#2278/5495 長編
★タイトル (RJM ) 93/ 8/13 0:55 (129)
『ハードウェア』(6) スティール
★内容
葬儀の日、空は、みぞれ模様だった。雨と雪の入り交じったものが、静かに、天
空から落ちてきた。その、落霙は、私には、偶然に思えなかった。叔母の死は、あ
まりにも、突然だった。
叔母自身、自分がこんなにも早く、天に召されるなどと、想像していたのだろう
か。みぞれは、ただただ、降っていた。札幌の街を、私の嫌いな感触で、覆い尽く
すかのように降った。そして、私は、朝から、落ち込んでいた。冷え冷えとして、
体が凍りつくようだった。こんなときに、雅彦が居てくれたらと思いながら、私は、
虚ろな瞳を、人々に向けていた。
叔母の葬儀は、とても荘厳で、立派なものだbェ、私を不安な気分に陥れた。いつのまに
か、雅彦の姿が消えていた。幼い迷子のように、必死になって、私は、雅彦の姿を
探した。すると、人々の笑いさざめく揺れの中に、あの派手で、傲慢な婦人の姿が
そこにあった。その夫人が、私に向かって、何かを叫んだ。そうして、思いっきり
の侮蔑と冷笑をもって、誇らしげに笑い出した。
人の感触で、私は目が覚めた。いつの間にか、私は雅彦の横で眠っていた。夢だっ
た。私は思わず身震いをした。何か嫌な予感がした。時計を見ると、午前四時だっ
た。
私は、キッチンで、水を飲んだ。それだのを見るのは、これが、初めてだった。私は、おそらく、叔父が落
ち込むことはないだろうと、思っていた。
実は、叔父の慟哭には、叔母の急死以外にも、もうひとつの理由があった。あの、
お喋りの、栄養過多の婦人から聞かされたのだが、叔母は、あの晩、あの若い医師
と一緒に居たのだ。一緒にいた叔母が発作的に小川に飛び込んだあと、あの若い医
師は、近くのいた人々と、叔母を引っ張りあげて、救急車で病院まで運んだのだが、
叔母は、息が切れていて、蘇生しなかったらしい。
栄養過多の、あの高慢な夫人は、私に『叔母様にも、若い恋人がいらっしゃった
なんて、なかなか、隅におけない方でいらしたのねえ』と、こう言った。私は、こ
の徳のない無礼な上流というイメージから程遠い婦人のお喋りでも、たまには、役
に立つのだなというふうに思い、婦人の無礼な発言にも、不思議と、腹が立たなかっ
た。
この婦人の発言のとおり、女性にのみ不利な古い道徳心を持つ叔父にとっては、
叔母に恋人がいたということのほうが、衝撃が大きかったのかもしれない。叔父に
とっての叔母は、最後まで叔父に従順でなければならなかったのだ。いや、むしろ、
叔母は、そう装っていたのだ。少なくとも、形のうえでは。
私は、叔母の遺体が平岸の霊園にある、火葬場で焼かれようとした時、あの、若
い青年医師が泣いているのを見かけた。私は、葬儀を抜け出して、彼を誘い、彼と
食事をした。そのあと、私達二人では、あの川べりに行った。私は、彼の手を引き、
ホテルに強引に誘った。私は、彼に、自分の体を与えた。私は、彼のことが知りた
かった。いや、彼というよりも、叔母のすべてが知りたかったのだ。彼は、私の体
で、彼の悲しみを、何度も、何度も、紛らわしていた。私が叔母のことを聞く前で、
叔母の話が、彼の口と体全体から、滔々と流れ出した。
彼は、あの好印象を与える生真面目な顔で、最初、叔母との出会いに触れ、それ
から『僕はあの方を愛していた。少なくとも、今のご主人よりもずっと』と、彼は
言った。また、彼は、こうも言った。
『僕は結婚するつもりでした。しかし、あの方はそれを望んではいなかったようで
した。彼女が主人と別れる事があっても、あなたとの関係は、このままでいいと、
彼女は言っていました。彼女が、彼女自身であるということを、彼女は一人で自覚
していかなければならないと思うと、彼女は言っていました。それは、僕と結婚し
てもできることではないのかと、僕は言いました。しかし、あの方は、いえ、そう
したら、結局、同じことになってしまうと言うのです。初めから終わりまで、私は、
自分が無力な人間だということを知る必要があるからと』
『そうですか、叔母がそんなことを』と、私は言った。彼は、涙で潤んだ目を天井
に向けて言った。
『あの方の心は、余りにも寂しすぎた。僕は、もっと早く、あの方にお会いしてた
らよかった。そうしたら、あんなに、あの方の心が、冷えきるなどということはな
らなかった。ましてや、こんなことにはならなかった』
彼の目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。私は、彼を抱き締めてあげた。
彼は、私に抱かれたまま、また話を始めた。
『僕にとって、僕の目の前での、あの方のあの死に方は、余りにも、残酷すぎる現
実でした。あの救急車に、高電圧の負荷器さえあれば、彼女は助かったかもしれな
い。僕は、病院で、何度も、何度も、胸に、電気ショックを加えた。僕は、そのあ
とも、彼女の胸を切り開いて、心臓を直接マッサージしようとしたのだけれど、そ
のときに、彼女の御主人が来て、そうはさせてくれなかった。あのとき、そうすれ
ば、助かったかもしれないのに』
彼の切なく苦悩に歪んだ顔を、私は無機質な気持ちで見つめていただけだった。
どうしても、自分の気持ちを奮い立たせることが出来なかった。ただ、私は、彼の
言葉を聞きながら、自分でも、混乱しているいた。ただ、私は、
『私にとってあなたと叔母様とのことは意外だったし、突然の事故で叔母様がもう
いないという事実は、もっと意外なことなのだから・・・。でも、ほんのひととき
でも、叔母様は、確かにあなたに愛されていたのだと思う』
と、彼にポツリと言ってあげた。
彼は、叔母の髪の毛を持っていた。私達は、ラブホテルの窓を開け、二人だけで、
叔母のための葬式をしてあげることにした。ホテルの窓を開けると、もう、夕暮れ
深い薄闇だった。冷えてきたせいか、みぞれが、雪に変わって、チラチラと降って
いた。ネオンの天然色の光が、雪に反射して、いままで見たことのない万華鏡のよ
うな世界が、そこにはあった。私は『うわぁ、きれい』と、思わず、声を上げて、
雪を掴んだ。私の好きなサラサラした雪だった。叔母のお葬式にふさわしい、サラ
サラした雪だった。私は、そのとき、叔母はもう焼かれて、煙りになって、空に舞
い上がっているということを思い出した。私は、この雪が、叔母の分身のような気
がした。
叔母の葬儀が終わって、初七日の日まで、私は、自分の部屋に閉じこもっていた。
誰にも会いたくなかった。私にとって、叔母というのは、とても大きな存在だった。
叔母のあの美しい姿が、もうこの世に存在しないという事実を、私は認めたくなかっ
た。叔母が私に残していったものは、色彩のない世界だけだった。虚ろな空気と言
葉のない空間が、私を灰色の世界に閉じ込めた。私は、いくつも、いくつも、詩を
書いた。私の詩は、すべて、叔母を暗喩するようなものとなった。私は、もはや、
実体のない叔母と、心のない自分との間を行ったり来たりしていたようなものだっ
た。もしかしたら、私は、自分が叔母となりたいと、願っていたのかもしれない。
私は、美しいものを愛した。美しい人、美しい指、美しい言葉、美しい仕草、美
しい笑顔、美しい笑い声、美しい心。叔母は、全てを兼ね備えていた。そんな叔母
を、私は心から、愛して、身近に思っていた。ただ、叔母に、あんな恋人がいたこ
とに気付かなかった自分が、悲しかった。私も、あのパーティーのくだらない人間
に成り下がってしまったような気がしたからだ。
私は、恋人の雅彦が、帰る時、空港のロビーで言ったことを、よく、思い出した。
『叔母さんは、崇高なまでの汚れのない美しさを持った人だったけれど、今こんな
事になってみると叔母さんに恋人がいてくれた事はよかったんじゃないのかなあ。
君にとって、叔母さんは理想の女性だったけれど、叔母さんが余りに人間離れした
美しさをもっていたために君の中で、勝手な偶像ができあがっていたのじゃないの
かい。その美しさのために、全てにおいて叔母さんは潔癖だと君自身が思い込み、
君自身が叔母さんから叔母さんの純粋な人間臭さまで、奪ってしまっていたのじゃ
ないだろうか。僕達人間は生身で生きているという事実を、叔母さんの場合だけ、
君は見て見ぬ振りしていたのではないのかなあ。自分だけの勝手な偶像崇拝のため
だけに・・・。人は誰だって人を愛したい、人から愛されたいと思っているはずだ
し、いつも、心のどこかにある寂しい透き間を埋めてもらえるようなものを欲して
いるものなんだ。多分、叔母さんだって、例外では無かったんだよ。それが、僕達、
生き物の悲しい性なのかも知れない。人間は皆、そんなに、強くはないよ』
私は、彼のいうとおりかも知れないと思った。でも、世の中にはたくさんの偶像
崇拝的なのがいっぱいあるわ。宗教だって、教育だって、社会のシステムだって、
芸術の世界だって。結局、裏を返せば、すべてが俗物的であるということ?
そのときの私には、そう思いはしたけれど、言葉を出して言えるほどの気力はな
かった。私は会話にならない会話をして、彼に別れを告げた。雅彦は、最後の最後
まで、私を慰めて、帰っていった。
彼の言っていることは当たっているのだろうか。ベッドの上で、天井を見つめた
まま、私は、そう思った。確かに、私は、叔母様が、生きているときに、もっと、
叔母のことを理解してあげなければいけなかったのだ。私の心は後悔の念で一杯に