#2300/5495 長編
★タイトル (ZBF ) 93/ 8/18 5:23 (136)
近世大坂出版統制史序説(2) 夢幻亭衒学
★内容
近世大坂出版統制史序説(2) 夢幻亭衒学:Q-SAKU/MODE OF PEDANTIC
二、出版統制マニュアル
まず新版書物が本屋仲間行事に、仲間の定期集会で提出されます。行事はそれ
を審査し法度に抵触する虞のある場合には惣年寄に届け、大坂町奉行所の寺社役
に伺いを立てます。もしそれが禁令に抵触すると判断されれば、絶版もしくは改
訂を命じられます。絶版には史料中、板そのものを焼いたり削ったり打ち壊した
りする場合と、特定の本屋や惣会所で預かる場合とが出てくる。その差は明らか
ではないが、前者の方が重かったのでしょう。
重類版の審査権は、独り本屋側にありました。行事は新版書物が重類版の虞が
ある場合に関係の本屋に回覧し、その判断を任せていました。たとえば、ある地
方の紀行物を出版する場合、それと同様の地方を紹介する書物を先に出版してい
る本屋に回覧しました。
利害訴訟は当事者の意見が最大限尊重されるってのは、近代以前の訴訟の特
徴?
重類版と判断された場合にも、絶版を命ぜられたのです。仲間レベル で問
題なし、とされたら行事の連印を付し役所に申請し許可を受けました。
江戸期に本屋を営んでいた三木佐助が明治に著わした懐古談「玉淵叢話」によ
ると、「年行事が羽織袴着用で開板願書へ原稿を添へ御番所へ出しますと、一、
二年程経ってから原稿の袋綴の処へ継印を押し、御免許と成りました」とあり、
役所に申請してから原本が本屋に戻されるまでに、年単位の時間がかかったこと
がわかります。これは、「お役所仕事」が当時も驚く程遅かったことを示すのみ
ではないでしょう。時事に関する出版を幕府が嫌っていたことに関係があるよう
に思えます。
人の噂も七十五日、ではありませんが、ある程度の期間、出版を遅らせること
によって一見して解らないように書いてある時事に関することの、時事ゆえの効
果を減少させるためのものではなかったか。一応全ての書物が許可制であったと
はいえ、仲間によって、フルイにかけられた後に審査するのですから、それほど
煩雑であったと思えません。むしろ、その煩雑さを避けるために、仲間に統制の
一端を担わせたのでしょうから。
以上、近世大坂の出版統制を大まかに、法令、制度の面から見てきました。近
世における出版統制は、「御条目」に示される法理念を一貫して持ちつつも、時
代の出版情況によって、ある程度は変化してきました。草紙や、いわゆる瓦版の
類については、ここでは触れませんでしたが(だって、この事については本、論
文が多く出てるから)、再三禁止令が出され、その度毎に厳しくなっていく傾向
があります。一般書物に対する統制が、見方によっては緩和とも思える変化を見
せたのと、対象的であろう。これは、一般書物に対する統制が、非常にうまくいっ
ていたことを示しています。
三、本屋仲間、再び……
イ、はじめに
大坂における出版統制は、
本屋仲間−惣年寄−町奉行所(寺社役)
というラインで行われていました。
ロ、本屋仲間内の統制−アウトライン−
まず「鑑定録」所収、享保9年1月13日付けの「定」を見てみましょう。そ
の第1条は、公儀の法度遵守が定められています。
第2条は、三都一体の取り締まりを謳っており、「付り」として、素人直願
を禁止。
第3条は、無許可出版の禁止。
第4条は、行事の秘密主義の禁止。
第5条は、仲間外書商をも支配する宣言。
第6条は、雇人(従業員)の違法行為禁止。
第7条は、暇を出された者と取り引きするには、元の主人へ届ける義務があ
る。
また、「差定帳」所収の元文五年一月十七日付けには、仲間定細則とでもいう
べき史料が載せられています。その第1条は、絵図の類の吟味料の規定。
第2条は、禁止書物を取り引きした場合、「見付次第もぎ取過料銀五枚」。
第3条は、「素人板行書物寺板宮板等、本屋行事相改上願書ニ加印形」。仲
間行事は、本屋以外の行う出版についても改める権利をもつ、ことが解ります。
第4条は、正月の寄合時、差定帳、裁配帳に、その年の年号を記すことを定
め、
第5条は、「仲間出入付、証文御取締被成候節、差定帳ニ手形印形印判御取
可被成候」と、差定帳の性格を明らかにしています。
第6条は、京都、江戸から送られてきた新版書物で添状の無いものは、以前
から売買が禁止されているが、それが最近は守られていないようなので、今後は
「其本拾部ツゝ仲間江取申、其上売買急度差留」と罰則を明確にしています。
定の第三条については、裁定帳所収、享保一九年十二月二日付の史料に、その
実際の適応例を見ることができます。
「狂歌置土産」という書物を田原屋平兵衛他二人との本屋が出版しようとして、
その旨を願い出ました。そして「御免之無之内彫かけもうされ候段、格外ニ存候
旨行事より申渡」し、「誤り証文」を差し出したのです。すなわち、定の第三条
は、無許可出版が、版木の完成ではなく彫り始めの時点で成立することが解りま
す。
諏訪春男氏の「出版事始め」によると当時、草稿が出来上がってから本が出来
る迄に七、八年の歳月を要することも珍しくはなかったらしく、印刷にはかなり
の手間が掛かったことが窺えます。だからこそ、御免のないうちから版木づくり
にとりかかったのでしょう。もし、そうなら、仲間の定の厳格な適用が、仲間の
権利を保護しつつも、その商業活動を阻害していたことになります。
同じく定の第五条にある、仲間外本やの支配は如何に行われていたのでしょう
か。天明六年十二月十五日の史料で、奉行所が仲間に次のような質問をしていま
す。
「本や仲間に入っていない本屋を行事は放っているのか」
行事は次のように答えました。
「本屋仲間に入らず商売をする者は、仲間内に「売親」を定め、その売親の名
前を以て 取り引きさせるように申し合わせている」と。
また「少々宛商売仕候者、或者近頃より本商売ニ取付未売親も不究候者も折節
者御座候」とし、そういう者も分り次第、行事から糺し、売親を決めさせていた
ことが併せ述べられています。売親とは、発行元に対する発売元ともいえます。
寛政元年八月七日付の史料によると本屋仲間は、素人や寺等に対しても検閲権
を有していたが彼らにも限界がありました。この史料からは、絵草紙や壱文売り
の商売はレッキとした書物商売ではないと理由で売親を定めない場合もありまし
た。そして、「都而絵草紙類者、行司共江不相届、売出し候ニ付、仲間外ニ而絵
尽壱文之板行等売出し候而茂差構不申」とあり、絵草紙や壱文売(瓦版等か?)
と、一般書物は違ったものと見なされ、扱いも異なっていたのです。
文政一三年十月二十三日付の史料には、浄瑠璃本の検閲機構が変わったことが
記されています。これによると「浄るり本の儀は、元来芝居より御申上在之候事
故、別段行司共より御願申上候ニハ不及儀、往年より承伝罷在候」とあり、その
芝居を打つ者から願いが出されていたことが解ります。
そして享和三年十一月三日の史料では芝居根本絵入りの書は、以前は役所に願
い上げることも恐れ多い(下らないモノだから)という論理で、行司独断で許可
していたが、この史料が書かれた時点では、「近来は御願申上開板致させ候」と
いう状況になっていました。そのうち、惣会所から「芝居根本絵入之類」は以後、
行司独断で許可することを、行司の方から申し出よ、との「内意」を伝えられま
した。これにより願書を差し出し、実際にそうなったようです。
その検閲基準は、「御公儀は不申及、諸侯方其外御役人衆中御名前、ならびに
世間風俗之為不宜義は相除キ、何方へも差支無之書ニ候ハハ、年行司勘弁ヲ以」
て判断する、というものでした。
ちなみに史料によれば仲間外本屋から仲間に加入することも可能で、仲間本屋
の件数はよく、変動しています。仲間に納入する金も、さほど過酷に徴収してい
たワケではなく、なかなか柔軟な組織だったようです。組織は篤組、慎組、明組、
博組、審組の五つに分かれており毎年、持ち回りで一つの組から年行司が出てい
た。そのうち審組は人数不足となり、文化五年には他の四組から二人宛出て、そ
の仕事に当たっています。
株仲間を解散させ自由競争による商業活性化を目指した天保の改革中には、本
屋仲間も停止されました。その間は本屋行司は差し止められ、素人直売買が勝手
次第として許されました。この点では他仲間と同様です。
しかし、本屋については公儀としては全くの勝手に任せるワケにもいきません
でした。「以来新規に右商売相初候者者、月番の奉行所へ可届出、其砌委細取締
之廉可申渡候、且新作之書物等致板行候節も前同様奉行所へ下書差出改受可申候」
と、版元から直に奉行所へ申し出ることになりました。この仲間の禁止されてい
る間に如何様なことが起こったか解りません。
嘉永四年に本屋仲間は再興許可を得たが、その時点では検閲権は仲間に与えら
れていません。翌五年八月、ようやく仲間行司から奉行所へ新版書物を改める権
利を与えるよう、文書が出されました。以後、明治初年まで続きます。
(つづく)