#2368/5495 長編
★タイトル (FAM ) 93/10/14 18:20 (126)
黒くそして歩く物 召喚・ PART1 「化粧」 KMP
★内容
その男は格子の浴衣をぞろりと着流し、ゆらゆらと階段を上って行く。ひ
どく痩せていていかにも貧相な上、まるで首ひとつ落ち込んだような猫背だ。
建ててから百年は経つだろうその旧家の柱や梁は太く、黒々と底光りしてい
る。 男のひたひたと歩く音が窓ひとつない暗い廊下に響き、やがて立ち止
まると重くきしる音と共に、ひどく古びた重い扉が開かれた。
その部屋の床はガラスのように磨きあげられていた。古いチーク材か、マ
ホガニーのような深い、気品に満ちた輝きを持ち、何か近寄りがたい神秘的
な雰囲気をただよわせていた。
それは「アルー」に与えた供物への報酬であり、ある意味で宇宙そのもの
とも言える「波紋」が描かれている。
男は素足でその床の上に立ち、懐手をした袂からやけに長い指を覗かせる
と、「南風の皇帝」シュルフームにシフトした。顔はゆっくりと砂漠の荒野
に住む民族のようにひび割れ、目は落ちくぼみ暗い穴のようになる。やがて
手にした青い木の葉に指で火を灯すと、「波紋」が描かれた部屋の中にゆら
りと歩み寄った。
猫が舌なめずりするような不気味な音を立て、囁くような、うなるような
ヤンタルーク語を唱えながら、灼熱のネフドへ、ダリオスの矢を持つ(恐れ
多きもの)、燃ゆる灰シレフルと巧みに転移しつつ、渦巻を巻くように「波
紋」に近づいてゆく。
まるで幻のように、鱗に覆われた黄金色の鰭と化した右手が操り人形の使
い手のように動き、大王ベールの迷宮にのみ通じるシラブルを送り出す。
彼の立つ磨きあげられた床の上に、白銀色に輝く「波紋」がプラチナのよ
うな明滅を繰り返し浮かび上がった。
滴が落ちる透明な音と共に、その赤黒い肌をゼリー状の斑点で彩った生き
物が、ぶるぶるとピラミッド形の身体の表面を振動させながら、輝く「波紋」
の「§」の位置に立ち尽くしている。
「……誰を呼ぼうとしたのだ?《蜜を塗る者》よ。……求める物はここに
はなにひとつありはしないというのに。」
斑点はさらに暗くなり、おびえたような振動を繰り返す。
「ここは愚者の村はずれだ………何を見つけたというのだ?」
男は「砕かれた密使」までシフトすると、七本の棒切れのような腕で七つ
のシラブルを送った。それぞれメルキド、サイヤ、ベルロブ、カイザン、そ
して名を呼べぬ畏怖すべき者たち。
赤黒い生き物は捻くれた飴の棒のように立ち上がると、全身を黒く染め変
えながら懸命に変形する。それはまるでシルクハットを被った、十八世紀の
紳士のシルエットに似ていなくもない。
「……なんなりと、閣下。」
生き物はぶるぶると細かい痙攣で黒い肌を波打たせている。男は簡単な手
付きで生き物の擬態を解いた。生き物はぐにゃり、と元のピラミッドの身体
に戻る。さっきよりは多少平べったい。
「おまえの名は。」
生き物はその頂点の近くに瞳を開いた。猫のような虹彩が揺れる。
「もとよりございません、閣下。私はただの浮遊する媒体にすぎません。」
男は人間の姿に戻り、床の上にあぐらをかくと長い顎を撫でさすった。今
はさっきまでの恐ろしくも偉大な、この世の者ならぬ誇り高さのかけらも浮
かべてはいない。
「…………おまえは「化粧」、かつてサムサと呼ばれていた。なあ、サム。」
生き物は音も無く透明になり、立方体や楕円の板の形をした内臓のような
ものを虹色に輝かせる。男は意に介さないかのように、のびた顎髭をつまん
で抜き取ると、痛みに顔をしかめながら続けた。
「まあ、気にするな。要はちいとばかり働いてくれればいいのさ。最もサ
ムサ、おまえはこっちの世界じゃ有名なんだぜ。一番強い国の金に印刷され
ているぐらいだ。」
「強い国というと」サムサと呼ばれた生き物は真夏の陽炎のようにゆらめ
きながら、ガラスを引っ掻いたような音をきーきー響かせる。それは名を呼
べぬその国の名を意味する古い言葉だ。
「いんや」男は手を団扇のようにはためかせた。「そいつにはそのうち用
があるがな。」男は立ち上がると、浴衣の懐からモス・グリーンをした円盤
状の物体を取り出すと、サムサと呼ばれる生き物の前に滑らせた。
「前金としてどうだい。」
サムサの五面体の身体から針のようにとがった触手がおどおどと伸び、円
盤を持って回転させ、やがて赤い糸を巻きつけたような紋様を浮かべると、
「閣下、これでは望外です。」と震える声でいった。
男は破顔一笑すると、ポケットからいくつもの円盤を取り出してサムサの
足元に放り投げた。鈍い落下音と共に、生き物の目の前に次々と円盤が山と
なっていく。
サムサは身体中を透明な青、やがて鮮やかな紅に染め、山となった円盤を
まるで硝子細工の芸術品を扱うごとく、必死に二十本もの触手をうごめかし
て積み重ねる。
「欲のない魔の者とはな。ひとことぐらい、値を吊りあげるものだぞ。」
円盤をピラミッドのように美しく積み上げ終わると、ようやくサムサはた
だひとつの目を男に移し、全身を嵐の夜に波打つうねりのように痙攣させな
がら、あきらかに狼狽した様子で言った。
「あなたは、地上の王に違いない。」
瞳はあらゆる色彩に輝き、あらわな敬意と畏怖に打たれている。
「だが、あなたの指が送る言葉は地上のものに秘された言葉だ。」生き物
は目を身体のなかに溶け込ませた。「あなたが判らない。」
一瞬ばつが悪そうな表情を浮かべた男は目を閉じて沈黙する。じょりじょ
りと不精髭をこする音が高い天井に響いた。
「わたしは」サムサは再び透明になると、囁くようなヤンタルーク語で言
った。「……命を賭けることになるのだろう。そうなればいま与えられた大
いなる富も価値があるとは思えないが」サムサは混乱し、狼狽し、そして絶
望する。その姿は果物入りのゼリーだ。
「………あなたは何を望むのだ?」
男は突然酔っ払いのようにゆらめいた。そして「霊峰たるジャイナス」に
シフトすると、最高位に近い枢機卿コリントのシラブルを漂う霧の右腕で送
り、左手を高だかと上げた。
「なあに、契約さ」男は言うと長い指を鳴らした。ぴんという音が部屋に
響き渡り、音は光りの雫となって、青い鎌の印を記した羊皮紙が「波紋」の
上に現われる。それは何か、眼に見えない者によってサムサの前に運ばれた。
ピラミッド形の身体はうねうねと捩れ、触毛のような細い糸が絡まり縺れ
る。男は幾億年もの雪をいただいた巨大な山脈のようにサムサの前に立ち、
数々の失われた言葉が交わされると共に、羊皮紙は見る間に紅く染められ、
やがて深紅の鳥となって闇の中に消えた。
「生き物」はすでに「生き物」では無く、緑色の甲胄で全身を覆い、金の
蛇をかたどった紋様を頭上にきらめかせ、尖った7本の足を持つ星型に変化
して空中で回転した。きらびやかに輝く星のような戦士、誇り高く老獪な策
士。「化粧」サムサだ。
「どこか遠い昔」サムサは星の中心にある巨大な眼を開く。「私はこのよ
うにあった」 男は広い額から流れ落ちる一筋の汗を拭い取り、浴衣の衿を
広げて風を送った。「やれやれ。仕事はまだこれから。まだちいと足りない
んでな。」
サムサはゆっくりと時計のように回転しながら、「高貴なる螺旋、狂った
油壺も。そんな名を覚えています。」
男は首をぐらぐら頷かせ、細長い手首をサムサに向かって振った。
「仰せのままに、閣下。それでは、芳醇の花の下で。」
サムサの足元の魔法陣が鈍い銀色に明滅すると、収縮する恒星のように一
瞬にして消えた。薄い煙を残して、「波紋」が暗くなってゆく。
男は安煙草に火を灯すと、ゆっくりと紫煙をくゆらせた。部屋はすでに磨
きあげられた床を持つ、空虚な空間にすぎない。
「えらく金がかかっちまった」
男は呟やくと、重い扉を閉めて暗い階段を降りていった。ふと、懐に残っ
た円盤を取り出し、年代もののチェストの上に山積みになった芳香剤の山に
戻した。その香りの主成分は、ある世界ではこの世界の黄金にも匹敵する貴
重品だ。
窓の外に、夕焼けに赤く染まった山並みが見渡せる。冬の気配を漂わせた
その山はしだいに青く、影となって闇に溶け込んで行く。
男は浴衣の衿を合わせ、ぶるっと震えると葉の落ちた柿の木を見上げた。
「冷え込むな、今夜は。」
土間の暗がりで、下駄を見つけるためにしばらく毒づき、男はごく低位の
シラブルで小さな炎をその指に灯した。
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ううむ。締切がないと仕事も趣味もやれないってのは一種の病気かも知れな
いなあ。というわけで今回は架空の締切を作ってみました。 KMP