#2377/5495 長編
★タイトル (HBJ ) 93/10/16 3:46 ( 71)
『精神的売掛金増加方法』6<コウ
★内容
♀♀♀♀
今日、付属病院で、私と同じ年齢だけれども、もう、十年選手になろうとしてい
る先輩に会った。
私と先輩は、付属病院の食堂で、食事をしたのだけれども、まだ学生の私の方が
白衣を着ていて、先輩は、Tシャツを着ていたので、丸で、私が医師で、先輩が学
生か患者の様な感じだった。
食堂の壁に、来年から病院が週休二日になる旨の張り紙が貼ってあったのだけれ
ども、その文言に、「世界の趨勢としての時短」とか「国の要請で仕方なく」みた
いなのがあって、
「仕方なく週休二日、みたいな書き方は、僕は嫌いだな」と先輩が言った。「本来
は、休みたいから休むんだ文句あっか、でいいのに、本当は勤勉でありたいのだけ
れども、諸外国がうるさいから、いやいや休むんだ、みたいなノリで休むのは、僕
は嫌いだな。楽をさせて下さい、とは、言わないんだねえ」
「案外、私は、ああいうやり方は、分かる様な気がするわ」と私は言った。
そして、私は、私のやり方を説明した。つまり、欲しいものを欲しいと言わない
で、他人の要請で転がり込む様に仕向ける、という方法を。
先輩は、軽蔑の色さした目で、私を見つめていた。
「いけませんか?」と私は言った。
「君は何も分かっていないんだな」
それから、先輩は、彼自身が、「分かっている」と思っている事を、私に説明し
た。
先輩は、神経科の医師なのだけれども、ある時、胃腸神経症の患者に、内視鏡検
査の結果の、「異常無し」を知らせた。先輩は、その時に、何か、プレゼントでも
する様な気分でそう言ったそうだ。ところが、患者が言った。「私の体で楽しまな
いで!」と。
「ずしっ、と胸に来るものがあったねえ。僕は、欲しいものを手に入れておきなが
ら、金を払わないでいたのではないのか? と思ったよ。いや、金を受け取って、
なおかつ、厭らしい虚栄心まで満足していた事に気が付いたんだ」
「それで白衣を着ないんですか?」と私が言った。
「え?」
「白衣を着て、高みから見おろすのが嫌だから、だから、Tシャツを着ているんで
すか?」
「まあ、そうだろうねえ」ヨレヨレのTシャツを触りながら、先輩は言った。
その方が、ずっとずっと、厭らしい、と、私は思った。
どうせ、医者は医者なのだ。先輩のやっている事は、会長になっても作業衣を着
て下請けを視察する本田宗一朗と同じだ。遊び人の風情で江戸市中を彷徨く、遠山
の金さんと同じだ。カミュの『誤解』と同じだ。この際、医師は、悪役を引き受け
て、パリパリに糊のきいた白衣を着て、「そうさ、私は、他人の弱みみつけこんで、
楽しんでいるのだ」と言った方が、良い。そうすれば、患者の方では「この医者は、
私に施す事で、いい気持ちになっているのだから、私は、施される事によって、こ
の人に『施しの快楽』を施している」という気持ちになれる。
更に、その事を、私に言うな、と、先輩に言いたい。先輩は、懺悔をすれば救わ
れると思っている。それは、多くの人が、さしたる理由も無いのに、殺人を犯すの
に似ている。彼らは、邪悪な考えを一人でもっているよりは、殺人という表現をす
る事によって、「さあ、私はこんなに邪悪な考えをもっていたのだ、どうか軽蔑し
て下さい」と告白する事で、救われようとしているのだ。少年リンカーンではある
まいに、軽蔑される事を承知で告白したから偉い、という事にはならない。
もし私が、「私は、患者の欠乏につけ込んで満足しているという事に、負い目を
感じている」という事を、告白してしまったら、私は、虚栄心の満腹に対する料金
を払わない事になってしまう。さらには、告白のカタルシスの快楽まで得てしまう。
だから、この事は死ぬまで誰にも言わない。絶対に誰にも、言わない・・・・。ね
え、康夫さん、聞いている?」
康夫さんは、果たして聞いているのかどうなのか、テレビのナイター中継を見て
いた。
「ねえ、聞いているの?」
「ん、うん。聞いているけれども」と康夫さんが言った。「お前、死ぬまで誰にも
言わないって、俺には言ったじゃない」
それは、サンチャゴの饒舌にはどうしても読者が必要だ、という事なのだけれど
も、「まあ、それは、どうでもいいのよ」と私は言った。「ところで、康夫さんの
方でも話がある、って言っていたじゃない」
「ああ、あれか」と康夫さんが言った。「あれは、どうでもいいんだ」
「ふーん」
結局、本当に伝えたい事など、何にも無いのかも知れない。
ちなみに、今夜は、エミがいるにも関わらず、蕎麦をとった。ナイターでは、桑
田が完投して、石毛の出番はなかった。
これは話の本筋とはなんら関係無い。私は、実に、全ては始まったばかりだ、と
思うのだ。
【了】