#2196/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 93/ 7/ 1 2:16 (200)
月の陽炎(10) 青木無常
★内容
「パパ……!」
呼び声もまた、哀しみにぬれていた。
哀しみはそのまま、狂おしく手をさしのべて呼びつづける。
戻ってきて、パパ。そこには、あなたの未来はない。
応える声はなく、意識は力を喪ったまま地に伏し、誘われるままに暗黒へと、重
く沈みこんでいった。
絶望の闇のなかに、
パパ!
パパ!
呼びかける声だけがいつまでもただ、反響をくりかえしていた。
戻ってきて、パパ!
あなたの故郷は、いまはここよ!
戻ってきて!
パパ!
疲れ果て、絶望しきった魂は、倦怠にまみれてのろのろと目を開く。
放っておいておくれ。
かすれ、しわがれた声にはもう、なんの希望も残されてはいなかった。
わしにはもう、故郷などどこにもない……。
絶望の黒にぬりつぶされた意思はそのまま、重く目を閉じ、周囲の闇に同化しよ
うとしていた。
パパ!
哀切には、怒気が含まれていた。
炎のような怒りが、赤く、眠りかけていた意識をゆり動かした。
それは雷鳴のように意識を打ちすえ、怒濤のごとく覆いかぶさり、ガラスのよう
に音を立てて砕け、降りそそいだ。しゃりしゃりと雪のように無数の砕片は舞い踊
り、悲哀と絶望をつのらせていく。
もう……
つぶやきもまた薄れ、涙になって消えた。
そしてなにもかもがその涙に流れて遠く去り、静寂に満ちた暖かな暗黒が。
パパ……。
……パパ……。
唯一の呼びかけもまた遠ざかり――
――それがなんだったのかはわからない。あらゆるものを、はぎ奪られた魂の闇
わだの奥底に、ただひとつ潜んでいた根源的な何か、か。
……パパ――もうすでに悠かな隔たりの向こうから、それでもかすかに響きわた
る呼び声に、まるで感応するかのようにそれは、ひくりと蠢いた。
胸の底になにか、ちっぽけな熱いものが芽生えたような感触。それが――
爆裂する炎のように、音もなく、膨れあがった。
怒りか、叫びか、憤りか、否、どうにも名づけ得ぬ、意味もなくひとを、人類を
ここまでつき動かしつづけてきた、それは衝動なのか。まるでそれは抑えきれぬ内
圧に衝きあげられて獰猛な歓喜とともに噴きあがるマグマのように、いちどきに膨
張した。
瀑流のごとく、声なき声が無窮へ向けて叫びあげ、力に満ちて進軍する凶猛無比
の虫の大軍のごとく闇を引き裂いて飛散していく。
肉体ごと、魂が張り裂けていく法悦。
そして、内圧と充満した力はそのまま、噴きあげた構成物のすべてが、反響を残
して塵のように四散していき、それはそのまま闇を満たす豊穣なる世界へと変転し
た。
ひしめきあうあらゆるものに生命がみち、虚空にさえ叫びが充満していた。その
中心に青い宝石が、どくどくと、どくどくと鼓動をつづける。
そしてその対極にまた、複雑にからまり、震え、流れる深い、巨大なものが。
それは、曙光のように光を投げかけていた。
燃える色の、光を。
いちどきに内も外もすべてを埋めつくした、過剰なる芳醇に満たされて幻惑され
ていた意識が、そこに焦点を見出し、瞠目した。
……待っているわ。
シュレーディンガーに散ったはずの白い手が、荒れ狂う光の彼方に、たしかにさ
しのべられていた。
信じられない……。
揺らめき、ためらい、そしてのびあがった。歓喜、そして恐怖に衝き動かされて。
信じられない!
おめきつつ、無我夢中で跳んだ。闇雲に、盲目的に、立ちはだかるものすべてを
切り裂いて、光をめざして。
そして――たどりつく。
奈落の底。至上の天に。過剰のさなかにすべては渦をまき、めまぐるしく行き交
いかけ巡っていた。
記憶……とその時つぶやいたのは、だれだったのか。
同時に、爆発しそうな動悸の感覚。
はやり立ち、焦慮にも似た想念に背なかを押され、跳びこんだ。
しゃにむにもぐりこみ、同化し――
玲子!
歓喜の叫びとともに、太陽よりもなおまばゆい光が、爆発した。
玲子!
狂おしい歓喜をたずさえて意識は獰猛にたけり、一直線に世界を満たしていく。
「パパ!」
叫びもすでに届かず、意識は光に呑みこまれ、残されたものの哀しみを置き去り
にして、勢いのままに消えていった。
月が悠久の間、見つめつづけてきた星へ。
イカルスで担当官がパニックに陥りながら呼びつづけていたとき、シューベルト
CBにはだれひとりとして、意識を保っていた者はいなかった。
記録上では、第四の異変は二分二十二秒というごく短時間のできごとにしか過ぎ
なかったが、そのとき月面上にいたすべての者たちにとって、それは永劫にも等し
い体験だった。
救援隊はこの突発的事態の後、あえて捜索を続行したものの目的を果たせず、補
給のために活動を断念。イカルスからの呼びかけにシューベルトCBから返答が返
ったのは、その帰還途上のことだった。
軽傷者数名、意識不明が数名。景子と月華は後者に含まれていた。
不思議なことに、王主任を代表とするシューベルトCBのメンバーの多くが、再
捜索には期待薄な姿勢を示していた。にもかかわらず、二度目の捜索隊が遺跡内部
で、プロフェッサー・ラシッド・ハーンの遺体を発見。回収の後、イカルスへと運
びこんでいる。
この日、眩惑感による軽い怪我は月面上に蔓延したが、大きな事故はラシッドの
件を除いて一切なかった。景子と月華も意識をとり戻し、数日を経てすべては常態
に復しつつある。
イカルスからシューベルトへと移送されたプロフェッサーの遺体には、外面的に
はなんの異状も見られなかった。死因は心臓麻痺、と記録された。
「抜けがらだわ」
月華がつぶやいた言葉は、もちろん記録には残されなかった。
「なんの意識も、残留していない。こんなことって……」
その傍らで、景子がひとり、つぶやいた台詞もまた。
「どこにいったか……わかるような気がする」
9.かぎろひ
都からの使いから、息子が死んだと聞かされた夜、老婆はさめざめと泣きはらし、
老爺はただ呆然としたままでいた。
晩い歳になした子だけあって期待も大きかったが、その期待につぶされることな
く才気を発し、帝の側近く仕えるという異例の抜擢を受けたときは親子ともども狂
喜したものだった。それがかくもあっさりと、その命脈をつきさせたという。老爺
には、にわかには信じがたい報せであった。
夜もふけ、泣き疲れた年老いた妻の寝息を耳にしながら闇を見つめ、ようやくの
ことで現実をかみしめた。
息子と、それにともなう一族の栄耀の予兆を快く思わない政敵の名をいくつか心
に刻み、ふつふつと怒りをたぎらせる。舎殿の火災などと取り繕うても、犠牲者の
顔ぶれを耳にしてみれば一目瞭然の謀りごとだ。
一昔も前であれば、奥歯のひとつも噛みしめ、復讐の闘志をひそかに燃やしたか
もしれない。
いまではただ、底しれない疲労感に重く、ただ重く果てしなく、沈みこんでいく
だけだった。
もとこのあたりの土俗であった一族も、すでに衰亡の兆があらわれてひさしい。
唯一の希望を断たれ、あとはただひっそりと滅びていくのみだろう。
ため息もつかず、瞬きもせず、老爺は己の、妻の、そして一族の行く末を暗く案
じるばかりだった。
ふうう、と長く、弱々しく息をつき、ふと、耳をすました。
鳥の声が、したような気がしたのだ。
鶯の声が。
梅の咲こうかというころ、季節的にはなんの不思議もないが、いかんせん闇夜に
鶯が鳴きわたるなど、聞いたことさえない。
息子の御魂が、鳥に化生して訪ねてきたのだろうか。
気弱く思い、首を左右にふるう。
もういちど、鳴いた。
今度ははっきりと、耳にした。
しばし床のなかで目を見開き、耳をそばだてていたが、深く寝入る妻を起こさぬ
よう気づかいながら身を起こす。
深山の陰から、燃えるような紅がかすかに覗いている。
夜明けまで、眠れずに過ごしてしまったらしい。月下に踏みだし、ぬば玉のなか
に鳥影をさがして歩く。もとより、鳥を見つけてどうするというわけでもない。途
方にくれ、体が動くにまかせただけだった。
音もないのにそれに気づいたのは、どういうわけだったのか。
ふと、奇妙な気配を感じてふりかえり――それを見た。
ひく、と喉の奥に息をのみ、目を見開いた。
それをどう表現すればいいのか。太陽のようにまばゆく、月のごとく怜悧。
その青い光の珠は音もなく回転しながら、すべるようにして宙天をゆっくりとよ
ぎっていった。
幻のような光をまき散らしながら珠は老爺のはるか頭上をこえ、明け染めかけた
山中へと吸いこまれていった。
まるでその珠に魂を吸われたように、よろよろと心もとなげな足どりで老爺は後
を追いはじめた。
深く濃い闇に幾度となく足をとられながら山中を進むうち、霞が四囲をつつみ、
やがて暁に照らされて、一面に白い朝が訪れた。
春霞のなか、踏み入った竹林に、あれほどまばゆく冷たく輝いていた光の、小さ
くしぼんだとしか思えないような、おぼろな片鱗を見つけ、寒さに身を震わせなが
ら近づいた。
老爺の見守る前でも光は、みるみるその輝きをすぼめていき、やがては朝もやの
なかに消えた。
そして、
「おう……!」
ため息のように老爺は、ひさしく忘れていた感嘆の声を、口にした。
晴れはじめた霧中にさしめぐむ、幾筋もの光のなかに、その赤子は静かに寝息を
たてながら眠っていた。
まるで、あの青い光がこごってできたかのようなその姿に、しばし呆然と老人は
見入っていたが、やがてふと、この早暁に赤裸で横たわる姿に哀れを覚え、起こさ
ぬようにそっ、と抱きあげる。
しわがれた腕のなかで赤子はかすかに身じろぎ、見守るうちうっすらと両の目を
開いた。
「……兒や」
おそるおそる呼びかけ、笑顔を見せると、しばしの間、赤子は不思議そうに見返
していたが――ふたたび目を閉じ、安らぎに満ちた寝息をかすかにたてはじめた。
その寝顔に見入り、ふと視線をあげて四囲を見わたしてみたが、無論のこと親ら
しき者の姿ひとつ見えるはずがない。
夢でも見ているかのごとく虚ろにたたずみ――
すやすやと眠る赤子の背を静かに、軽く叩きながら、我が家へと踵をかえした。
さしめぐむ朝の光のなかで、ほんの少しだが、涸れはてていたはずの力がふたた
び、湧いてきたような気がしていた。
10.むすび
「監視……記録装置?」呆然とつぶやき、首を左右にふり、肩をすくめてみせた。
「地球を……?」
無言のまま月華は、うなずいてみせる。
その反応に王主任もホルストも、途方に暮れたように目を見開きながら、人形の
ようなしぐさでただ首を左右にふりつづけるばかりだった。
「……月が?」
かろうじて口にした言葉も、痴呆のごとく響く。
「比喩、ですよ、老師」
軽く笑いながら、月華はいう。
わけがわからない、とでも言いたげに見つめかえす二人に、しばし考えるように
して言葉を選び、つづけた。
「異質な思考を、むりやり人間のそれに翻訳した――といえば、いちばん正確な
表現になるでしょうか……。つまり――ほんとうのところはどうか、というのはま
ったく不明ですが……月は、地球を見つめつづけてきたのだ、と」
「それはシステム、というか、なにか機械的なものが、ああ、その……つまりそ
のね、なんというかその、人為的なその……」
混乱する思考を言葉にまとめきれず、しどろもどろにホルストが言うのへ、月華
は淡く微笑しながらうなずいてみせる。