#2322/5495 長編
★タイトル (WMH ) 93/ 8/26 4:13 (105)
安らぐ[16]/有松乃栄
★内容
16
「おめでとう」
すぐ後ろで男の声がしたので、私は振り向いた。さっきの、丸眼鏡の白衣の男
が、屋上の戸の前に立っていた。
「何が、おめでとうなんですか?」
私が聞くと、男は私の方に近づいてきた。何か怖くなった私が後ろに下がると、
男は、情けないような頼りないような顔で、
「あなたが、この屋上にたどり着いたことがです。……もっとも、あなたが、
この屋上に来る為に生まれてきたという訳ではありませんが」
と、言った。
「当たり前でしょう」
私は、何故だか腹立たしくなり、強い口調で言った。
「そんな人間もいますよ。僕の友人だった男は、あるマンションの屋上に、二
年前にたどり着く為に生まれてきたんです」
「……その人、たどり着いてどうしたんですか?」
彼は私の顔をじっと見て、それから屋上の端まで行き、振り返った。
「こうしたんです」
そう言って彼は、柵を乗り越えようとしていた。私は慌てて駆け出して、彼を
止めようとしたが、私が柵の前に着いた時、彼の姿は既にこの屋上から消えてい
た。
飛び降りたんだ。
死んだんだ。
私の周りが、屋上の地面や、暗い空が、ぐるぐると回転を始めた。
そして、物の形がわからなくなり、私は気を失った。
冷たいものを感じた。
冷たく、柔らかいものが私の頬をさわる。
私は、目を開けた。
私は、立っていた。
どこかの、丘だ。大降りの雪が、茶色い丘を白く変えていく。そんな中で、自
分の心臓の音が大きくなっていくことに気づいた。
ああ、これは。
小さい頃、心臓の音と、自分が呼吸する音が怖いと思ったことが何度もあった。
熱を出して寝ていた時など、ふと夜中に目を覚まし、半開きのふすまを隔てた向
こうの部屋で、こたつに入った父と母が、話している姿を私は見ている。
私は眠っているから、声を出すことも、体を動かすことも出来ない。たぶん、
しようとも思っていない。
だけど、怖かった。恐ろしかった。呼吸が止まるような気がして、わざと大き
く、深呼吸を続けた。
まるで、そんな状況のようだ。
「及川さん」
誰もいないと思っていた私の後ろから、誰かが声をかけたので、驚いて、慌て
て後ろを振り向いた。
帽子に沢山雪を積もらせた、初老の男が立っていた。彼は帽子を手に取り、軽
く頭を下げた。
「今日こそは、確認してもらいませんとな」
穏やかに、彼が言った。
「確認……ですか?」
「及川紀美子さん。昭和三十八年九月十日、大阪生まれ。現在、二十七歳。芦
神宮市、在住」
「ええ」
「ここまでは、いつもの通り」
ポケットから、レポート用紙の紙束を取り出した彼は、それを広げ、読み始め
た。
「えーと……、小学校、中学校、高校、短大ときて、就職……。退職して、そ
れからウガマ商店で働き始めたのが、昭和六十一年」
「ええ」
「ここまででしたな。さて、これからが問題だね。昭和六十三年十二月二十五
日、ウガマ商店に事件が起こった日ですが」
「事件?」
まったく思い当たることがなかったので、そう聞き返した私の目を、彼は、し
ばらくのぞき込んでいたが、何か察したのか、すぐにそらした。
「同年同月十二月三十一日。母、急死。あなたにとっては、ショッキングな出
来事の連続でしたね。大晦日も、正月もなくなった上に、仕事までなくした訳で
すから」
私は、一言も言葉を発しないでいた。訳がわからなくなっていたのだ。そんな
馬鹿なことがある筈がない。
この場を離れたい。ただ、そう念じた。
「ここまでに、しましょう。十分、確認していただいたと思いますがね。あ、
そうそう」
持っていた紙束を、ポケットにしまいなおしていた彼が、思い出したように指
を立てた。
「矢野君……矢野貴文君を、知っていますか?」
「いえ。知りません」
「……それは次回にしましょう。慌てるのも、なんだね」
「次回?」
私は、次の瞬間、もう彼に詰め寄っていた。
「どういうことです? その、矢野っていう人は、私と何か関係のある人です
か? さっきからもう、何がなんだか訳がわかりません」
「頭が痛くはないですか?」
「なんともないです」
「私の言葉を拒もうという意識を、自覚してはいませんか?」
「いません」
「矢野君は、今もあなたのことを心配して、外で待っている、あなたの恋人で
す」
……私は、駆け出していた。
彼は、遠ざかる私に向かって何か、大きな声で叫んでいた。その言葉は、何一
つ聞き取れなかった。
外って、なんだろう。
走りながら、彼の言った「外で待っている」という言葉を繰り返した。
ここは、どこの丘なんだろう。ここの外って、どこにあるんだろう。
もし、ここが内側であるのなら、私は外に出たい。そして、走り続ければ外に
通じると思った。
小降りにはなってきたようだけれど、地面は雪が積もり、もう、見渡せる限り
真っ白になっていた。
一歩、一歩、シャクシャクと音がした。
やがて、地面の段差が盛り上がっているのが見えてきた。何か、盛り土に雪が
積もっているのだと思った。
そこに近づいて、私は絶句した。
(つづく)