#2195/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 93/ 7/ 1 2:13 (200)
月の陽炎(9) 青木無常
★内容
「招んでいるの……? ……ちがう……でも、魅かれる……奥へ……」
「パパ、やめて……」
月華の独白に、かぶせるようにして弱々しく、景子が言った。
聞こえなかったようにもういちど、
「奥へ……」
と月華は小さくつぶやき、半開きになっていた朱唇がすうと閉じていった。
次にその唇が開いてなにかをつぶやこうと動きかけたとき、
「イカルスから通信です――」
雷鳴のように傍若無人に、ケオパーの報告は響きわたった。雰囲気に気づいて首
をすくめつつ、褐色の美女は口もとを抑える。
もどかしく取り戻された静寂はしかし、託宣をとり逃がしたことを明確にしただ
けだった。月華の口はまたかたく閉ざされ、景子にも変化は見られない。
大きな目をさらにいっぱいに見開きつつケオパーが全身で謝罪を現すのへ、安心
させるように真摯にうなずきながら王主任が報告のつづきを促した。
「救援隊が遺跡に」内緒話のようにささやき声で、ケオパーは身ぶりをまじえな
がら言った。「到着したそうです。ファンレディを発見……機密扉は開きっぱなし
になっている、と……」
王李光はもう一度うなずいてみせると、瞑目するふたりに視線を戻した。
静寂の底をときおり、イカルスからの通信を要約するケオパーのささやき声だけ
が流れるだけで、さらに長い時間が過ぎた。イカルスからの救援隊は人影を見いだ
せぬまま、遺跡の周囲をうろうろしているらしい。
「遺跡内部を探してください」もどかしげに通信機に向けて、ケオパーが何度も
くりかえしていた。無論、ささやき声で。「こちらのサイキックが、感知している
んです。外にはもういません」
そんなくりかえされる要請までが、まるで遠くでなっているBGMのようだった。
焦点はあくまで、月華と景子だ。
その焦点のひとりが、宣告した。
「……来るわ」
と。
何が? と思わず王主任が訊きかえすより早く、来た。
「通信機に異常が――」
ケオパーの報告の声は攪拌され擾乱する意識の彼方に埋もれ、すべての視界は混
沌に溶けて上下の別を喪った。
聴覚にもまた異常はおし寄せていた。お……と長く尾をひく重い轟音を底に秘め、
わぅんわぅんわぅんと遠く近く前後上下左右に、奇怪な反響が縦横無尽に荒れ狂う。
そしてさらに奇怪なことに、揺らめき翻弄される意識のさなかに、多くの者が明
確な声を耳にしていた。
「だれ……? レイ……コ……」
「パパ、戻ってきて……!」
重なるようにして響いてきた言葉は、ひとつは恍惚と、そしてもうひとつは悲痛
きわまりなく、耳にした者の胸を打ちすえていた。
さらに少数の者は、月華のヴィジョンを共有していた。否、この点はそれほど明
確ではない。共有した、ような気がしていた。
壁から浮かびあがり、踊り出る紋様は、文字のようにも見え、またそのひとつひ
とつがなにかの意志の結晶のようにも思えた。
八方を乱舞する青い光に溶けて舞い踊るその影群には、なにか意味が秘められて
いるように思った者もいた。
そして、そのさらに彼方に、淡い燐光でかたどられた人影。
玲子……朦朧と、意識がそうつぶやいていた。
8.夢
もどかしく手をさしのべる。
途端、吸いこまれるようにして四囲のなにもかもが、渦をまきながら壮烈な勢い
で後方へと流れはじめる。
逆まき、投げだされる感覚。
灰色の地表が、太陽の光を受けてまばゆく輝くのを見た。
瞬時に転回し、明滅する天空が視界をよぎる。
いない……! 焦慮の底に悲哀と諦めが、水底の藻草のように揺らめいた。
跳ぶ。奔る。流れる。いくつもの谷が、クレーターが、めまぐるしく吹き荒れ、
吹きぬけ、過ぎてゆく。いない……! どこにも、いない!
怒りにか、絶望にか、苛立ちにか、渦流に巻きこまれたように視界がまわる。風
に翻弄される枯れ葉のごとく、めまぐるしく、いつ果てるともしれず。
白光が視界を幾度もよぎっては消え去っていく。その彼方に、宝石が。
つぎつぎに様相を変える天球。昼、夜、昼、夜、昼、夜、昼、いつ果てるともし
れぬくりかえしの中で、悠久を瞬時に凝縮して星の輝きが灯り、消え、集まっては
離散する。
そして宝玉。渦を巻き、闇に隠れ、白く、赤く、黒く、一瞬の遅滞さえなく絶え
ず刻まれていく天上の細工師に色彩られた、青い珠。
見つけた! 歓喜が美も不安も恐怖もおし退けて叫びあげた。ちらりとかすめ過
ぎただけの淡い白を追って、天を裂き、閃く。
逃げ水のごとくひとの姿をした霧はふわり、ふわりととらえどころなく舞い踊り、
弾丸のようにがむしゃらに追いすがる意識を嘲弄するように先へ、先へ。
その周囲ですべては、まるで滝を落ちる飛沫のように加速しながら墜ちていく。
ふいに、誘うように追われるものは揺らめいて――
つかのま、光の霧はふわりと弧を描いて通りぬけ、それはそのまま光の奥に広が
る闇を貫いた。
つきぬけた先に、青い星があった。
渦を描く雲がめまぐるしく移動、というよりはまるで細切れの映像のように変化
をくりかえし、星自体もまた、狂おしく――ヒステリックに回転、その仮面をめま
ぐるしく変えていく。
めまいの感覚に眩惑される意識の、めくるめく万華鏡のひとかけらがふと、注目
をうながした。
閃光!
ああ……
喪失への悲哀と安堵とが、奇妙に背反したため息をつかせる。
ああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああ!
滅びの火が! いま、故地をうめつくしたのだ!
底なしの喪失感は、嫌悪と苦痛の記憶しかない石と砂の都に、それでも根が残さ
れていたことの証か。
嘆きの軌跡は海をこえて地上を経めぐり、さがしつづける。風になり、雲を裂き、
海を割り、山を貫いて。気怠く、そして凶猛に波濤を描く無数の意思が渦をまく都
市をかけ抜け――
あふれる緑。
無数の蝉の鳴声が、耳の奥まで暑熱で埋めつくす。
多量に水を含んだ大気が、肌の内から無数の水の粒を絞りだす。いつまでも、い
つまでも。
そして水の流れ。
川は小さな街をぬけてとうとうと流れ来たり、流れ去る。ナイルのように悠久に
ではなく、ただひっそりと、そしてしっとりと、都市に、地に、国に溶けこんで。
夕暮れの風が、ふと肌から熱を奪い過ぎていく。汗を吹きながら足早にかたわら
をすりぬけていくビジネスマンたち。そして河畔にたたずむ無数の恋人たち。
からころと、敷石を踏みながら遠ざかる下駄の音。
水のにおい。
草いきれ。
そして太陽のにおい。
あふれる命に思考はかすれ去り、おぼろな安らぎに、濡れた息をついた。
風がかわる。見上げる闇空に、銀盆。
そしてかたわらに佇む、幻のような美貌。
それが現実である証に、やわらかくしなやかな肌はしっとりと汗をかいていた。
抱きよせると、かすかな抵抗。
そして崩れ落ちるように、しなだれかかってくる。
唇を重ね、無骨に、愛しさのままに抱きしめる。
ため息のにおい。汗のにおい。乱れる髪の感触。ふりかかる息の心地よさ。
さくり、と枯れ葉を踏みしだき、地に伏した。幾度となく愛撫をくりかえし、我
を忘れてのめりこんでいった。いまひとつになれたと、確信していた。故郷を見つ
けたのだと。心まで溶けあえたのだと。
そして見知らぬ季節がやってくる。夏にはあれほど優しかった風が、四肢を震わ
せ、肉体から熱をむしり取っていく。
街を行き交う無数の車が不快な暖気を排ガスにのせて吹きだし、屋内はどこも胸
の底に嫌悪をもよおす塊を膨れあがらせる偽りの熱に充たされる。それでも冷気は
どこからかもぐりこみ、足の底からじわじわと這いのぼってくるようだ。
「月へいくことになったの」
夏には短かった髪が、背なかまでのびていた。一重の小さな目は、いまは自分を
見つめかえさず、舞い落ちる白い雪のうえを遊ぶ。頬の朱さももう、恋のときめき
ではなく来たるべき未来への期待と不安ゆえなのか。
「玲子」
さしのべる手から逃れるように、白い大地に足跡だけを残して女は後退る。見上
げる双の瞳が、かすかに笑みを含んでやわらかく輝く。だがもう、とどかない。
「私を、おいていくのか?」
寝物語に覚えた日本語は、まだたどたどしいままだった。
「わかってたはずよ。最初から」
笑みの名残りをとどめたまま、薄桃色の唇がささやく。
「情熱は消えなかったの。恋をしても。あたしは、ここに留まったままではいら
れない」
さく、さく、と雪を踏む音が、自分の立てたものであることさえ気づかなかった。
そして、よろめくように歩く自分にむけて、もう彼女はそっと手を添えてはくれ
なかった。
遠ざかる背なかがふいにふりかえり、もう届かない距離から手をさしのべる。
「留まれない。だから――待ってるわ」
そして、まるでチェシャ猫のように微笑みをおきざりにして、白い影は跳んだ。
「玲子!」
叫び、声を追って天へと飛翔した。
闇を貫き、天にかかっていつ果てるともしれず地表を眺め降ろしつづける、銀色
の荒野へと。
命にあふれた水と緑の大地を、なんのためらいもなくはるか彼方におきざりにし
て、死と静寂の果てしなく横たわる荒野へと、虚空をこえ、夜をこえ、光の矢と化
して跳んだ。
狂ったように灰色の大地へと降りそそぎ、いくつもの谷をこえ影をめぐり――
それは、青い宝石の光を浴びて、ひっそりと佇んでいた。
まるであの日のように。
玲子……。
恍惚とした呼びかけに、
「パパ!」
切り裂くように、声が追いすがった。
「パパ! いかないで!」
悲鳴にも似た甲高い呼びかけは、展開する光景を暴虐なまでにかき乱し、震わせ
た。
ためらいにも似た想念がゆらりとヴィジョンをゆらめかせ、光を、天を、そして
灰色の地表を、よろめきながら流していった。
光の霧は、おぼろに揺らめき、飛散した。
どこだ!
怒りを含んだ言葉は声にならず、火のように噴きだした意志は真空に吸われて消
えた。
きみはどこだ!
「ここよパパ!」
応える声にしばし、惚けたように意思を奪われ――戻る場所のない安息処を思い、
親愛と悲哀をこめてため息をついた。
そしてふたたび炎と化し、虚空に向けて呼びかける。
きみはどこだ……?
ため息のように問う意思へ、飛び立ち、降下する構造物が答えた。
月開発の最初期に打ちこまれた、簡易居住区を構成するためのユニットだった。
離着陸をくりかえすシャトル。無辺の荒野へと進発するムーンカー。灯火が灯り、
消え、施設はまるで成長する生き物のように少しずつ、大きくなっていく。
ちっぽけな構造物の内部で、いくたりもの人間たちが目まぐるしく蠢いていた。
食らい、維持し、調べ、眠り、不安とともに迫りくる闇と対峙し、怯えとともに
自分たちが目ざす悠久の闇へと視線を投げかける。ひとつひとつの、すべての行動
の意味がつまびらかに理解できながらなお、アリのように巣のなかを蠢くのを眺め
降ろしているかのごとく、遠い光景でもあった。
笑い、怒り、退屈、哀しみ、不安と倦怠、恐怖が、郷愁が、構造物から泡つぶの
ようにもれ出ては虚空に吸いこまれていった。
映画のように他人事の光景だが、その内部でたしかに、ひとが生きているのが、
俯瞰するそこから理解できた。
そしてすべてが、瞬時にして終わる。
エネルギー供給区で原子炉が熱く赤熱し、穴を穿った。冷たい虚無がそこから侵
入し、生きて動くものすべての内側にもぐりこんで抜けていく。
瞬間は緩慢に、生者を死者にかえていった。
叫喚はひきのべられて一瞬を永遠へと拡大し、衝撃は肉体を砕いて引き裂き、か
きまわし、汚物塊を粉砕してその細片ひとつひとつに灼熱の苦痛を刻みながら焼き
つくしていった。
玲子! 悲痛な呼びかけはしょせん高処からのはるかな声に過ぎず、届くはずも
なく闇に吸われて消えた。
無数の苦痛と哀しみのなかで、消えていく命はただそれだけのものでしかなかっ
た。別れた時とはうってかわって短く刈りこまれた黒髪も濡れた瞳も、その華奢な
肉体もまるで渦流に呑み込まれる木の葉のごとく散りしだき、翻弄されるあらゆる
ものにたち混じって風に散らされる霧のように、どれひとつ区別なく薄められ、そ
して消えていった。
ああ……と力なく、深い絶望をともなって意識がため息をついた。