AWC 安らぐ[17]/有松乃栄


        
#2323/5495 長編
★タイトル (WMH     )  93/ 8/26   4:15  ( 88)
安らぐ[17]/有松乃栄
★内容


  17

 そこは、雪が積もっていたのではなく、横たわった白い犬の死体が無数に積み
重ねられていたのだった。
 私は、ひいと声を出し、目に涙を浮かべた。
 膝をついた。後ろに倒れると思った。その私を、誰かが支えた。
 「怖がったら駄目でしょう。ナラを早く見つけないと」
 妹の声がした。私は安心して、後ろを向かずに話した。
 「ナラ? ナラが、この中にいるん?」
 ナラは、私が中学生の頃に飼っていた雑種の白いオス犬で、ある日、父が知り
合いからもらってきた。けれど、四年経ったある日、行方がわからなくなってし
まった。
 「ええ……ナラは……だから……の……に……るって」
 私は、またまた目の前が回り始めてていて、妹の声はどんどん遠くなっていっ
た。
 景色が落ち着いた時、そこは、元の雪景色の丘に戻っていた。
 「夢を見たのだ」
 私は、普段決して使わないような言葉使いで、つぶやいていた。
 どこからか、木を打つような音が響く。
 カーン、カーン……。
 私は立ち上がり、駆け出した。
 音のする方向を探そうとしたが、ぐるぐるとあちこちを回ったものの、なんの
目印もなく、わかりそうにもなかった。
 私は、諦めた。
 雪の上に座り込み、ふうと息をついた。冷たさは、ほとんど感じなかった。む
しろ、暖かいような感じだ。
 うつむいていた私の手を、誰かの小さな手が引っ張った。
 「早く立つのですよ」
 それは、一目でわかった。
 わかった瞬間から、私は涙を止めようがなかった。
 「あなたは、きみちゃんやね」
 「はい」
 その、小さな女の子の赤い頬が、大きな目が、純粋な笑顔が、私の目を離そう
としない。
 自分で、覚えている訳じゃない。
 ただ、何度も写真で見た、三、四歳の私の姿であることに、間違いはなかった。
 「早く立つのです」
 なおも強く、紀美子が、私の手を引っ張った。
 私が立ち上がると、紀美子は私の手を握ったまま、駆け出した。私は紀美子に
連れられて、走り始めた。
 「どこに行くの?」
 「わたしは、悪い男に追われているのです。逃げないと、つかまるのです」
 紀美子の言葉が、私の胸をうった。胸がつまって、言葉が出なくなった。
 確かに、私の小さい頃の台詞だ。今まで、長い間忘れていた言葉だ。おそらく
は何の意味もない、テレビか何かで覚えた台詞を、私が繰り返していたに違いな
い。
 だけど、私は思い出した。
 あの時、私は、そうなることを願っていたのだ。何か、状況を得ようとした。
子供とは、そういうものなのかもしれない。
 紀美子が、立ち止まった。
 紀美子の前方に、黒い縁の眼鏡の、四角い顔の大柄な男が立っていた。
 子供の頃に何かで写真を見た、殺人事件か何かの犯人だ。私は察した。
 男は、ゆっくりと私達の方に歩み寄り、そして、いきなり走ってきた。
 身の危険を感じた紀美子は、私にべったりと背をつけ、おびえた顔をしていた。
 私は、動こうとした。足は、根づいたようにびくとも動いてくれない。
 無表情な男が、紀美子に飛びかかろうとした。右手に、血のついた包丁を持っ
ている。
 私は、慌てて紀美子の手を引っ張り、横に倒した。と、同時に私の体も自由に
なり、襲いかかる男を避けることが出来た。
 さっと立ち上がった私は、紀美子を連れて逃げた。
 それから。
 しばらくの間、何だかよくわからない状態が続いた。
 幼い紀美子の方が、私より走るのが速かったような。私は、後ろを向いたまま
走り続けたような。
 とにかく、ふぶいていた。目の前が、見にくくなった。
 私達は、いつの間にか、赤い廊下を走っていた。床の色は、やがて青になり、
白になり、黄色になり、茶色になり、そしてまた赤、青に戻った。
 走り続けた。男はなおも、私達を追ってくる。
 突き当たりにドアか見えた。
 私達は、ドアを開け、部屋の中に飛び込んだ。そして、急いでドアを閉めた。
 そうして、しばらくドアに張り付いて、様子をうかがっていたが、男の足音は
聞こえてこなかった。
 助かったのだ。私は、紀美子を抱きしめた。そして、泣いた。
 「きみちゃん、きみちゃん。助かってんで」
 私は、紀美子にそう繰り返した。
 バタンと、大きな音がした。
 私は、紀美子を強く抱きしめ、音のした方を見た。
 部屋の向こう側にドアがあり、それが全開されていた。しまった、と、私は思っ
た。
 もう一つ、ドアがあったのだ。
 ドアの向こうは、真っ暗で何も見えない。けれど、誰かがいて、その誰かがド
アを開けたことは間違いなかった。
 私は、幼い紀美子を、命を賭けてでも守ろうと思った。

                                (つづく)





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