#2188/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 93/ 7/ 1 1:32 (200)
月の陽炎(2) 青木無常
★内容
背中に軽い衝撃。倒れこんだらしい。異様な感覚はまだおさまらない。内臓から
身体がねじられているような感覚だ。苦痛はない。空間ごと雑巾のようにしぼりこ
まれているような気がする。
不意の失墜感。
あえぎながら首を左右にふる。顔をあげ、ホルストが自分と同じように地に伏し
ているのを見た。残る目眩を強いてふり払い、一瞬の酩酊感からどうやら回復した
らしいことを確認する。
「ホルスト」
試しに呼びかけてみた。
『今のはいったい……』
通信機もまた異状を脱したらしい。一時的な変調だったのだろう。――空間の?
疑問は棚あげだ。簡単に答えがわかるとも思えない。互いの身の安全を確認しあ
い、地質調査グループの三人とも合流した後、復調した通信機で基地に呼びかける。
「緊急通信。シューベルトCB、こちら重力調査班」
『ケイコ? いまこちらでは異変があったんだけど、なにもなかった? 大丈夫
なの?』
緊急回線からうてば響くようにケオパーの気づかわしげな声が返る。タイ、チェ
ンマイ出身の元苦学生は自己の業務に忠実で就業中は絶対に羽目をはずすことはな
い。もう少し肩の力をぬいたほうがいいのに、というのが景子の感想だったが、今
日ばかりはこの女性の勤勉さに感謝したい気持ちだった。
「ええ、こちらは大丈夫よ。じゃあそっちでも今の……目眩のような異常は感じ
られたのね。――中央制御室ではどうだったのかしら」
問うたとき、脳裏に瞬時、パパラシッドの顔が浮かぶ。イカルスからの通信に、
かじりつくようにして聞き入っていたのを母親のような倒錯した気分で後にして出
てきたきりだ。
『さあ、どうかしら…あとで様子を見にいくわ。シフトを終えてから。それより
も、あなたたちのほうは大丈夫なの? 今日は早めに調査を切り上げて帰ってきた
ほうがいいと思うんだけど』
「そうもいかないわね」言葉にため息がまじる。「スケジュールがおしてるのよ。
今日かたづけておかないと、明日はもっと強行軍になるわ。遠征も近いし、できる
ことは早いうちにかたづけておかなきゃ。たぶん、あなたのシフトが明けるよりは
早く帰れると思う。心配いらないわ」
『そう』と軽く納得し、『じゅうぶん気をつけるのよ。そっちは宇宙服一枚隔て
て完全に死の世界なんだから。ファンレディの調子も調べといたほうがいいわね。
OK?』
宇宙服と基地のユニット壁――この月の上ではどこにいようと、死への距離にさ
ほどのちがいはないわ――口にしても意味のない思いを胸に閉じこめたまま、景子
はOK、ありがとうと呼びかけて通信を切る。
それでも一段落ついた切りのいい時点で調査を切り上げ、ムーンカー《ファンレ
ディ》で予定より早めに帰路についたのは、なにかの予感がしていたからだろうか。
窓外に延々とつらなるシューベルト中央基地の構造物を背に、基地内へと歩を踏
み入れた景子を迎えたのは、先刻王主任からお目玉をくらったばかりなのに一向に
こりた様子のないクリシュナの褐色の笑顔だった。
「また主任に怒られるわよ」
軽い皮肉に、心外だとでもいいたげに首を左右にふりながら、
「いまはおれのシフトじゃないぜ、ケイコ。それより、中央制御室で一悶着あっ
た」
「……パパ・ラシッド?」
目をむく景子にクリシュナはくいと手を上にふる。
「医療室だ。クララとイエファがついてる」
予感に口にした名が見当ちがいであってくれたらよかったのに。
「なにがあったの?」
あわてて走りかけ、つまずいて倒れかけるのへ、褐色の手がのびて制止する。
「あわてちゃだめだ。テイクイト、イージー、ケイコ。クララの看たてじゃ、歳
のわりにちょいと無理しすぎただけらしい。大事ないってさ。イエファも心配する
ほどのことじゃないと言ってる」
「わかった、ありがとう」
きつめにクリシュナの手をふりほどくと先行して走るホルストを追って、今度は
マニュアルどおりの慎重な足どりで医療室に向かった。その背から声だけで追うよ
うに、クリシュナが呼びかける。
「パパ・ラシッドのためじゃないぜ!」
ゲートで出迎えていちばんに報せをもたらした理由を言っているのだろう。こん
なときに、と心中苦々しく思いながらもう一度ありがとう、と声だけ置き去りにし
て、医療室にかけこんだ。
「パパ! 大丈夫なの?」
叫び声を、ドクター・クララ・アルドーの癇の強そうな四十顔が、眉根をよせて
無言のまま咎めたてる。その背後でカウンセラーの李月華が静かな微笑を浮かべた。
あわてて小さく頭をさげる間も、ベッド上に横たわるパパラシッドの様子が気に
なってならなかった。
「寝てますよ、チーフ。安らかなもんです」
ベッドのかたわらでホルストが、微笑みながら肩をすくめてみせた。ほう、と息
をつき、それでも気ぜわしくベッドわきに歩みよって老人の寝顔を眺めおろす。
寝息は深く長く、保証どおり見た目は心配なさそうだった。
「身体的にはべつに不調は見られないようね」
李月華の言葉に、ドクター・アルドーが深くうなずく。だが、ふたりの医療部員
の眉間にはなおも懸念の縦皺が刻まれたままだ。
「なにかほかに……問題があるのですか?」
パパラシッドと二人のドクターを交互に見やりながら、おそるおそる景子が問う
と、
「精神的に、かなりまいっているようね」李月華がそう答えた。「地球時代から
蓄積してきたものが、少し強く表面に出てきているようだわ」
「探査なさったの?」
月華が静かにうなずくのへ、景子とホルストは深刻に顔を見あわせた。
二十代後半という若さで、シューベルトCBのような大所帯の基地のカウンセラ
ーを李月華がこなすことができるのは、その博学な心理学知識よりもむしろサイキ
ックとしての彼女の能力に負うところが大きい。20世紀後半から21世紀にかけ
て急激に増加が確認されているテレパス等の超常能力者の中でも、月華のそれはス
ペシャルクラスにランクされるポテンシャルを秘めている。幼少時代から思春期に
かけて争われた大戦に利用されずにすんだのは、山岳部の少数民族のなかに埋もれ
て気功研究の大家、北京大学の胡教授に見出されるまで本人でさえ、自分の異能に
気づかなかった事実に起因するのだろう。
「どんな問題があるんです? パパに」
安らかな寝顔に不安の翳を見出したような気がして、景子は月華に訊いた。
「複雑だわ。世紀末から今日までのさまざまな社会的問題。パパの経歴はご存じ
ですか? 厳格なムスリムの家系、カイロの陥落と亡命、ユダヤ教徒の影をおそれ
ながらの点々とした少年時代。これらが複雑な影として、パパの精神の基調を形成
しています。そして中心に、女性」
「女性?」
思わず訊き返す。パパラシッドは生涯独身だった。浮いた噂ひとつきいたことが
ない。もっとも、若いころのことなど想像の埒外ではあった。
「母のイメージが付与されているけれど」と月華は静かに語る。「おそらく、昔
恋をしたことのある女性の面影でしょうね。かなりはっきりしたヴィジョンとして
感知できます。背景もよく表層意識に浮かびあがってくる。たぶん、この女性とセ
ットになって記憶されているのね。場所はおそらく京都」
京都……と、ため息のように景子はくりかえした。それを耳にしたのか否か、月
華は目を閉じたままつけ加える。
「悲しい記憶です。……顔だちはちがうけど、面影はあなたに似ているようです
ね、ケイコ」
言葉に目を見開き、思わずパパ・ラシッドの寝顔を見おろしていた。
皺に埋もれた歳月は、深い眠りに沈黙したままだった。
このひとは、どんな恋をしてきたのだろう。
疑問のままに、想いを表層意識に浮かべる。月華が静かに自分を見守っているこ
とを意識したが、気にはならなかった。
どんな恋を、そしてどんな青春時代を、おくってきたのだろう。
わたしに似ているというそのひとを、どんな想いで見つめていたのだろう。それ
から何十年と経て、いま……わたしのことをどう思っているのか。
そしてわたしは。
わたしはこのひとのことをどう思っているのだろう。
自問に対する明確な答えは、見つからなかった。
3.千夜一夜
あふれる水と緑。生命の洪水。
驚愕だけが光景にみちていた。
苛烈な生活と人びとに囲まれていた稚い日々がオーバーラップする。枯れ草。貧
相なる灌木の陰での浅い眠り。日に五回の祈りは義務的でも、イマームはなお口う
るさく厳格だ。「ラーイラーハ=イッラッラーハ」長い詠唱はかわいた空に遠く消
え、そして……石の街。奪う人びと。家族。戒律。
砂漠と、そこにすむ人びとは少年の日の自分から言葉を奪い、生きる意味をはぎ
取った。
否。
言葉も意味も、砂漠には最初からなかったのかもしれない。人は奪うもの、言葉
は心を隠すもの。生きることはただ、渇きを癒し日ざしをさけ、眠り、目覚め、そ
して祈りをささげて枯れていく、くりかえしだけの、ただの過程だ。
閃光がハル・メギドを埋めつくしたと聞いたとき、異教徒の国へとむかう飛行機
のなかで幼ごころに、呪われた大地の消失を歓喜していたことを今ははっきりと思
いだせる。
砂漠は、故郷ではなかった。
コンクリートジャングルのなかで新しい人生に絶え間ない愚痴を流しつづける家
族たちとはちがい、やっと手に入れることのできた故郷での生活を満喫していた。
そしてさらにもうひとつの故郷で、あの人と出会う。
湿りけを帯びた風と、おだやかに微笑む古都の人びとのなかで、渇ききった肉体
は生の存続に疑問を投げかけつづけていた。そして精神は、この街を愛した。
この街と、玲子を。
黒髪は水でできているかのようにひび割れた己が手を潤し、白い肌は吸いつくよ
うにして脈うち、背を、腰を、頸を、そして乾いた唇を浸してくれた。
まとわりつくような湿気の暑熱から雪がアスファルトの上で幻のように溶けてい
くまで、まばたきのようにすばやく、濃密に時は過ぎた。
いまでも思い出す。言葉もなくふたり、そぞろ歩いた鴨川べりで見あげた月の眩
しさを。ものいわぬ黒瞳の眩しさを。
その冬、玲子は最初期の月開発チームに加わって京都と、そして自分とに背をむ
けて旅立っていった。フロンティアは厳密な健康審査を理由に狂おしい虚空への追
随から渇いた魂を弾きだす。玲子を追って月へ赴くこと、ただそれだけに急き立て
られて、近づく年齢制限に汲々としながらなにもかもを忘れて肉体をつくりあげて
いたある日、シュレーディンガーのユニットベースでの、歴史的な悲劇の報を耳に
した。
あふれる水と緑。
鴨川べりは、恋の狂熱にうかされた男女たちであふれ返っていた。
だが音もなくふりそそぐ淡い光が、ふたりだけをそこに焼きつけていた。
そしてその月さえもかすませる、美麗なる無垢の魂。
生命の洪水のなかで、娘はあのころのまま、今でも生きつづけている。記憶の海
は肉体が枯れ、ひび割れていくにつれ、美しく、豊穣に息づいていく。
液晶の掲示が基地標準時2324をさしているのを目にしたとき、パパラシッド
は自分がふたたび砂漠に帰ってきていることにおぼろげに気づいた。
生命を宿すことのない凍結した砂漠はラシッドにとって、ビッグアップル、京都
につぐ第三の故郷には、なってくれはしなかった。少なくとも、まだいまは。
かたわらに目をやる。舟をこぐ景子の寝顔が、夢に見ていた女の面影を瞬時、換
びおこした。
医療ユニットのデスクは無人だった。景子を起こすか起こすまいかでしばし悩み、
答えをつかめぬまま目を閉じてみた。あれだけの歳月を重ねてきて、いまだに迷い
つづけている。
だからかもしれない。砂漠を追われ、学園からこぼれ落ち、ふたつの故郷を逃げ
出すように後にして、そしてまたイカルスの遺跡からもはじき出された。崩れはじ
めた肉体はすでに重力のゆりかごに帰ることさえかなわず、いき場所も喪ったまま
このひとときの仮居で、許された隠遁をただやり過ごしている。
喪失した女の面影に誘われるようにして月へきた。もとより玲子が――玲子の魂
でさえが、自分を迎えてくれるなどとは思ってはいなかった。地上と同じように軋
轢とささやかな友愛が、生活と思いとを支えてもくれた。一人でいつづけたことへ
の孤独と後悔もまた、承知の上だった。満足ではない。不満だらけだ。その不満を
不満そのまま、ラシッドは受けいれてきた。
そして今も。
まだできることがあるはずだ。おそらくは果たされることのない焦慮と思いとを
含めて、ラシッドは静かに目を閉じていた。
「パパ……?」
ささやくような声音がもの思いをやわらかく散らせた。
どこか寝ぼけ眼で景子が、のぞきこんでいた。目だけでうなずいてみせると、安
心したようにうっすらと微笑む。
「……だいじょうぶ?」
三十にさしかかった女のその問いかけは、まるでものごころついたばかりの幼な
児のようにあけっぴろげな呼びかけだった。
ラシッドは身体を動かさないまま感覚だけで身裡をまさぐり、
「だいじょうぶなようだよ。すこしだるいかな」
かすれた声で告げる。
「よかった」
かすかなため息とともにつぶやき、景子はもういちど微笑んでみせた。
ラシッドに、そして自分自身に、見せるための微笑み。
玲子はこういう微笑みをみせることはなかったな、と、ふと思う。