#2376/5495 長編
★タイトル (HBJ ) 93/10/16 3:45 (171)
『精神的売掛金増加方法』5.5<コウ
★内容
俺と大坂さんは、近所のファミリーレストランに入った。ガキどもは、レストラ
ンの室内にある、合成樹脂のジャングルジムで遊んでいる。里美は、今ごろ、何を
しているのだか知らないけれども、人の奥さんと、昼間から、向かい合って座って
いると、ちょっと、エロティックな気分になってくる。WORLD・GYMとプリ
ントされたTシャツの、「G」と「M」の文字が、おっぱいの膨らみで、歪んでい
るではないか。
「まあねえ」と大坂さんは、和風シャリアピンステーキにナイフを入れながら言っ
た。「年長組になったら、送り迎えも無くなるし、楽になるわよ」
「そりゃ、困ったなあ」と俺。
「困る事、無いでしょう」
「子供に手がかからなくなったら、主夫は用済みだからね」
「ふん、捨てられる不安でも、おあり?」
「そういう訳じゃあ」と俺は唸った。「大坂さんは、何でご飯を食べるの?」
「お腹が減るから」と言って、大坂さんはシャリアピンステーキを口に入れた。
「だったら、食欲不振だったら食べないの?」
「さあ、どうかしら」と大坂さん。
「胃薬を飲むでしょ?」
「ま、そうかもね」
「里美も同じですよ。必要がなくなる前に、俺が必要を作ってやらないと」
今一、大坂さんは、分かっていないみたいだ。俺も、今一、よいたとえではなか
ったなあ、と反省する。
「つまり」と俺は言った。「俺がいないと困る様な状況にしたいんだけれどもなあ」
「例えば?」
「覚醒剤中毒にしちゃう」と言ったら、大坂さんの眉毛が一ミリずつ、つり上がっ
た。「なんちゃって」俺は慌てて付け足した。
「駄目よ」案外、真面目な答が返ってきた。「里美さんの欠乏をあたなが作ったの
んじゃあ、その欠乏を埋め合わせて当たり前だから、意味がないじゃない」
「そんな事言っても、天災を待っている訳にも行かないしなあ」言ってから、第二
次関東大震災後の車椅子生活の里美を想像したけれども、全然そんな事は望んでい
ない事に気が付いた。そんな女に売り掛けても、不渡りを食らうだけだ。
アミューズメントスペースの方からガキの泣き声が聞こえた。見てみたら、エミ
が泣いていた。ジャングルジムからおっこちて、後頭部をしこたま打ったのだろう。
だけれども、俺は、ダスティン・ホフマンと違って、駆け寄って行ったりしない。
それに、ウレタンのマットがひいてあるので、怪我なんてしないのだ。大坂さんの
長女が撫でている内に、泣き止んだ。
エミを見ていて、思い出した。あの子は、ほとんど、俺が育てた様なものだ。お
しめも交換したし、ミルクもやった。哺乳瓶を押さえていたのは座布団だけれども、
ゲップを出させてやったのは俺だ。熱が出れば座薬も刺してやったし、ひきつけれ
ば指も噛ませてやった。そういう、マイホームパパぶりが嫌われて、バブルと一緒
に首が弾けたというのに、ここまでエミを育てた俺の売掛金は、何処へ行った?
と俺は思った。やっとこ手がかからないぐらいに育ったら、主夫たる俺が捨てられ
る、っていうのは、おかしいではないか。
「大坂さんは」俺が言った。「捨てられる、とか思わないの?」
へ、という顔をすると、サラダボールをつついていた手を休めた。「そんな事をし
たら主人の世間体がたたないわよ」と大坂さんが言った。
「それは、例えば、さんざん世話になった親を見捨てるのか! という様な事?」
「それとはちょっと違うけれども」大きなレタスを小さな口にねじ込みながら言っ
た。「若い時だけ楽しんでおいて、今更、駄目って事ね。離婚するなら、一年以内
よ。ラジカセだってウォークマンだって、一年以上たったら、修理するのにお金が
かかるんだから、離婚するなら、若い体を返してもらいたわ」
もぐもぐしていているから、何を喋っているのだか、よく分からない。食うか喋
るか、どっちかにしろ。がばがば食う女だ。マンションの下水を詰まらせているの
は大坂さん、だったりして。
「だけれども」と俺。「大坂さんは、旦那さん食わせてもらっているんでしょ?」
「あら、男の発言」と言うと、紙ナプキンを口に当てた。「だからこそ、捨てられ
ないのよ。猫だって犬だって、一回飼われたら野生に返れない、」そこまで言うと、
ナプキンを丸めた。「別に、自分の事を、ペットだなんて思っていないけれどもね
え。とにかく、亭主が女房子供の犠牲になっている、っていう言い方、ムカつくの
よねえ」
「ムカつくなんて言われたって、俺、困っちゃうよ」
ムカつくのは、食いすぎなのではないのか?
「別にあなたに言っている訳じゃ無いのよ。全ての男は消耗品だ、とか、エネルギ
ー保存の法則、とか、そういうのはみんな嘘で、つまりは、ルーの法則だと思うん
だなあ」
「なんですか、それ。カレーのルーと関係あるの?」
「ルーっていうのは、フランスの有名な生理学者でね」と言うと、大坂さんは、ア
イスコーヒーにガムシロップを入れてかき回した。「筋肉というのは、適当な刺激
を与えないと発達しないの。だから、あんまり過激なトレーニングもいけないのだ
けれども、何にもしていないと、衰えてしまうのね。だから、ウェイト・トレーニ
ングは、ベンチプレスだったら、多くても、週に二回が最高かなあ」
「なに、それ」俺は呆れた。「なんの関係があるの」
「いやいや、だからね、内の旦那も、それと同じでさあ、カマキリみたいに、自分
が食われるというならともかく、盗んでくる訳でもないし、どんどん、キャリアに
なって、どんどん社会に必要な人間に成長していく訳だから、別に、消耗されてい
るって事にはならないのよ」
それは言える、と、俺は思った。里美も、よく、社会に必要とされたい、とか、
世の中の役に立ちたい、とか言っている。その癖、低血圧だからと言って、献血も
しない。医学生の癖に、骨髄バンクのドナーにもならない。俺が、そういう事を言
うと、「ファッショだ、ファッショだ」と責める。「戦争するなら首相が矢面に立
て、的な発想は、低能ファシストの思想だ」と、俺をコケにする。今、思い付いた
が、あいつの、「人の役に立ちたい」というのは、要するに、「他人の欠乏につけ
込みたい」という事ではないのか?
「俺の義理のおじさんの弟が医者なんだけれども」唐突に俺は言った。
「なに、それ」と大坂さん。「赤の他人って事?」と言ってから、アイスコーヒー
を吸う。
「赤の他人でも万世一系でもいいんだけれども」と俺。「とにかく、その人が言っ
ていた話なんだけれどもね、その人は、ボランティアで、筋ジスの介抱をしていて、
それで、結局、その筋ジスの人は亡くなったのだけれども、その人はね、彼のおか
げで『愛』の意味を知る事が出来た、とか言ったんだって。だけれども、そういう
の、俺、おかしいと思うんだよね。だって、その人の『愛』とかいうの、ユートピ
アに住んでいたら、発揮する事の出来ない愛だもの。そんな愛は、偽物で、なんと
なく、他人の欠乏につけ込むなんて、よくないと思うんだよなあ」と、全く要領を
得ずに冗長に喋った。
「ふーん」と言うと、大坂さんはラークに火をつけた。「だから?」
「いや、だから、里美が医者になったとしても、それは、他人の欠乏あっての社会
に必要な人間だと」
「そんな高級な問題じゃなーい」タバコの煙をくゆらせながら、大坂さんが言った。
「へ?」
「だって、世の中の為になりたいなら、NGOでも海外青年協力隊でもいい訳だか
ら、単に、家庭の問題なんじゃないの?」
家庭の問題なら、世間から何と言われようと、たとえ、ヒモと言われようと、う
んちつきパンティーを洗ったのは俺だし、ついでに米も洗った。
「オルガスムの問題よ」おっぱいの下で腕組をしながら、大坂さんが言った。心臓
が、どきどきしてきた。もしかして、午後の誘惑か?
「男しか気持ちよくならないんだものねえ」大坂さんが言った。
「だけれども、この前、歯医者で読んだ『女性セブン』には、女のオルガスムは男
の約十倍だ、って書いてあったけど」
「あんなものは、男が勝手に想像しただけよ。わたしは、最近、キンゼイ白書を読
んだけれども、十二才から七十何才までの四万人の内、なんと九十%はオルガスム
が無い、って書いてあったわ。残りの十%も、あれがそうだったのか、程度ですっ
て。少なくとも処女にはオルガスムなんて、無いわね」
俺は確かに、気持ちよかった。皿を洗っても、パンティー洗っても、セックスの
時に気持ちよかったのだから、既に、ペイしていたのかなあ。一緒に、行く行く行
く、なんて、考えてみれば、馬鹿馬鹿しい。こっちが射精するずっと前に、向こう
は排卵しているのだから。
「だけれども」と俺は言った。「オルガスムが無い限りはコイタスしないとも限ら
ないと思うけれども」
「コイタスって何?」
「つまり、性交」
「あなた、オルガスムがなくても、セックスするの?」
ずばずば言うオバサンだなあ。
「ユンケルとかジャームオイルとか飲んだりする」と俺。
「ふーん、お宅では、そうなんだ」
「いや、性交に限らず、例えばね、便意が無い限りはトイレに行かない、って事は
無い訳で、二日も便意が無かったら、焦って、タケダ漢方便秘薬を飲むでしょ?」
「あなた、便秘なの?」
「いや、例えば、の話」
「とにかく、女だってオルガスムを感じるんだったら」と大坂さんが言った。「ど
うして、売春の時には、何時でも、男が金を払うの?」
「じゃあ、大坂さんの結婚は売春?」とは言えないので、「じゃあ、大坂さんは、
愛していないんですか?」と聞いてみた。
「あなたは愛していたの?」
「過去形ですか」
「だってねえ」と言うと、大坂さんは、身を乗り出してきた。「子供を産ませて、
肉体を台無しにして、愛している、なんて、信じられないわよ。出産の場合には死
ぬ事だってあるのよ。あなた、バスケットボールを、尿道でも肛門でもいいから、
出せる? 出産って、辛いのよ」
「ちょっと待って」俺は言った。「大坂さん、ちょっと待って下さいよ。なんとな
く、ズレている様な気がする」
「どこが、よ」
「だって、オルガスムがあるから、男社会だなんて、どうして急に生物学者になっ
ちゃう訳?」
「あなたこそ、さっきから胃薬だの便秘薬だの、って生物的な事を言っているじゃ
ない」
「それは、例えば、の話しであって、俺は、成熟した市民社会における男と女につ
いて話しているのに、どうして、弥生時代の男性と女性も通り越して、霊長類ヒト
科の雄と雌の話しになっちゃうの?」
「何を言っているのよ、成熟した市民社会において、なおかつ、女性を生物と扱う
事が軽蔑だと言っているんじゃない、人間の中にもう一人人間がいる事を想像して
みなさいよ、だから吐き気がするのよ。植木鉢じゃあるまいし、母なる大地とはよ
く言ったものだわ」
母なる大地は、ライスのおかわりをして、大地の恵みをよく食べた。
だが、フェミニズムなど、どうでもいい。俺が興味があるのは、里美と俺の凹凸
問題ではなくて、病人と里美の凹凸問題だ。里美の奴は、「あんたは言葉だけ、あ
んたは広岡監督、あんたには実際が無い」と俺をコケにしてきた。里美には、医療
を施す、という実際がある訳だ。しかし、「その様なものは、他人の欠乏を利用し
ている嫌らしい方法だ」と、突っ込んだら、どうなるだろうか? 離婚されるか?
そんな大げさな事にはならないか? 午後のワイドショーで、産婦人科だと思って
結婚したら、堕胎専門の中絶医で、胎児を殺した金で子供を育てるのは気が重いし、
胎児を殺した手で私の子供を撫でたりしないで、と言ったら、離婚された、という
人生相談を放送していた。
もし離婚されたら、と、俺は想像していみた。もし離婚されたら、「ほーら、や
っぱり、俺が犠牲者だったのだ」という事が、明確な形を得る様な気がする。里美
の方では、初めて、「自分は亭主を食い物にしていた」と思い知るのではないのか?
それは、ちびちび貯めた硬貨を紙幣に交換した様な感じに似ている。里美に捨てら
れるのは恐い気もするが、離婚という観念が頭に浮かんだ瞬間から、離婚というも
のがどんなものだか知りたくてたまらなくなった。それは、癌ノイローゼの患者が、
癌に関する本を読みあさる心理に似ている。離婚を恐れる男こそ、本当の離婚につ
いて、知りたいのだ。
今こそ、売掛金回収の時だ、と、俺は思った。今晩、絶対に言ってやる。