#2352/5495　長編
★タイトル (AZC     )  93/ 9/26  11:14  (115)
濃霧　　　ゴーシュ
★内容
�ｳ�ｳ      濃霧

　私の迷い込んだ世界を何と名付けたらいいのだろうか。暗い闇
がどこまでも続いているようである。ここには知った人は一人もい
ない。誰もが私に無関心に歩いている。それでも私は止まることを
知らないで歩いていた。私はいつでもこうして歩き続けているので
ある。濃い霧が出ているようである。けれども、寒さは少しも感じ
ないし、どこか外の所へ行く気はしないのである。大きな山が近く
にあるらしいのだが、それを感じることはできても、見ることはで
きないのである。道がその山の回りに沿っているのか、また離れて
行くのか、私には見当がつかなかった。足元には小さな動物がちょ
こまかと動き回っている。それは名前を知らない動物だった。灰色
の艶のある毛が生えていた。いつのまにか数匹に増えていた。私は
それにひかれるものを感じたが、その感じを説明することができな
いでいた。しかし、そういうものは今まで何度も感じていたような
気がする。ただいつもそれ以上考えようとしなかっただけなのだ。
それをいま感じてしまうのは、疲れているせいかもしれない。だい
だい私はいつもどこかに大きな仕事を置き忘れているのである。そ
のことからいつも私ははずされているような気がする。その動物は
近くの木に登って行った。その木はとてつもなく大きくて、根はし
っかりと大地をつかんでいる。私もその木に登りたい気持ちであっ
た。木に登って、遠くを見渡して、この紛れ込んだ世界に見通しを
つけたかった。私はその木にしがみついた。すると、あの小動物が
這い寄ってきて、なにかと邪魔をするのであった。それに霧が深い
ので木の枝の位置さえはっきりとは見えないのである。ぼんやりと
見える枝を掴もうとして力を入れると、そこには空気しか掴めなく
て平衡を崩すというぐあいである。小動物は私の脚や腕の上を親し
そうに這い回っている。どこかにその住処があるはずなのだが、な
ぜか私が気に入ったようである。
それでも私は少しづつ上に登っていった。よじ登りながら大きな
幹からは木の温もりのようなものを感じていた。頬を伝っていく空
気が水滴を含んでいて心なしか冷たく感じる。霧は確かに流れてい
る。どこか高い山の上らしく気流が回っているのがわかる。しかし、
霧の晴れ間はなかなかやって来ない。
「断崖に気をつけるように。」
　麓の山小屋の純朴そうな主人が言った。この霧の中のどこかに
切り立った崖があるにちがいない。大きな木にだいぶ登ったが、霧
は少しも晴れてはいない。しばらくそうしていてもやはり同じこと
である。歩くしかないのかと、諦めて木を降り始めたら少しだけ霧
が晴れてきた。なんだか嘗められているような気がしてきた。とい
っても、その木の頂上が見えるわけでもなく、山の頂がどちらにあ
るのかを教えてくれるわけでもない。ただ、気流の方向から地形を
想像するしかないようである。私は更に上の方に向かって歩き始め
た。しかし、上の方と言ってもはっきりわかっているわけではない。
ただそれらしいほうに向かっていくだけである。下手をすれば崖か
ら墜落してしまうかも知れない。先刻から自分以外に歩いている人
の姿は見かけていないし、道らしいものはいつの間にかなくなって
いる。辛うじて足元が見えるだけである。ふいに霧の流れが変わっ
たりすると断崖の縁に立っているのではないかという不安に襲われ
てひやっとする。
　頼りになるのはあの灰色の小動物だけだ。彼らがいる限りそこ
に地面があるということである。相変わらず彼らはちょこまかと私
の周りを動き回っている。こうなれば私の困難な登行に唯一の楽し
みを与えてくれるのが、このリスに似た小動物ということになる。
しかもその小動物は三匹や四匹どころではない。注意深く観察して
いると、同じのがずっと私に付いてきているのではなく、別々の個
体が入れ代わり立ち代わりまとわり付いてきているのであった。
　そんな危険な場所なら引き返せばいいものを、引き返すにもも
うどちらがもといた方向なのかわからなくなっていた。歩けばそれ
がそのまま進むことになっていた。だから、このまま進んで霧の晴
れるのを待つしか仕方がなかったのである。足元の岩がだんだん大
きくなっていくような気がした。植物の数ももう先刻に比べすっか
り減少してきているようであった。樹木の高さもぐんと低くなった。
それは、樹木が気圧の加減で高く伸びることを抑えつけられている
かのようであった。地面の石も角張ってきて、土らしいものも少な
くなってきた。と思った瞬間、地面から足が外れ、絶壁へ身を乗り
出していた。もう転落は覚悟していた。しかし、疲れた躰は最後の
力を振り絞って自らを支えていた。
　改めて危険と隣り合わせになっていることを自覚しなければな
らなかった。そういえばその時は例の小動物の姿が少なくなってい
た。そして、また注意深く絶壁と反対側に方向を変えて歩き始めた。
そんな危険な目にあったことがそれ以後も幾度となくあった。その
度に小動物に助けられた。
「この山は、ちょうど葉巻が斜めに突き出したような形をしてい
ます。」
　山小屋の主人が無造作に言っていたことをまた思い出した。つ
まり、九十度以上の斜面が私の歩いている地面の下にあるはずなの
である。ということは、足を踏み外せばどこに引っかかるまでもな
く、真っ逆さまに深い谷底へ落ちてしまうということを意味してい
た。私はすがるような気持ちであの小動物の気配に神経を集中した。
動物は見えなくても本能で自分の道を知っているはずである。しか
し、これ以上空気が薄くなって果たしてこの生物は付いてこれるの
だろうか。それも心配であったが、当面は大丈夫らしかった。その
証拠に、ピイピイという小さな鳴き声の様子から、数は少しも減っ
ているようには思われなかったからである。
　しかし、その鳴き声を辿っていったとき、私は世にも恐ろしい
光景に出くわさなければならなかった。最初は小動物がただぴょん
ぴょん跳ねているだけと思っていた。だが、よく耳を澄ますと不思
議なことにそれが着地している音がしない。更に目を凝らすと小動
物は実は着地していなかった。彼らは何の躊躇もなく絶壁の縁から
虚空へ向かって落ちていたのである。それが一個所からではなくい
ろんな所からそのままばらばらと落下していた。あたかも水が谷底
へ滑り落ちていくように。
　私は愕然とした。この小動物の本能とは、集団で自殺すること
だったのである。そんな不思議な動物がいることを何かの文書で読
んだことがあった。私にまとわり付いていたのがそれだったのであ
る。それなら、私が小動物の本能に導かれて無事に進んできた道と
はいったい何だったのであろうか。恐ろしくなった私はもう一歩も
前に進むことができなくなった。
　そのまま数十分が経過した。退くことのできない私はそろりそ
ろりと歩き始めた。一歩踏み違えればそこは絶壁かもしれない。こ
うなれば四肢を全て使ってじわりじわりと登っていった。「お前は
登っているのではない、下に向かって這っているだけだ。」と言う
者がいたとしても、私は反論するつもりはなかった。反論できる者
などどこにもいはしない。逆に、「君はすばらしい、引力に逆らっ
てしがみついている。」などとと言われても返す言葉はなかったで
あろう。
　それから何時間が経過しただろう。私の右手が何度も虚空を掴
み、右足が四角い石を踏み外して、とうとう墜落の時がきたと観念
した。その時である、それまで辺りを覆っていた濃い霧が見る見る
うちに晴れてきて、巨大な青空が出現したのは。そして、その青空
に突き出たこれまた巨大な葉巻の先に引っかかっている自分自身を
見いだしたのは、その数瞬あとであった。どうやってそこまでたど
り着くことができたのか、その時の私にはさっぱりわからなかった。