#2299/5495 長編
★タイトル (ZBF ) 93/ 8/18 5:17 (182)
近世大坂出版統制史序説(1) 夢幻亭衒学
★内容
近世大坂出版統制史序説(1) 夢幻亭衒学:Q-SAKU/MODE OF PEDANTIC
一、私はカモメ 若しくは 出版統制の鳥瞰図
ここでは法令のレベルに於ける考察を中心に、行政側が出版活動に対し、どの
ような対応をしようとしたかをみていきまふ。
イ、享保以前の統制(臭いニオイは元から断たなきゃダメ)
「徳川禁令考」中の史料によると、出版統制関係のものとしては、まず延宝元
(一六七三)年五月のものがあります。これには「此以前も板木屋共へ仰せつけ
らる如く」とあり以前にも、ある程度の統制があったことが窺えます。それは、
「本屋」ではなく、板木を作る板木屋を通して行なわれていました。また同じ史
料中には、「御公儀の儀は申すに及ばず諸人迷惑仕り候儀 其外何にても珍しき
事を新板に開き候はば両御番所へ其意申し上げ 御差図受け」とあり、具体的な
ものではないが、統制の対象がボンヤリ浮かんできます。
空想を逞しうすれば、本屋でなく板木屋ってのが面白くて、ボロボロあるく
せに仲間組織を作っていない本屋を統制するのは、権力にとっては砂をザル
で掬うようなもんで、現代でもボロボロある出版社を統制するより、大手印
刷所を抑えちゃえば、日本の出版の殆どを抑えられるんだから、ウマイとい
えば、ウマイ方法だったと思います。
ロ、いわゆる「御条目」(出版統制基本法といへよう)
出版統制の規定が具体化され、かつ整備されたのは享保七(一七二二)年十一
月に公布され、その後「御条目」と呼ばれたた法令です。これによると、統制さ
れる対象は「儒書仏書神書医書歌書」など「一通り」の(まともな)もの以外の
「猥り成義異説等を取交え作出し候」ものでした。勿論、今で言う小説は、この
「猥り」なるもの。そして、「好色本の類」や「人の家筋先祖の事件杯を彼是相
違の儀共」を書いたもの。後者については「其子孫より訴え出づるに於いては急
度吟味之有る筈」と補足的な規定もあります。今で言う「親告罪」規定。また、
「権現様の御儀は勿論 惣て御当家の御事」(家康はじめ将軍家に関する叙述)
も規制の対象となっていました。
当たり前といえば当たり前。名誉毀損とは別に不敬罪が規定されてるような
もの。なお同法令には以後出版される書物には作者、版元が実名で奥書せよ、
とも言ってます。これは責任の所在を明らかにするための措置と考えられま
す。以後の法令は御条目に必ずと言っていいほど言及しており、おおまかに
は、以後これを踏襲することになる。そんなこんなで、同法令が江戸期の出
版統制基本法と考えることができます。
ハ、徳川家に関する規制の変化
ここで規定のうち、徳川家に関する項目を取り上げる。享保七年の段階では、
このことに関する記述は全面的に禁止されていました。享保二〇(一七三五)年
五月の法令では「只今迄諸書物に権現様御名書き候儀相除き候へども 向後急度
いたしたる諸書物の内押し立て候儀は 御名書き入れ苦しからず候 御身上の儀
且つ御物語等の類は相除くべく候 御代々様御名諸書物に出で候儀も右の格に相
心得申すべく候」となり、天保一三(一八四二)年六月の法令では「都て明白に
押し出し世上に申し伝え人々存じ居り候儀は 仮令御身上御物語たりとも向後相
除き候には及ばず候」となっています。ちなみに、ここで「急度致したる諸書物」
とされているのは享保七年法令の「儒書仏書……」を指しているらしく、当時「
まともな本」と認められていなかった草紙本については、相変わらず全面禁止だっ
たのでしょう。
勿論この変化は、近代的な言論の自由へと社会が動き支配側が認めていった、
というものではなく、それ迄の異説を許さないという一種消極的な姿勢から「世
上に申し伝え人々存じ居り候儀」(都合のイイこと?)を固定化しようという一
種積極的姿勢への転換とも考えらます。情報操作ってヤツ。
天保一三年は水野忠邦の改革の最中で、人情本の出版が禁止され為永春水、柳
亭種彦らが処罰された年でもあります。こうした流れから考えると、この変化が
統制緩和であるとは思えない。なんたって法令に具体的な限定がない以上、「世
上に申し伝え人々存じ居り候儀」は、支配層の「常識」によってのみ判断される
ものなのだから。また、この変化が何によって起きたのかは、今後の課題にした
いと思います。
今後と言っても いつになることやら トホホ
二、迷惑ってったら迷惑なんだよっ!(讒謗律……)
幕府は寛政二(一七九〇)年二月には同基本法に、新たに時事を一枚絵などに
して出版すること、子供向け草紙や絵本で昔のことによそえて「不届き」な事を
作り出すのを禁じ、風説の類を仮名書本などにつくり見料を取って貸し出すのを
禁じる項目を付加しました。更に作者不明の書物を扱うことを禁じた法令を出し
ています。
これは大きな変化ではありません。先に述べた「諸人迷惑仕る儀」もしくは「
猥り成儀異説等を取交え」という規定に包含され得るものに過ぎない。ただ一枚
絵(後の読売、瓦版)は印刷が最低一枚の板木(整版)があれば出版が可能で、
出版資本ではない素人でも出すことができ(DTP?)、統制の目をくぐること
も容易でした。だからこそ敏感に反応し禁止を言い出したのでしょう。後述しま
すが草紙も、一般書物とは区別され、より単純な検閲機構でした。つまり法令の
面から見て活発で、ある程度自由な活動を行なっていたとも思えます。
これらの媒体に共通することはまず、そのレベルが庶民の様に、それ程漢字を
知らなかったと思われる階層でも読むことができたものであったこと。次に比較
的安価に入手可能だったこと。最後に検閲機構がそれ程厳しくはなかったこと、
です。
出版物が多く流布する条件である前二者と後者は今の常識では一見、齟齬する
ようにも思えます。多く目に触れるものの方が検閲の必要性が高い筈だからです。
ただ、その主な対象が“頭数”は多いが社会的発言力が弱く、軽んじられていた
であろう女子供が読者だったために検閲が比較的緩かったのでしょう。
二、出版統制機構
出版統制の末端に位置していたのは、本屋仲間自身でした。ちなみに「本屋」
は単なる本屋ではなく出版業も行なっていたんです。三省堂とか紀伊国屋なんか
の本屋も出版もしてるけど、あんな感じ。
イ、自分で自分を縛る……独りSM……(遠大なる寄り道)
SMは大脳の遊びだそうです。Sは自分が積極的行為者として相手のMを絶対
的支配に組み敷いている、と考えることによって喜びを得、Mは「積極的に受動
的になる」ことにより自分が望む情況に自分を連れていってもらう。つまり相手
のSが懸命に奉仕(労働)してくれることによって悦びを得るそうです。結局、
Sを自分の快楽のため奉仕させ利用しています。その前提には、良識を無視して
相手を好き勝手に弄び悦ぶ心と、常識を無視して弄ばれる自分を意識することに
よって悦ぶ心が出会わなければなりません。そして行為は目的語となる対象を必
要とします。
SはMがいなければSMはできません。しかしMは自分を対象にしちまえばS
Mはできます。独りSMです。その時、Mは同時にSでもあります。どうやらM
の方が、お得なようです。
支配する側は被支配者がいなければ支配者たりえません。被支配者は、自分を
支配しちちまえば、支配者にもなり得ます。しかし、そういう支配は欺瞞ではな
いのか? そうかもしれません。しかし、彼らにとっては、それは最高の支配で
す。支配に安住し、もしくは、その支配体制に組み込まれることによって、自ら
も支配者の側に身を寄せ実際に社会の、ある部分を支配し、より上層の部分に支
配されることを積極的に肯定する。それは位置的に中間であると同時に支配体制
の、現実の中核であるといえましょう。支配の源泉(根拠)ではありません。中
核です。
あだしごとはさておき、出版統制に関しては当時、まず本屋の同業者組合によっ
て新版の書物が審査され、その後に行政側の審査を受けることになっていました。
ロ、本屋仲間成立
本屋仲間は、京都では正徳六(一七一六)年、江戸では享保六(一七二一)年、
そして大坂では享保八(一七二三)年十二月に公認され、幕府から新版書物の審
査権が与えられた。ただし、公的なものではなかったが、これ以前、早くは寛永
期から元禄までには三都に同業者組合が存在していました。
本屋仲間の成立理由は、重版(勝手に自分とこと同じ本を売り出す著作権の侵
害)と類版(似たようなのを出版すること)を防止するためでした。少なくとも
元禄十一年以前から大坂でも二十四軒からなる仲間組織があり、自主的に、そし
て私的に重、類版に対して検閲を行なっていたと考えられます。また、今でいう
版権が認められたのは元禄十一年でした。
鑑定録の「享保八癸卯年八月十七日御願申し上げ候訴状の控」に、「私共商売
体に古来より在り来たり候板行物に重版類版仕つり候儀 前方数多之有り 元板
所持の者難儀に及び出入り罷り成り候に付き 元禄十一年寅八月七日に重版類版
仕つり候儀御停止成し下させられ候様に 願い奉り候処に聞こし召し上げさせら
れ同二十一日に 御停止仰せつけなさせられ有り難く存知奉り候 其の後我々共
仲間の内にて諸事相改め出入り之無き様に相守り罷り有り候」とあります。
ここからは重、類版は以前からあり、元禄一一年八月二十一日の判決で仲間側
の主張が通った、などのことが窺えます。またこの年(元禄一一年)に重、類版
は絶版に処すという法令が出されています。元禄一一年の「出入り」(訴訟)と
は、鑑定禄によれば、池田屋三郎右衛門が出した「弁々惑指南」という書物を三
人の者が重版したためにおきたのです。その訴えとあわせて仲間たちから重、類
版を取り締まって欲しい、との願いが奉行に出されます。そして重、類版禁止令
が出されることになるのです。
ハ、統制機構
明暦三(一六五七)年、京都で和本の軍書類を出版する際には奉行の許可が必
要となりました。その検閲には本屋仲間が協力していたのです。元禄一一年には、
許可制は一般書にまで拡大されました。この京都の動向を考慮すれば、大坂での
統制についても一つの仮説が導き出されます。
本屋側から見れば、自分達の権利を守るために重類版の審査権を獲得したのだ
が、幕府側から見れば、そのことで、統制機構に本屋を組み入れたのではなかっ
たか。三都の本屋達は重類版を防ぐため、互いに連絡を取り合っていました。京
都で出版統制(許可制)が始まった以上、大坂の本屋も新版書物の発行に慎重た
らざるを得ません。しかも、それ以前とは違い重類版の審査権を得たのだから、
その既得権の確保が重要な課題となるでしょう。
差定帳の享保八年の史料には、「当地にて新作の書物板行致し候節 本屋共よ
り惣年寄へ相達し 奉行所へ相伺い候」とあり、大坂では本屋仲間の行事(当番
制の世話役)がまず、作者から提出された新作の下書に目を通します。このうち
幕府の禁忌に触れるものについては、惣年寄に報告し、奉行所に伺いを立て、指
示をあおぐことになっています。
このように出版統制は、仲間レベル、行政レベルの二段階で行なわれていまし
たが、これは本屋仲間に審査権を与えることにより、行政の審査の煩雑を避けよ
うとしたのでしょう。
何ゆえの煩雑か。それは出版業の発展、書物流通の活発化でしょう。出版業発
展の要因としては、まず印刷技術の進歩が挙げられます。近世に入ると一度作っ
たら磨耗のため百部程度しか印刷できなかった木活字から、一度彫り込んだら三
千ー五千部の印刷が可能な整板印刷に移行しました。
木活字は木の活字。一つの書物で、何度も同じ字を使うから磨耗が激しかっ
たんです。整版印刷は、一枚の板を彫って一丁(袋とじの頁裏表)を印刷す
る方法。この方法では、つづけ字表現、挿し絵、ルビが可能となる。すなわ
ち、より読みやすい書物が簡単に作れるようになった。ともいえます。
次に寺小屋などの普及により、識字率が向上したこと。庶民の経済力、所得が
向上し出版市場が拡大してきたこと。物資の全国的流通に触発された全国的視野
の開眼(例えば旅行記の出版)、それに伴う知識欲もしくは好奇心の惹起も考え
られます。
また本屋は、京都においては寛永期、大坂、江戸では寛永、延宝期の創立が多
いことから、それぞれの地域はそれらの時期に出版が盛んになったと思料されま
す。
(つづく)