#2301/5495 長編
★タイトル (ZBF ) 93/ 8/18 5:25 (125)
近世大坂出版統制史序説(3) 夢幻亭衒学
★内容
近世大坂出版統制史序説(3) 夢幻亭衒学:Q-SAKU/MODE OF PEDANTIC
四、統制の実態
ここでは特徴的な絶版事件などを取り上げ、統制の実際を見てみましょう。
ケースA
文化八(一八〇七)年六月の史料から、大蔵永常の著わした「農家益」の後半
がチェックを受けたことが解ります。惣年寄から、この本の中の「油之部」は油
仲間に差し支えるか否かを問い合わせているか尋ねられました。版元は、油屋年
行事(油仲間の世話役)への「懸合」は済んでおり差し支えない、と答えていま
す。この「油之部」の何が問題となったのでしょうか。
狩野文庫には、この「農家益」前、後、続編が収められています。しかし後編
には「油之部」なる章はありません。あるのは「生蝋之部」でする。ここは、生
蝋の製法や流通過程の取り決めが記されています。この製法の記述が、技術の独
占にでも差し障ったのでしょうか。しかし、それは前編にも載せられており、こ
ちらは問題となっていません。よって、この場合は、生蝋仲間で作っていたゑび
す講の定や売人口銭の定などを七通りほど載せていますが、こちらが問題となっ
たようです。組織の内部文書ともいえる「定」が載っていることに、町役人は神
経と尖らせたのでしょう。特権者たちが手の内を晒したくないのは、昔から変わ
りません。なにせ外面を取り繕うことによって暴力以外の正当性があるよう見せ
かけているだけなのですから。
差定帳所収、天明三(一七八三)年六月の史料によると、「花火秘伝抄」とい
う本の開板(出版)が願い出されました。この時は惣年寄が行事を本屋行事を呼
び寄せ「惣而花術之書者、決而難相成事ニ候所、先例ニ而も有之哉否」かと尋ね
ました。行事は以前にも「花術秘伝書」という「一枚摺」があり、今度の本は、
それに増補したものだと答えました。年寄は、この答えに対して、それなら「一
枚摺」が何時版行許可がおりたのかと重ねて尋ねたのです。行事は答えることが
出来ず、結果、本の版行は中止となりました。その後、再び行事が呼び出されま
した。この時、参考のために提出していたのでしょうか前述「水中花術秘伝書」
は返却され「増補花火秘伝抄」は番所に欠所となりました。これは書物という形
で火薬技術が一般に詳しく知らされるのを嫌ったためと考えられます。
天保十二(一八四一)年七月の史料には、次のような一件が述べられています。
阿波国徳島に住む高良斎が「駆梅要方」という本の蔵版を大坂の本屋に持ち込み、
「売弘」(一般への刊行)を依頼しました。狩野文庫に収められている「駆梅要
方」は天保九年に浪華超然堂で作られたものです。原書は「度逸、辺的律実仙地」
、訳は「法電、機浪謨」ら、それを高良斎が重訳しています。内容は、梅毒をは
じめとする性病に関する医学書で、種々の症状を挙げ処方が述べられています。
本屋は、この売弘許可を得ようと行事二願い出ましたが、この本が「阿蘭陀翻訳
之書」であったため、「公儀」(この場合は奉行)へ伺いを立てました。すると、
「向後、良斎社中は格別、本屋仲間ニ而売弘候儀者不相成」との答えが返ってき
たのです。この史料では「阿蘭陀翻訳書柄」であることが問題となっています。
同七月二十三日、高良斎から出された文書に次のような、惣年寄側の出版不許
可理由が挙げられています。即ち、「唐刻翻釈之書売弘候而者、初学之者共猥ニ
猛剤誤用候ハゝ、不容易儀ニ付」。“生療法は大怪我のもと”って感じ。これは
前述の、「オランダわたりの本だから」というチェック理由とは異なります。も
う、この時期になって、しかも思想書ではない医学書で蘭学を弾圧する必要もな
くなっているのだから(結構、普及し始めた)、こちらの「よぅ知らん者がキツ
イ薬を無闇に使うと危ないから」という理由の方が本当でしょう。ただ、とって
つけたような理由であることには変わりませんが。
文化九(一八一二)年八月、「四季草」という本の発行が願い出されました。
この本は、全七巻を春夏秋冬の四編に分かち、弓道のこと、人品の称などに就い
て簡単な解説を加えたものです。この本の序には出版理由が書かれてあります。
則ち、著者伊勢平蔵貞丈の祖先は室町期に幕府弓馬故実家であった小笠原家に学
び、その伝書が貞丈の家に残されたいた。当時の小笠原家は室町期と若干、作法
を異にしているため、古式の一端を世に知らせるために同書を著わした、と言っ
ています。この話の信憑性はともかく、この本は当時の小笠原家の行っていない
旧来の小笠原流の武家故実を世に出そうとしたのです。これに対し内容が、当時
の小笠原流家元に許しを得ているかが問われます。結果として、許可を受けてい
なかったため、同十年四月に版元は出版願いを取り下げました。既存の権威(小
笠原流)を最大限に尊重する態度でする。これは「条目」の、人の家筋について
本人以外の者は勝手なことを言うなと定めた項目に抵触するのでしょう。
このケースAについて互いの連関がないことに疑問をもたれる読者もおられる
でしょう。当然です。このケースAは実は、「その他」に分類されるものなんで
す。この後、ケースBでは「絶版書の刊行」、ケースCで「宗教がらみのチェッ
ク」、ケースDで「公儀、諸侯、天皇に差し支えたもの」を取り上げます。
ケースB
差定帳所収、安政四(一八五七)年九月の史料に拠ると、広嶋屋辰之助という
者が「本命的殺精義」という本を出版しようとしました。ところが実は、これが
天保年中に絶版に処せられた本だったのです。辰之助は、この本を買い求め、「
何心無く」彫刻して百二十部を印刷していたと主張しています。結果は絶版。
この一件で興味深いのは、奉行所と仲間行事の間に交わされた遣り取りです。
まず、奉行所から、本屋だけを範囲として取り締まっても如何しようもない、そ
こで板木職(独立した整版工)も取り締まれば自然と不法なことをする者もいな
くなるのではないか、と問いかけがありました。仲間行事は、昔は版木職も取り
締まっていたが近頃は取り締まっていない、版擦職(独立した印刷工)、表紙職
(独立した製本工)等の中にも「不心得」な者がいて、これら実際に本を作る技
術をもった職人が重版を取り扱う本屋と結託すれば、取り締まりようがない、と
答えました。この答えを受けて奉行所は、仲間行事の方から、それらの職人を取
り締まる権利を願い出ては如何か、と勧めるんです。行事は、その時は奉行所に
直接に願い出るのが良いか否かを尋ねました。奉行所は、本屋懸かり惣年寄(出
版業を担当する町役人)に願い出るべきだと答え、奉行所からも惣年寄りに話を
しておくと約束しました。
差定帳所収、安永四(一七七五)年三月の史料に拠ると、西田屋利兵衛という
者が、「俳諧三部書」という本を出版しました。実は、この本、宝暦九年に絶版
になったものでした。同帳所収宝暦九年二月の史料に拠ると、絶版の理由は不明
ですが、この西田屋利兵衛その他二名の「相合版」(共同出版)だったが、東町
奉行所に召し出され、「御前に於いて」(奉行直々に)絶版を申しつけられたの
です。
また、田原屋平兵衛という者が、安永三年十一月、「幽遠随筆」の開板を申し
出、同年十二月に「版行御免」となりました。しかし、翌年三月に絶版を申し渡
されたんです。理由は、同書中に「俳諧三部書」のことに触れた部分があったた
め。内容は詳らかではありませんが、安永四年三月に「俳諧三部書」と同時に、
絶版の決定が下されており、この二つの絶版事案は一つのものとして考えられて
いたことが窺えます。この結果、「俳諧三部書」は「御預」(版木を取り上げら
れたらしい)、「幽遠随筆」は絶版となりました。
寛政二(一七九〇)年五月、本屋塩屋平助が「大学講義」という本の開板を願
い出ました。すると、文中に数カ所「大学或問」からの引用があるとして取り調
べを受けたんです。貞享四年に絶版にされた熊沢蕃山の「大学或問」と間違われ
たらしい。塩屋は「大学或問」は「大学或問」でも、朱子の「大学或問」からの
引用であると返答しています。
差定帳所収、文化二年四月二十二日の史料に拠ると、播州姫路の本屋から「乙
丑気候懸断録」という本が大坂の敦賀屋九兵衛の店に届きました。その時、主人
は国外に出て留守でした。店の従業員が独断で引き取って売り捌きました。主人
が帰ってみると、同書は以前に京都で絶版となった「運気考」という本と同様内
容だったのです。主人は驚いて本を回収しようとしたが、仕入れた十冊は完売し
ており、うち四部を回収できたのみだった、と主張しています。
この史料は敦賀屋が行事宛に提出したもので、鵜呑みにすることはできません。
しかし、少なくとも、単なるイイワケとしてでも、手代が勝手にやったことだと
の論理は成立し得たことが解ります。仲間の掟にも、使用人の管理を厳重にする
ことが書かれていました。則ち、取り締まりの範囲は従業員にも及んでおり、実
際に従業員の立場でも勝手なことができたのでしょう。
(つづく)