋に残っていたのだろうか。ゴロは狂っ
たように爪を立てて僕を桟橋の方へと、僕はあまり行きたくなかったのだけど、引い
ていった。
桟橋に立つと四日前の出来事がありありと思い出されるようで僕は頭を抱え込みそ
うになった。ちょうどこの時刻だった。今は僕と杏子さんが助け出されて人工呼吸を
受けていたのと全く同じ時刻だった。
ゴロは桟橋から対岸に見える杏子さんの家の方に向かってとても悲しげに聞こえる
遠吠えを何回も繰り返した。僕は自然に涙が溢れてきた。杏子さんの死ぬときの悲し
みがとても痛々しく僕に伝わってきたようで。
あのときの苦しさや冷たさが思い出されて。そして杏子さんはもっと苦しく冷たく
そして死んでいったことを思って。僕の何倍も何倍も苦しく冷たかったのだろうと思
って。
それからちょうど一週間後、杏子さんが死ぬなんて。僕はとても予想もしていなか
った。あの分厚い別れの手紙を読んでから僕は一週間、失恋と罪悪感とがごちゃまぜ
になった複雑な気分のまま茫然と過ごした。
今も助けられずに杏子さんと一緒に死んでいた方が良かったような気がする。でも
僕は杏子さんや親の期待に添うように立派な医者になって僕と同じような病気で苦し
んでいる人たちを救ってゆくんだ、という気持ちで必死に勉強している。きっと医学
部へ入らなければ、と僕は必死になって勉強している。
まるでこの雨は杏子さんの涙のようだった。8日前、死んでいった杏子さんの涙の
ようだった。
杏子さんが天国から白い雲に乗って下界の僕を見つめて激しく泣いているようだっ
た。
『杏子さん』
----僕はそう空に向かって心のなかで呟いた。『杏子さん、僕死ななくってごめんね
。通りがかりの人が黒い港の水のなかに沈んでゆく僕と杏子さんを本当によく見つけ
てくれたから…本当によく気付いたと思うけど…僕はまだこうやって生きている。
でも学校がきついな、毎日の生活がきついな、という気持ちは今も変わらない。
(僕)
僕は罪悪感に打ちひしがれ、部屋のなかで頭を抱え込み続け、そして唸ろうにも唸
れず、石のように固くなって横たわり続ける。体を丸くしながら。
そして僕も杏子さんの後を追って死のうかなあ、と思った。あのとき、杏子さんが
網場の桟橋から見投げをして死んだとき、あのとき僕も死んでたら良かったんだ。死
んでたらこんなに罪悪感に沈まなくて良かったんだ、と思えて僕を助けてくれた会社
帰りの○○さんにかえって恨みがましい思いを抱いていた。
(高二 五月終旬)
あの日、ずぶ濡れになって家に走って帰ってきたあの日、僕は風呂のなかで泣いた
。僕は、警察や消防署の人から『帰ってもいい』と言われて僕は濡れた体のまま来た
とおりの道を通って寒さに震えながら来たときの速さぐらいの速度で家へと帰った。
父や母や姉ももう帰ってきていてもう風呂が湧いていた。僕は家に入るとすぐに風
呂場に駆け込んだ。父や母や姉もまだ今日の出来事を知らないであろう。僕が殺した
んだ。僕が殺したんだ。という自責の念が強い罪悪感となって僕について廻っていた
。
君がスフィンクスのようにペロポネソスの浜辺に立っていた。車椅子に乗ってスフ
ィンクスのように立っていた。もう君は死んだはずなのに、だから君の霊かもしれな
いけどそっくりそのままに、君が浜辺に車椅子のまま出ていた。
君は赤い太陽に向かって飛んでいた。お星さまでなくて、赤い太陽に向かって、何
故か君は飛んでいっていた。
君は僕が助けに来てくれることを知ってたんだろ。でも僕は胸への痛さに耐えかね
て何度も倒れた。血も吐いた。僕は自分の喉や胸がこんなに悪くなっていることは知
らなかった。君は僕が来るのが遅くて、失望して、そうして死んでいったのだと思う
。僕は必死に走ってきたのに。這いながらも進んできたのに。
※(杏子さんの死んだ翌日、僕の家のポストに入っていた杏子さんの手紙)
(敏郎さんは強いかたです)
敏郎さんは強いかたです。二月のあのピンチをくぐり抜けられてきた敏郎さん。私
だったらとっくに死んでいたと思うのに敏郎さんは堪えてこられて、今明るく生きて