AWC 安らぐ[13]/有松乃栄


        
#2319/5495 長編
★タイトル (WMH     )  93/ 8/26   4: 8  ( 84)
安らぐ[13]/有松乃栄
★内容


  13

 二本目は、アメリカのクリスマスコメディ映画で、あまりにも家族の大切さを
切々と訴えるので、紀美子は気分が沈んだ。
 続いて、日本の若手監督の作品が上映された。
 モノクロの一種のロードムービーで、主人公の青年は、大企業の社長である、
恋人の父親から、結婚の条件として、とある浮浪者を探し出して連れてくるよう
に言われるが、やっと見つけだした男が逃げ出してしまう。
 再び、浮浪者の後を追って、青年は彼女とともに日本中を歩き回るはめになる。
 日本各地の海水浴場や、スキー場が映し出されるシーンが続いたり、マイペー
スに旅行気分で遊ぶ日々のカップルをよそに、裏では政治家や暴力団、さらには
警察までもが浮浪者の持つ、ある情報を狙おうとする。
 金満ニッポンを徹底的におちょくったストーリーで、これはそれなりに楽しめ
た。
 去年の話題作である、フランスの巨匠の映画が始まる前に、紀美子は映画館を
後にした。
 夜空を雲がすっかりと覆っていて、その真下で、白い息を吐いて歩いている自
分が、なんとも奇妙なもののように思えた。
 ……なんという、最低な日々だ。
 なんという、最低な一年だったんだ。
 今、なんという、最低なクリスマスイブを自分は演じているのだろう。
 ああ、今、なんという、最低な演技で、ひねくれ女を表現しようとしているの
だろうか。
 及川紀美子は、小さい頃、サンタクロースを信じたことが一度もなかった。
 省みれば、夢を持たない子供だった。
 朝食べて、昼食べて、夜食べた。そんなことが最近、他人事のように思える。
 違う。
 ずっと小さい頃から、起きている時間というものは、及川紀美子本人には、実
はなんの興味もない出来事で……。
 そうじゃない。
 あまりにも自分の行動、自分の意識に、現実味がない。及川紀美子は、実は生
き物という姿を借りた、一つの景色なのだろうか。
 紀美子は、十一時過ぎの駅のホームに響く、酔っぱらった暴力団員風の中年男
の台詞が、自分自身の心の中で繰り返している筈の言葉よりも、遥かに鮮明に体
に入り込んでくることが、恐ろしく思えた。
 「なんやお前、わしになんか文句あるんか。極道なめとったら、承知せんぞ。
なんじゃい、おのれ。えらそうな態度とりやがって。事務所こんかい。その目は
なんや言うとるんじゃ」
 そして、電車がホームに入ってくる。
 電車が止まる。
 ドアが開く。
 座席シートに座る。
 ドアが閉まる。
 静かに、電車は動き始める。
 向かい側の窓の外の夜景を、ぼんやりと眺めながら、紀美子は心の底から寂し
く思った。
 いつから、消えていたんだろう。
 知らない間に、及川紀美子という人間は、町を形成する景色か、空気のような
ものになってしまっていたのだ。
 昔は確実に生きていて、それを思い浮かべている老木のような、そんな“歩く
植物人間”になってしまった。
 意識して物を考え、意識して行動していた頃の及川紀美子は、常に人の目を気
にし、客観的に出した結論の上で動いていた。
 それが、いけなかったのだ。
 紀美子は、いつの間にか電車を降り、線路沿いの薄暗い道を歩いていた。
 この道を通れば、家に帰ることが出来る。誰もいない部屋で、いつものように
観葉植物の如く部屋そのものに同化し、眠るだけの毎日だ。
 カメレオンマン、ゼリグだ。
 紀美子は、声を出し始めた。
 「だけど、それのどこがいけない。いけなくない。落ち着く場所を求めて、何
が悪い」
 もしこれが、あの若手映画監督の作中世界なら、大声をあげて走り出すことに
なるだろう、と、紀美子は思った。
 だが、紀美子はゆっくり、ゆっくりと踏みしめるように、歩いた。
 やがて、道の先に、屋台の赤いちょうちんが見えてきた。いつもの、ラッキー
ダコ軒の屋台だ。
 やけ食いだ。クリスマスタコヤーキだ。二舟買って帰ろう。
 そんなことを考えながら、紀美子は屋台の前まで近づいていった。

 紀美子は。
 一瞬、ちょうちんの赤さが、視界を埋めつくしたような気がした。
 我に帰り、ちょうちんに書かれてある文字を見て、目をこすった。
 〈あじ軒〉
 あざやかな黒い文字が、紀美子の目の中に映っていた。
 紀美子はしばらくその文字を眺め、立ち尽くしていたが、屋台の主人の、
 「らっしゃい」
 という、野太い声で、再び我に帰った。
 既にちょうちんに、〈あじ軒〉の文字はなく、〈ラッキーダコ軒〉と書かれた
ダンボールの切れ端が、ちょうちんの下に吊るされてあるだけだった。

                                (つづく)





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