AWC 安らぐ[1]/有松乃栄


        
#2307/5495 長編
★タイトル (WMH     )  93/ 8/26   3:51  ( 71)
安らぐ[1]/有松乃栄
★内容


   1

 及川紀美子は、自分で自分のことを“世界一恥ずかしい人間”だと思うと同時
に、最も尊い人物でもあったので、それなりのバランスは保たれていた。
 彼女の職場である、ウガマ商店は、この町で一番、いかがわしい店である。
 「どどどーん。どどん。どどどどどどん」
 太鼓の音が、響く。その妙に甲高い太鼓を聞いて、紀美子は、なんて太鼓にほ
ど遠い口太鼓だろうかと思いつつも、その気持ちをぐっとこらえ、
 「ゆうちゃん、元気な太鼓の音やね」
 と、にぎやかに繰り返すゆうに聞かせた。
 ゆうは、
 「ふん」
 と、鼻を突き出して、そのまま奥へ消えて行った。
 昼下がりのウガマ商店。紀美子の主な仕事は、事務室の電話番と経理、その他
である。
 遊代は、ウガマ商店の社長の孫娘で、ほとんど毎日のようにウガマ商店に入り
浸り、事務室や店内をうろうろしたり、店の外で通り過ぎる人の足を、じいっと
眺めていたりする。
 小学四年生の彼女は登校拒否児童で、学校に通い始めたと思うと、またパタッ
と行かなくなり、社長の悩みの種である。この数ヶ月は、月に一度ぐらいしか登
校していない。
 遊代に父はなく、母は会社勤めで夜にしか家に帰ってこない。三人暮らしなの
で、祖父がウガマ商店に出かけると、遊代は一人、家に残されることになる。
 だから仕方がないことだとは言え、こう毎日、毎日、仕事の邪魔をされると、
紀美子の癇も高ぶる。
 遊代は、紀美子になついている。
 遊代は、一週間前、学校に行った日、プライドを傷つけられた。
 学校行事のクラスの演劇で、彼女のいない間に決められていた役柄は、劇の始
まりと終わりを告げる“太鼓の音”だった。
 以来、彼女はこんな調子で、また学校に行こうとしない。
 そんな遊代と接する時間が、紀美子にとっては重かった。どう対処していいも
のやら、もちろんそれは紀美子の考えることではないが、遊代の家庭の事情を知っ
ているだけに、まるで自分の妹のように思えてならなかった。
 紀美子の両親も、忙しい人で、小学校の参観日にも来たことがなかった。
 「きみちゃん。遊代、どこ行ったか知らんかな」
 事務室のドアを開け、小太りの社長が紀美子に声をかけた。
 「さあ……店じゃないなら、外の空き地かどっかだと思いますけど」
 「そうか。かなんな。いやな。あの娘の父親が来とるんやが……」
 遊代の両親は、一年前に離婚している。母親が彼女を引き取った後も、父親は
度々、遊代に会いに来ている。
 だが、あまり遊代は、父親になついているようには見えない。
 「お店に?」
 「ああ。店で待っとる」
 社長が、親指でドアの方を指さす。
 「あの、今、あまりお父さんに会わせない方が……」
 「……遊代の様子、悪いか?」
 紀美子が、黙って頷く。
 「そうか。うん。よしよし。わかった。うまく言うて、帰らす」
 間が悪い時とはあるもので、社長が店の中に戻りかけた時、ちょうど遊代が外
から帰ってきた。
 「ゆう!」
 父親は真っ先にかけ出し、遊代の高さにしゃがむ。
 「何か欲しい物はないか? お父さん、今日は何でも買ってやるぞ」
 「何でも?」
 そう聞き返した遊代の顔を事務室の中からのぞいて、紀美子はぞっとした。小
学四年生の娘が、実の父親を見る目ではないように思えた。
 「ああ、何でもな」
 「パソコン」
 「いくらするんだ?」
 「四十二万八千円」
 「……よん……」
 それから。
 遊代は、黙って外に走って行った。父親は、その後を追いかけたが、間に合わ
ないと思ったのか引き返し、社長に頭を下げ、とぼとぼと遊代と反対の方向に歩
いて行った。
 その日、遊代は、店には戻って来なかった。

                                (つづく)





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