AWC 月の陽炎(1)       青木無常


        
#2187/5495 長編
★タイトル (GVJ     )  93/ 7/ 1   1:23  (200)
月の陽炎(1)       青木無常
★内容


    1.シューベルトCB


 『ザ……イカルスキャンプよりシューベルト……ザ……ルトCB、聞こえるか?
こちらイカルス第三キャ……ザ……証番号を転送する。ベースキャンプからやっと
のことで許可をもらっ……ザ…ザザ…スキャンプ、シューベルトCB、返答を待っ
ている。…ザ…』
 デジタルトラッカで苦労して修正を加えながら、景子は通信技官はどこで油を売
っているのかと苦々しく舌をうった。たしか今の当直はクリシュナのはずだ。
 「失礼、イカルスキャンプ、こちらシューベルトCB」同調が完全になるまで待
って、景子は返信を送る。苦情はクリシュナ宛にしてもらえばいい。「今同調が完
了しました。ごめんなさいね、担当技官が見当たらないものだから、手間どってし
まったわ」
 『てことは、おれにはラッキーだったってことだな。クリシュナの怠慢に感謝だ。
で、マドモアゼル、あなたのお名前は?』
 どうやら苦情による怠慢防止効果はのぞめそうにないようだ。景子は苦笑しなが
ら答える。
 「竹野景子。物理学者よ。リニアモータートレインの敷設調査で半月ほど前にこ
こに赴任したの」
 『インシャラー! 例の地下交通ネットワーク計画だな。しかも担当者がこんな
美人とくればおれのツキもほんものだ。ファヘドと呼んでくれよ。で、イカルスに
はいつ来るんだい?』
 「顔は見えないはずよ」機関銃のようにまくしたてるムスリムに苦笑をまじえな
がら、景子は通信機にむかって呼びかける。「それに、今回の計画ではイカルスま
ではカバーしてないの。残念ね」あからさまなため息が返るのへ好意的な笑い声を
送る。「ところであなた、ファヘド・ムハンマド? パパ・ラシッドからいろいろ
聞いているわ」
 『またまた残念。おれはファヘド・ウエメンだ。へえ、プロフェッサーは、そっ
ちじゃパパ・ラシッドと呼ばれてるのか。なかなかイメージにぴったりだな。あり
ゃほんとにいい親父さんだ』
 「あたしもそう思うわ。ところで、用件はなに? こんな無駄話つづけてるよう
じゃ、それほど緊急ってわけでもなさそうだけど」
 『あー、いや』ファヘド・ウエメンはにわかにしどろもどろだ。『緊急じゃない
が、その、緊急でもあるんだ。あー、つまり、こっからそっちまでプライヴェート
な通信を送る許可なんざ滅多にもらえなくてね。それにビッグニュースもある。と
にかく、そのプロフェッサー…パパラシッドを呼んでもらえるかい? ああ、確認
しとくが、ラシッドと呼ばれているのはそちらではひとりだけかな? えーと、お
れのいってるのは、宇宙考古学者のプロフェッサー・ラシッドなんだけど』
 「わかっているわ、ファヘド。ここではパパ・ラシッドはひとりだけよ。すぐに
呼びます。大丈夫ですか?」
 『OK。だが急いでくれよ。タイムリミットはあと十六分なんだ』
 笑いをとどめたまま内線にきりかえ、ラシッド・ハーンにコールする。イカルス
キャンプからの通信、と伝えただけで、温厚かつ呑気でとおっているパパ・ラシッ
ドは「三十秒以内にいく」と鼻息あらく告げただけで通話を切った。コンパートメ
ントからジャンプしてきかねない勢いだ。
 現実には、三十七秒を要した。それでも、アクシデントで両足をうしなった七十
近い老人には最短記録にちがいはあるまい。月の低重力下でも半身のない不便さは
かわらない。
 「やあケイコ、ちょっとごめんよ」
 とやわらかくおしやる白髭に覆われた彫りの深い満面に、喜色がみちあふれてい
るのを景子は微笑ましく見まもる。
 「平安あれ」しわだらけの右手をひたいにあててパパがいう。
 『あんたにも平安を』
 「ファヘド、ひさしぶりじゃないか。どうしてもっと頻繁に連絡してくれないん
だい? ええ?」
 『悪いがおれのせいじゃないんだ、プロフェッサー、規則規則でなにかとうるさ
くてな。この通信もチャン主任をムリヤリときふせてやっと許可をもぎとったって
やつなんだ。恨むんなら』いったん、声を低め、『チャイニーの融通のきかなさと
イスラーム迫害主義を恨んでくれよ』
 思わず眉をひそめた景子は、ラシッドがすまなさそうな視線を向けているのに気
づいて無理に微笑をうかべてみせる。
 中華思想とイスラムの軋轢は今日にはじまったことではないが、それを言えば日
本人である景子も立場的には同じだ。ユダヤ教徒ならともかく、中国人がアラブを
とくに迫害しているわけでもない。
 『ところでプロフェッサー、ビッグニュースがあるんだ。いいかい? 聞いて驚
かないようにな』ふたたびもとどおりの軽薄な口調に戻り、ファヘドは言った。
『玄室の奥に今から探検隊が踏みこむんだ』
 パパ・ラシッドの顔色がにわかに曇っていくのを、景子は見逃さなかった。
 「音響探査は中止か? 少し性急すぎるような気がするんだが。大丈夫だろうな?」
 『チャン主任、どうも焦れてきたらしいな。音響探査もここじゃなかなかはかど
らないし、幸い玄室の奥壁には例の文字だか模様だかみたいなモンも刻まれちゃい
ない。なーに大丈夫だよパパ。今回はちょいと崩して入口近くだけパパッと見て終
わりってことらしいしな。修復だって簡単にできると皆いってるし』
 「それはそうかもしれんが……」
 言いかけてラシッドは後を濁す。気づかわしげな温顔を見つめながら、景子は歯
がゆさに唇をかみしめた。プロフェッサーラシッドがイカルス基地を追い出された
理由はたぶん、下半身をうしなったことよりもその慎重第一主義を主任の張丘仲に
嫌われていた点のほうが大きかったにちがいない。アラブ圏出身者にしては驚くほ
どの人のよさと押しの弱さもそれを手伝ったのだろう。
 (パパ、元気を出してよ)
 心中でそう呼びかけながら、老いた背中に手をかける。疲れた温和な横顔が景子
をふりかえり、弱々しく微笑んでみせた。
 『時間がないから手短にいくよ。今回の調査は例の網状洞窟の最初の分岐点まで
の予定だ。構成岩質のサンプルを任意に採取、各種センサーによる探査を記録し、
ほかに数種類の波長で写真を撮る。だいたいこんなところだったと思うよ』
 「そうかい、坊や。たぶん、心配するまでのことでもないんだろうね。それに調
査の結果には私もたいへん興味がある。できればくわしい情報をもう一度報せてく
れんか? むつかしいのはわかっているが……」
 『たしかにむつかしいが、なんとかなると思うよ。いつになるかはわからんが』
 「残念だなあ。わしの足さえ健在なら……。せめて調査の実況中継でもいいから
聞きたいところだよ」
 『悪いな、プロフェッサー。あと十分たらずでチャン主任のどなり声がふってく
る予定なんだよ。実況中継なんてとても無理なんだ』
 「ああ、わかってるよファヘド坊や。無理はいわんさ」
 「なら、無理を道理にかえてみてはいかがかな?」
 と声がかかったのは、二人の背後からだった。驚いてふりかえると、クリシュナ
の衿くびをつかんでひきずるように中央管制室へと歩を踏みいれてきたのは、シュ
ーベルト中央基地通信部主任、王李光だ。
 クリシュナをわきに立たせてスツールに腰をおろす。ウインクしながら肩をすく
めてみせる褐色の肌の通信技師へ、景子は軽い非難をこめておだやかな無視をきめ
こんだ。
 「そちらはイカルスキャンプか?」
 切れ味の鋭い威厳にみちた王主任の問いかけに、ファヘドは翻すように口調を改
める。
 『はっ、イカルス第三キャンプです。通信の私用使用許可は取得ずみであります。
認証番号は送信ずみですが、ご希望とあらば読みあげます。えーと、C11−33
579の……』
 「わかった。読みあげんでよろしい。張丘仲に直接交渉して、プライヴェートで
なく正式にそちらへコールさせてもらうことにする。その時は頼むぞ。君の姓名は?」
 『はっ、ファヘド・ウエメンであります』
 「よしわかった。たのむから認識番号などならべはじめないでくれよ。そんなこ
としてる間に遺跡の調査は終わっちまうからな。では後ほど頼む。以上、通信終わ
り」
 スイッチを一端オフに戻すと、王主任は褐色の肌の通信技官を席にすわらせ、イ
カルス基地へのコールを命じた。クリシュナは不平顔、というよりはとまどったよ
うな面つきで、それでも手際よくバンドをあわせながらイカルスを呼びだしはじめ
る。そんな姿を横目に見ながら、景子とパパ・ラシッドは小さく微笑みかわした。
 黒髪をオールバックになでつけた月通信ネットワーク部門の責任者である王李光
は、時になみならぬ政治的手腕を発揮することもできる頼りがいのあるボスとして、
多くのメンバーに慕われている。シューベルトに来て半月目の竹野景子もまた、パ
パラシッドとはべつの意味でこの人物には親しみと好意をよせていた。
 「よかったね、パパ」
 小声でささやくと、宇宙考古学のかつての権威は子どものように照れ笑いをうか
べた。
 「OK張、それではよろしく頼む。ああ、今度の同郷会はいつだったかな?」
 通信機のむこうから、仏頂面が飛び出してきそうな不機嫌な声が場所と時間を告
げるのを機に、交渉は王李光の勝利におわったようだ。主任はふりかえると、いた
ずら小僧のようにニヤリと笑ってみせた。
 「ありがとう、リーコワン」
 ラシッドが感謝をこめて言うのへ、王主任はアメリカ風にチッチッと指を左右に
ふりながら、
 「なに、君のためだけじゃないさ。遺跡に関してなにか知りたい、というのは私
にしてもご同様だからね」


    2.発動


 『やはり極小規模のマス・コンセントレーションが見られますね。ただし、この
程度なら敷設への影響はまったく考えられません』
 重力波検出器から顔をあげて、ホルストは音を区切るようなドイツ訛りの英語で
告げる。景子はしばらく考えていたが、やがて小さく肩をすくめた。
 『報告書には記載しますか?』
 「そうね……」
 と腕を組みかけ、以前ホルストに「日本人の沈黙は神秘的で意味がとりにくい」
と評されたことを思い出す。
 「いままでの重力異常も含めて、あとで一括して注記する形でいいと思うわ。そ
れにしてもわからないわね。極小とはいえ、これだけたくさんの質量集中部があち
こちにあるなんてね……」
 ため息とともに言葉を結びつつ、ふと地平線に向けて視線をあげた。
 青い星が音もなく、ひっそりとそこに浮かんでいる。
 しばしその姿に見入りつつ、つぶやくようにして口にした。
 「焦がれるように一途に、見つめつづけているのね……」
 『精度をあげれば、地球上でも似たようなものですがね』そんな景子の感傷めい
たつぶやきはまるで聞こえなかったように、ホルストはつづけた。『むしろ私はち
らばり方に疑問を感じます。表側の大規模なマスコンセントレーションだけだと気
づかなかったことですが、なにかパターンのようなものがあるように思えるんです
よ』
 「……というと?」
 問いに、めずらしく躊躇するような間をおいてから、ホルストは謎めいた答えを
返してよこす。
 『オカルトに興味あるわけじゃないんですがね……異星人の基地が月にあるとか
いう例の噂、あれを思い出しましてね』
 本気かどうかはかりかね、景子は凝視を投げかけた。地球光を反射するヘルメッ
トにさえぎられて、ベルリン産物理学者の表情はよくわからない。
 『なに、くだらない妄想です。時間がとれれば後でレクチャーしてさしあげます
よ』余計ごとに時間を割くことができるほど計画も月での生活も甘くはないことを、
自嘲するような口調だった。『ただね……地図を開いて重力異常のポイントをあて
はめているうちに、蜂の巣状の空洞でもあれば説明はつくと、ふと思ったんですよ。
実際のところどうかはわかりませんし、ましてそれが異星人の基地だなんて本気で
信じてるわけでもないんですがね』
 「遺跡という可能性は充分あるわね」興味深げに景子は、なかばつぶやくように
して言った。「だとすると、“来訪者”はかなり広範に月の地下を改造していたの
かもしれない……」
 『よしてください、チーフ』笑い声を含めつつ、『きっと月の生成過程でなんら
かの作用がはたらいてできた洞窟かなんかだと思いますよ、実際のところは。例の
遺跡だって、文明の痕跡かどうかなんて怪しいもんだと私は思ってますから。物理
法則というのは、時には驚くほど手のこんだいたずらを仕組み、われわれにロマン
を夢見させてくれますからね。現実を知ってしまえば、たいがいは単純で残酷なし
ろものですよ』
 「あら」とからかいの微笑が相手に見えるよう頭部のむきをかえ、「じゃあ医療
部の李月華は?」
 『ミス・リーは数少ない例外のひとつですよ。それに、今じゃまだ珍しくても、
いずれサイキック自体がわれわれの社会に日常的な形で浸透するでしょう。それよ
りも、それじゃあザザ、ザ、は注記あつかいでかまいザ……ザザ……』
 え、とききかえすよりはやく、通信機がガリガリと耳ざわりな悲鳴をあげて沈黙
した。
 宇宙服のヘルメット部に手をやる。ホルストも頭部をガンガンたたいているとこ
ろを見ると、景子の通信機だけがいかれたわけでもないらしい。
 「どうしちゃったのかな……」
 どうなるわけでもないとわかっていながら、とんとんとホルストにならって通信
機をたたき――
 ――歪んだ。
 歪んだ、としか表現できない感覚だった。
 目眩に身体をおよがせた。頭をおさえてうずくまるホルストの向こうで、地質調
査班の三人の姿がぐるりと180度回転したような気がした。
 白い地表が眼前に迫る。手をつこうとしたとき不必要に力をこめてすぎて、景子
の上体がバウンドした。それが幻惑を助長する。




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