#2197/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 93/ 7/ 1 2:23 (162)
月の陽炎(11)完結 青木無常
★内容
「わかります。つまりエイリアンが月に改造を加え、そのような機構なりなんな
りを付与したのか、否か、ということね?」霧が晴れたような表情でうなずくのへ、
アハハ、と軽く声を立てて笑ってみせた。が、すぐに端正な表情を曇らせる。「そ
れがはっきりしないの。ただ――なんと言えばいいのかしら……私たちのいう思考
とはかなりかけ離れた印象ですけれど、この月が思考、というかそれに類似した機
能を秘めている……というか秘めていた――あの異変のあいだだけそうなっていた、
というか……なにを言っているのか自分でもよくわからないわ」
そう言って肩をすくめてみせる。
そんな月華を見て王李光は軽く微笑み、ホルストは眉間のしわをいっそう深くし
ながら腕ぐみをした。
「つまり、その思考みたいなものは、もう今は機能していない、ということかな?」
少し無念げに眉根をよせつつ、それでも微笑みは残したまま王主任がそう訊くの
へ、月華は真顔で、静かにうなずいた。
「もうなにも感じられないわ。あれ以来、異変もまったく起こる気配がないし、
これは私の直観にすぎないけれど、たぶんもう二度と、ああいうことは起こらない
ような気がします」
「それは残念だ、というべきなのかな……」
「たぶんね」
言ってしばし口をつぐむ。
「パパラシッドの記憶が、混じりこんだのは……? というか、みんなの意見を
総合すると、そういう現象が起こっていた、という推測が成り立つようだが」
しばらくして、ホルストが説明的な口調でそう訊くのへ、月華は静かに首を左右
にふった。
「わからないの。たぶん、一番近くにいた人の思考に、反応したということかし
ら。……あの時感じたのは、やはり記録、というか見つめつづけてきた地球の上で
の、あらゆるできごとの記憶という印象だから……パパが若いころのできごとも、
それに含まれていたのかもしれないな。それがパパの思考に反応してよみがえった
というか……そう、映画かなにかのように、投影された……というか。まあこれは
あくまでも推測、というより印象に過ぎませんから、ほんとうのところはまったく
わからないんだけれど、ね」
「じゃあつまり、あの仁科で観測された百五十万年前の星座も、その投影の結果
ということなのかな」
しいて納得を求めるような表情で王李光が問い、月華は答えられずにただ微笑ん
でみせただけだった。
ここまでで話題はとぎれ、そのまましばらくの間は、とけない神秘に対する畏怖
と憧憬に満ちた沈黙が、室内に深く立ちこめた。
カタリ、とドアが開く音を立てて入ってきたドクターアルドーが、ふしぎなもの
をふいに目にでもしたかのようにちょっと驚いた顔をしてみせたのも、そのせいだ
ったのかもしれない。
「じゃあお大事に。また時間がとれたら見舞いにくるよ」
機をとらえてそう告げながら、王李光が立ち上がりかけた。あわててホルストも
腰を浮かせ――
すばやくのびた白い手が、王の腕にかけられ、瞬時、ふたつの視線がからまりあ
った。
あっけにとられたように、意味深く見つめあうふたりをホルストとアルドーは目
を見開いて見つめ――ふいに互いの視線に気づいてうろたえ、あわてて目を伏せた。
ドクターは見ないふりをしてひきだしの内部を意味もなくまさぐり、ホルストは
「じゃ私は先に……」と小声で立ち去りかける。
「おいおいずいぶん性急だな。待ってくれ、いっしょに出よう」
そんなホルストの背なかに快活に笑いかけながら王主任はふりかえり、ドクター
に軽く会釈をおくりつつ歩を踏みだした。
つながっていた手が、音もなくするりとほどけた。
退出しかける二人に、ドクターはふと気づいたように
「ケイコはまだ戻らないんですか?」
と問いかける。
「名残りをおしんでるんですよ」
笑いながら肩をすくめて王がいうのへ、しかたがないわねとでもいうように眉間
にしわをよせつつ、
「まだ本調子じゃないんだから、あまり無理をしないよう言っておいてください」
そう告げた。
うなずきつつホルストをうながしながら医務室をあとにすると、ハンガーへは足
を向けず、まっすぐに中央管制室へと向かう。
「きみは見送りにいかなくていいのか?」
道すがら、さりげなく王主任がそう問いかけるのへ、ホルストはややむきになっ
たような口調で、
「仕事がありますから」
とだけ答えて黙りこむ。
横目でそんなホルストの様子をうかがいながら王李光は、こみあげてくる微笑を
苦労して内心におしとどめた。
送別は中央管制室ですませ、ハンガーまで見送りに出させるのは景子だけにしな
いかと皆に根まわしをかけた張本人が、ほかならぬこのホルストであることを主任
は知っていた。
自信の現れか、憐れみか騎士道か、おそらくは本人にさえもよくわかってはいな
いのだろう。
「ライバルが減ったからって、油断はできんぞ」揶揄まじりの口調で意地悪く、
王主任は口にした。「なにしろあの娘は、月と結婚した気でいるみたいだからな」
むきになって否定する台詞がまた来るかと予想していたが、
「そうなんですよねえ……」
ため息とともに返った応答に、王李光はまたもや笑いをかみしめるのに全力をつ
くさなければならなかった。
ハンガーの内部は、三時間ほど前に“静の海”国際宇宙港から到着した物資と人
員の乗降で、出発の時間が迫った今にいたってもなおごった返したままだった。
熱気にあふれ返る中、クリシュナと景子だけが無言でたたずんでいた。
「びっくりしちゃったわよ、ケオパーからきいた時は」
かける言葉にさんざん逡巡をくりかえしたあげく、景子はしいて快活な口調を保
ちながらそう言った。
褐色の笑顔がうなずきながら、寂しげに揺れるのにいきあたって、しばしうろた
える。
が、そんな内心はつとめて見せないように、むりに微笑を浮かべてみせた。
「寂しくなるわね」
ありきたりな台詞だ、とひそかに苦々しく思う。
クリシュナは、笑いながら首を左右にふった。この仕種の意味は、ネパール式か
国際式か、いったいどっちなのだろうと疑問に思っていると、
「また戻ってくるから」
きっぱりと、ネワーリは断言してみせた。
浅黒い、彫りの深い顔を見つめると、哀しみを深くたたえた穏やかな無表情が、
言葉もなく見つめかえす。
基地の基底に流れる機械音が、今日はやけに大きく響いているような気がした。
クリシュナの故郷カトマンズは過去、いくたびも地震に襲われてきた。今回のよ
うに、市街の大部分を壊滅的な被害にやられたこともいくたびかあったが、そのた
びに復旧をくりかえしてもきた。傷痕はそのまま、たぶん街はふたたび立ちあがる
だろう。
そのためにクリシュナは、帰るのだ。地上へと。無事かどうかもわからない家族
のもとへと。
「ケオパーには悪いことしちゃったな」
言いながら肩をすくめてみせるのへ、景子は笑いながら首をふる。
「大丈夫よ彼女なら。なんだかんだいって、月に残る口実ができたんだから内心
喜んでるわ。うん」
とひとり合点にうなずいてみせる。
ハハ、と笑いながらもう一度肩をすくめてみせ、
やにわに、クリシュナは景子を抱きすくめた。
悲鳴をあげかけ、喉の奥におしこめる。
抱きかえしはしない。拒みもしない。それがせいいっぱいだった。
「戻ってくるから」
まるでため息のように、景子の耳もとでそうくりかえした。
むりよ、と浮かびかけた言葉を、しいて意識の底におしこんだ。
カトマンズの被害が具体的にどれほどのものなのかはわからない。しかしおそら
く、現実的にはクリシュナがふたたび月の上に降り立つことは、ほとんど不可能だ
ろう。
それでも、言わずにはいられなかったのかもしれない。
また戻ってくる、と。
顔を伏せ、目を閉じ、無言のまま景子は、クリシュナの腕のなかでただじっと時
の過ぎていくのを待った。
つい、とその身体がおし返され、すこし困ったような笑顔のクリシュナが、景子
の顔をのぞきこむ。
どう応えていいのか見当もつかず、景子は目をそらし、顔を伏せ――そして、せ
いいっぱいの笑顔を押しあげて、クリシュナの顔を正面から眺めあげた。
ネパール風に胸の前で手を合わせてみせ、
「ナマステ。……ナマステ、クリシュナ」
言ってもう一度、笑ってみせた。
しばし寂しげな無表情のまま、ネワーリは景子のそんな笑顔を見つめ返していた。
が、静かに笑いながらクリシュナは肩をすくめてみせ、
「ナマステー。サヨナラ、ケイコ。おれはかならず、もう一度戻ってみせるよ。
きみのもとへ」
言い残して、断ち切るようにくるりと背を向けた。
周囲の喧騒がよみがえるのへ、痺れるような目眩の感覚をかすかに覚えながら景
子は、立ち去る背なかを瞬時、視線だけで追いかけていた。
基地構内から連絡通路へ、一度もふりかえらずクリシュナは歩み去った。
静の海に往還するムーンバスへと視線を転じ、そのさらに向こう、窓の外に遠く
浮かぶ青い星へと、目を向ける。
年老いた彫りの深い髭面が、寂しげに微笑んでいるような気がしていた。
……宝石を手にできたのですか?
胸の奥で遠く問いかけ、目を閉じた。
ほんのしばらくのあいだだけ、四囲を行き交う喧騒とは無縁の別世界にたゆたい、
そして目を開く。
明日からはふたたび、感傷するひまひとつない忙殺の日々がはじまる。
自ら選びとった道だから、後悔はない。時おり胸をしめつける郷愁やセンチメン
タリズムは、クリシュナに持って帰ってもらえばいい。遠く浮かぶ青い星を目にす
るたび心にうかぶ多くの顔の中に、クリシュナの褐色の笑顔が今日、加えられたと
いうことだ。
いくたびかくりかえされた、発車を告げるインフォメーションが、最後の一度を
くりかえす。
そしてそれから、長い一拍をおいてから連絡通路が、ムーンバスから切り離され
た。
いくつもならぶ丸窓は遠すぎて、どこにクリシュナがいるのかもうわからない。
そして開いた機密扉を音もなくぬけて、バスはゆっくりと、銀の荒野へとすべり
出していった。
「さよなら」
もう一度だけ小さく口にして、景子は、バスが吸い込まれていく青い星に背を向
けた。
月の陽炎――(了)