AWC 安らぐ[14]/有松乃栄


        
#2320/5495 長編
★タイトル (WMH     )  93/ 8/26   4:10  ( 71)
安らぐ[14]/有松乃栄
★内容


  14

 「二つください」
 「二つね」
 紀美子は、ぼんやりと屋台を眺めていた。
 黒ずんだ木の枠組みは、今日燃えたばかりの、ウガマ商店の壁を思い出させた。
 たこ焼き屋の主人は、四十半ばぐらいの、少し白髪の混じった、太い眉のいか
つそうな男だ。
 「そこの椅子に座って待ってなよ」
 主人は、屋台の前に置かれたパイプの長椅子を指さした。紀美子が座ると、ちょ
うど屋台の下の、紀美子のへその高さのところが台のようになっていて、ここで
食べられるようになっていた。
 「お姉さんが、今年最後の客だね」
 鉄板の下の、コンロの火をのぞき込みながら、主人が言う。
 「もう、今年は閉めはるんですか?」
 「いや、ガキにね。クリスマスぐらい、何かやんねえと……消えてやがる」
 ガチャガチャと、コンロのスイッチを回すが、なかなか火はつこうとしない。
 「お子さん、お小さいんですか?」
 「うちにゃ、いないんだけどね。別れた奥さんが、持ってっちゃって」
 なおも、鉄板に目の高さを合わせながら主人が言う。ボッという音とともに、
主人はゆっくりと顔を上げ、
 「やっとついた。時間かかるけど、いいかい?」
 と、言った。紀美子は、
 「ええ」
 と、笑った。
 「鉄板が熱くなるまで、ちょっとかかる。お姉さん、酒は飲むの?」
 「まあ……、普通です」
 なぜ、こんな会話をしているのだろう。
 紀美子がそう思っていると、主人は紀美子の目の前の台にコップを置き、奥か
ら日本酒の瓶を取り出した。
 そして、紀美子が断ろうとする前に、コップに酒をついだ。
 「サービス」
 主人が、にやっと笑った。自分もコップに酒をつぎ、紀美子の前に突き出した。
 「乾杯じゃないな。メリークリスマスってとこだな」
 紀美子も慌ててコップを持ち、少しきょとんとした顔のまま、
 「メリークリスマス」
 と、言った。
 主人は一口含んで、鉄板に生地を流し込んだ。さあっと、湯気が立った。
 「あの、ここ、なんでラッキーダコ軒っていう名前なんですか?」
 紀美子が、コップを口にあてながら言う。
 「ヨーロッパでは、蛸のことを“悪魔の魚”って呼んでてね。俺は日本人だか
ら、蛸ほどうまいもんはないんだってね。うちのたこ焼きは、“運を呼ぶ蛸”を
使って焼いてるぞってね」
 「へえ」
 「昔、静岡で屋台出してたことがあって、よく来てた若い男の子と、女の子が
そこで知り合って、結婚して」
 「へえ。まさに、ラッキーダコですね」
 主人が、静かに頷く。
 「それから、ラッキーダコ軒っていう名前にしたんだよ」
 鉄板をぼんやりと眺めていた紀美子は、腰の横に置いてあったショルダーバッ
グを開けようとして、ひじをコップにあててしまい、コップの中の酒は台に広が
り、スカートの上に垂れ始めた。
 主人が素早く布巾を渡すと、紀美子は、
 「すみません」
 と、頭を下げながら、スカートをふいた。
 その時の、誰も見ていなかった一つの出来事……。
 立ち上がった紀美子は、左手に脱いだコートを抱えていた。
 紀美子が前かがみになると、ポケットの中に入っていた黄色い包みが、鉄板の
前にぽとりと落ち、広げられた。
 ちょうど風が吹いた。包みの中の黄色い粉は、鉄板の上に流れ、たこ焼きの生
地の中にとけ込んでいった。
 包みは、舞いながら風に乗った。
 紀美子も、たこ焼き屋の主人も見ていなかった、単なる偶然。
 ただ、それだけのことであった。
 「もう、ここで食べて行ってもいいですか?」
 紀美子の言葉に、主人がうんうんと二度頷いた。

                                (つづく)





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