AWC 安らぐ[15]/有松乃栄


        
#2321/5495 長編
★タイトル (WMH     )  93/ 8/26   4:11  ( 86)
安らぐ[15]/有松乃栄
★内容


  15

 「……私は………………。
 ……私?
 そう。私が覚えているのは、セピア色のフィルターを通して、ぶくぶくに太っ
た女の人が、社長に包丁を振り回して、切りかかっていくというシーンでした。
 彼女は、何か絶叫していました。はっきりとは聞き取れませんでしたが、お金
を返せとか、そんなことを喚いていました」
 「なるほど。それは、本当にウガマ商店の御主人の姿だったんですか?」
 「ええ。間違いありません。相手の顔は、はっきりとはわかりませんでしたが、
寝間着姿の社長がおびえている姿が、私の目にはっきりと映りましたから」
 確かに私は、ぐるぐると目が回ったような感覚の後、独り言をつぶやいていた。
 けれど、次の瞬間、その空間は壁の白い個室になり、私と差し向かいに、白衣
姿の医者のような男が座っていて、会話は既に始まっていた。
 「あなたは彼が、寝間着姿だったとおっしゃいましたが、それは夜の出来事だっ
たんですか?」
 「……そうだと思います。いえ。そうです」
 「思い出しかけてきたんですね」
 「私は、お酒を飲んでいました。たこ焼き屋の屋台で、ええ、そう、クリスマ
スイブの晩、今年最後の屋台だって、たこ焼き屋のおじさんがサービスって、私
はお酒をこぼしてしまって……」
 私は、彼に向かって言葉を発し続けた。ふと、彼の顔を見ると、歯ぎしりをし
ているような、明らかな落胆の表情を浮かべていた。
 彼は、しばらく頭を掻きむしった後立ち上がり、
 「……今日は、これまでにしましょう」
 と、一人、部屋を出て行った。
 私は、椅子が二つと、机が一つしかない殺風景な部屋に、取り残されてしまっ
た。
 それから私は、背中からのぼせ上がったようになり、ほてった頬をおさえなが
ら、うろうろと部屋を歩き回った。
 どうなるんだろう。この部屋から、出てもいいのだろうか。
 意を決して、ドアノブに手をかけた。
 ノブは簡単に回り、ドアが開いた。
 私は顔だけを出し、外を覗いた。薄暗い中、木造の長い廊下が見えた。廊下に
は大きな窓が並んでいて、そこからかすかな光が差し込んでいる。
 どうやら、外は夕暮れ時のようだ。
 突然、廊下の突き当たりの天井から、こちらに向かってライトが走り、辺りす
べてに電気がつけられた。
 私は、おそるおそる廊下を歩いた。
 ここは、学校だ。私が昔通っていた、小学校だ。それも卒業後に改装される以
前の、元の姿だ。
 懐かしい、油のにおい。歩くと、みしみしと音のする廊下。誰もいないのだろ
うか。
 私は、歩きながら窓の外を見た。どうやらここは、二階のようだ。下に、広い
校庭が見える。花壇も、遊具も、何もかも当時のままだった。
 とある教室の前を通りがかった時、中から、
 「……キミコ……キミコ……」
 と、誰かの小さな声が聞こえたような気がした。ドアの上には、理科資料室と
書いてある。
 そうだ。ここは、人体モデルの人形や、動物の標本が置いてある不気味な教室
だ。
 小学校の頃に、流行った噂。
 夜の学校に一人できて、この教室に入ると、猫の脳のホルマリン漬けの標本が
光っていて、どこからともなく猫の鳴き声が聞こえてくるという。
 それを聞いた者は、どうなるんだったか。死ぬのか、それだけの出来事なのか。
 なおも、教室の中からは、蚊の鳴くように小さな女の子の声が聞こえてくる。
 「……キミコ……キミコ……」
 私は、中に足音を感づかれないように、つま先でその場から逃げ出した。
 後ろの方で、どこかドアが開いたような、ガラッという音が聞こえた。私は、
全速力で走った。
 なんて、長い廊下なんだろう。
 そう思いながら、百メートルほど走っていると、前に上と下に通じる階段が見
えてきた。
 私は、上へのぼった。
 三階から、さらに四階にのぼった。
 四階は、確か屋上へ通じる筈だと記憶していたけれど、そこは、緑色の畳の広
い部屋だった。
 私は、靴を脱いで、畳の上にあがった。ひんやりとしていて、なんとも気持ち
のいい感触だ。
 長い畳の廊下の左側に、大きな日本家屋か、旅館のような、引き戸の部屋が続
いている。
 私は、その一つの部屋の戸を開けた。
 そこは、着物を着た女の人が座っている、八畳ぐらいの部屋だった。
 私は戸の前で、立ったままでいた。彼女は、目をつぶっていて、私のことに気
づかないのか、微動だにしない。
 再び廊下に出た私は、そのまま奥へ、奥へと歩き続けた。
 ある部屋は、宴会でもやっているような笑い声が聞こえてくる。
 ある部屋は、電気が消えていて、風の吹く音が聞こえる。
 廊下の突き当たりまで行った私は、引き返して、風の音のする部屋の戸を開け
た。
 屋上だった。

                               (つづく)





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