#2360/5495 長編
★タイトル (BCG ) 93/10/ 2 12:37 (182)
マッハ (8) くじらの木
★内容
薄く朝もやがかかっていた。
僕とゆりえと進はその残骸をとり囲むようにして立ち、RSSと書かれた文
字を眺めていた。
足元の土にはオイルの黒いしみが広がり、あたりはガソリンの匂いがした。
ブルーに黒のラインのはいったタンクは、とり外されて水溜まりのなかに投
げ捨ててあり、まるで濡れた紙風船のように見えた。
むきだしにされたフレームには乱暴に引きちぎられた赤やブルーの配線が絡
みついていて、その上に外された前後のタイヤが積み上げてある。
ウインカーや、ライト、メーター類はすべて粉々になっており、赤や黄色の
プラスチックの破片がその残骸の周りに散らばっている。
RSS、その文字はそれだけがきれいな形で残された黒いシートの上に赤い
ペンキで書かれてあった。
進は水溜まりの中から、きずだらけになったタンクを引き上げ、泥にまみれ
たカワサキのエンブレムを手で拭った。
W1はただの屑鉄になった。
「RSS」
ゆりえがつぶやいた。
「RSSの奴らが動きだしたんだ、俺達に対しての警告のつもりなのかもしれ
ない」
進が呆然とした表情で言った。
「何を恐がっているのかしら、だって私達はまだ何もRSSについてはわかっ
ていないのよ」
「いや、もしかしたら俺達は気が付いていないだけで、案外彼らの正体に近付
いていたのかもしれないぜ」
進が下を向いたままそう言った。
W1がメチャクチャに壊されたという電話をゆりえがよこしたのは朝の六時
すこし前だった。
進から電話があったのだとゆりえは言った。
僕はもしリョウから電話があったら必ず電話番号を聞いておいて欲しいとお
ふくろに言って家を飛びだした。
ゆりえが進に言った。
「警察に行ったほうがいいわ」
「何にも分かりゃあしないさ、武藤の事件のことをまた蒸し返されるのが落ち
だ」
ゆりえが何か言い返すだろうと思ったのだが、彼女は何も言わず、唇をつん
と尖らしたまま軽く腕を組んだ、それはゆりえが考えごとをするときの癖だ。
迷ったあげく、ゆりえに昨日美子の家に行ったろうと言おうとして、寸前で
思いとどまった。
リョウから電話があったこともゆりえにはしばらくの間言わないでおこうと
思った。
家に戻り、イライラしながらリョウからの電話を待ち続けた。
電話が掛かってきたのは、夜の九時半ごろだった。
リョウの声にはせっぱ詰まった様子も、追われる者のやつれもなく、あっけ
らかんとしたその声は何だかとても不思議な気がした。
隣の居間で聞耳を立てているおふくろに聞かれないように声をひそめて話し
た。
「リョウ、いま何処にいるんだ、お前たいへんなことになってるのを知ってる
のか」
「瀬島、なに深刻ぶってんだ、あの糞社長のことなら自業自得だぜ」
やはりリョウは何も知らなかったんだ。
あの留守伝のメッセージさえも聞いていないのだ。
「お前、そんなのんびりしたことを言っている場合じゃないんだ、武藤が死ん
だ事件で警察がお前のことを追ってる」
電話が沈黙した。
かすかに電話の向こうに車の騒音が聞こえた。
「嘘だろう」
「あの日、学校に来ただろう、生徒に見られてるんだ」
「警察は何処まで知ってるんだ」
「そんなことが分かるわけないだろう、ただお前のことを疑っていることだけ
は間違いない」
再び沈黙。
「いま何処にいるんだ」
「池袋駅から掛けてる」
「聞きたいことがいくつかあるんだ、今から家を出る、どこかで落合おう」
浦和まで来てもいいとリョウは言ったが顔見知りの奴に会わないためにも池
袋のほうがいいと僕は言い、東口の改札を出た所で待ち合わせた。
おふくろに、リョウは今大阪にいるらしいと嘘をつき、風呂に入った後パジ
ャマに着替えて二階の部屋に入った。
十時過ぎにジーパンとTシャツに着替え、音をたてないように二階の窓から
隣との境のブロック塀に飛び移り外に出た。
がらがらの電車に乗り、池袋の駅に着いたのは十一時二十分だった。
人混みに圧倒されながら改札を出て、辺りを見回した。
早足で近付いてきた紺のサマースーツを着た男がリョウだということに僕は
彼がサングラスをとってこちらに笑いかけるまで気が付かなかった。
長かった髪の毛は短く刈り上げてあり、いくぶん太って丸くなった顔はやり
てのビジネスマンのようにきれいに日焼けしていた。
危なげな雰囲気は無くなっていたが、何処かヤクザな匂いがした。
リョウが言った。
「久しぶり」
「まったくだ」
あての無いまま僕らは東口に向かった。
リョウは歩きながら煙草を取り出し、口にくわえると、僕にも煙草を差し出
した。
要らないと手を横に振った。
「何処か知ってるところがあればそこで話さないか」
リョウは「ああ」と言うとパルコの前を通り、明治通りを六つ又陸橋に向か
って歩き出した。
「今まで何処にいたんだ」
「女」
「場所は何処さ」
「中野」
ホテルサンルートの脇を左に折れ、文芸座を過ぎて細い路地に入った。
「あの日、お前は何しに学校へ来たんだ」
「学校へ魚釣りには行かないぜ」
イライラした、何処から話せばリョウに事の重大さを伝えられるんだ。
「なんですぐ帰ったんだ」
「瀬島、あわてるな、全部初めから話すさ、朝までたっぷり時間はあるぜ」
確かにそうだと思った、菩提樹という喫茶店をリョウが顎で示したときまで
は。
僕らが囲まれていることに突然気付いた。
菩提樹の向こうに、ジャンバー姿のいかつい体格の男がさり気なく道を塞ぐ
ようにして立っている。
手前の四つ角にはコーラの自動販売機に酔っ払いを装って男が一人もたれか
かっていて、それをもう一人の男が介抱している。
小さな声でリョウに言った。
「刑事だ、尾行されてたのかもしれない」
煙草をリョウからもらうふりをして後を見ると、背広姿の男三人がこちらに
向かってゆっくり歩いて来るのが見えた。
男の一人と目が会った。
三人の男達はもう僕らに見られているということを気遣うこともなく堂々と
した歩き方で僕らに近付いてくる。
足ががくがく震えた。
「笑え」
リョウが言った。
笑ったつもりだったが相手にはただ顔を引きつらしただけに見えたかもしれ
なかった。
「逃げるぜ、俺のする通りにしろよ」
リョウが唇をほとんど動かさずに言った。
リョウはにこにこしながら三人の刑事たちに向かって歩き出した。
二、三度頭を下げ、手で頭を掻いた。
三人の男達の中の一人が軽く右手を上げると、通りの向こうにいたジャンバ
ー姿の男や、自動販売機の前にいた二人連れの男達が芝居は終わりだといった
具合に緊張を解いてこちらに向かって歩き出した。
リョウは立ち止まり、へらへらと笑い続けた。
突然、リョウが僕のシャツを引っ張り、三人の男達に向かって五メーターほ
ど走った。
「登るぞ」と僕に向かって怒鳴り、ポリバケツを踏み台にして左のラブホテ
ルの塀の上に飛び乗った。
僕がリョウに援けられてその上に飛び乗ったとき、かすかに刑事の手が僕の
足に触れた。
刑事たちの罵声が聞こえる中、僕らはラブホテルの細長い植込の中を夢中で
走りぬけ、線路沿いにある玄関口から外の道に飛び出した。
刑事たちを見る余裕もなく、池袋の駅の方向に全速力で走った。
「瀬島、また暫らくさよならだ」
リョウが途切れ途切れに言った。
「リョウ、一つだけ教えてくれ、お前は学校でいったい何をしたんだ」
「死んでる武藤の足から上履きを脱がして屋上に置いた、それだけだ、殺しち
ゃいない、お前か進がやったんだと思ったんだ」
「あれは僕じゃない」
行く手に男が一人飛び出した。先回りされたのだ。
男は両手を広げ「そこまでだ」と怒鳴った。
後からバラバラと靴音が聞こえた。
「リョウ、逃げろよ」
僕はそう叫び、リョウと二人でそのまま道を塞いでる男に向かって突っ込ん
だ。
僕が男に向かって飛びかかるようにして抱き付き、手足を強引に絡みつかせ
た。
男の手がリョウのスーツをつかんだが、リョウはそれを肘を突き上げるよう
にして払いのけた。
男はバランスを崩しながらも、リョウのベルトを掴み、リョウと一緒に倒れ
こんだ。
後の男達が目の前まで迫った。
僕は男の上にかぶさるようにして男の手を思い切り噛んだ。
男はひぃーと声を上げ、リョウのベルトを離した、その隙にリョウは素早く
起き上がり、駅に向かって走りだした。
二、三発のパンチが顔面に当たり、アスファルトに叩きつけられたところで
気を失った。
気が付いたのは、煙草臭い覆面パトカーの中だった。
どうやらリョウが逃げられたらしいことは、刑事たちの機嫌で分かった。
浦和署の取り調べ室で散々怒鳴られ、リョウの居場所を話せと言われたが、
初めからそんなことは知っているわけが無い。
電話の内容についてはありのままを話したが、リョウが武藤の上履きを屋上
に置いたことはだまっていた。
おふくろが呼び出され、僕の前で学校には内緒にしてくれと刑事に泣き付き
ついた、刑事はそれを無視しときたま書類を書く手を休め、僕に意地の悪い視
線を向けた。
刑事がわざと僕の前で修羅場を演出していることぐらい分かった、それでも
十分にそれはこたえた。
僕は退学になることを覚悟していた。
三時になって、本来なら公務執行妨害罪が成立するのだと脅されたあと、未
成年ということで家に帰された。
今回のことで警察はますますリョウに対しての疑いを強めただろう。
それを晴らすためには武藤を殺した真犯人の名を警察に教えるのが一番だと
いうことはよく分かっていた。
自分の部屋で白み始めた空を見ながら、何度も深いため息をついた。
そうしてふんぎりがつかないまま、せめて自首してくれないだろうかと虫の
いいことを考えていた。
だれが犯人なのか、僕には分かっていた。