AWC 『Angel & Geart Tale』(20) スティール


        
#2173/5495 長編
★タイトル (RJM     )  93/ 6/19   0:19  (157)
『Angel & Geart Tale』(20) スティール
★内容

           『闇の彼方に』 第一章


 大学を卒業した私は、相変わらず、無為な日々を、数年間、過ごした。このまま、
無駄な一生を送るはめになるのを恐れた私は、小説を書くことを思い立った。一念
発起して、ワープロを買い、私は、それで、小説を書き始めた。私は、創作するこ
とによって、また、昔、無くした何かを取り戻せるような気がした。事実、ワープ
ロのキーを叩いていると、次々と、新しいアイデアが浮かんできた。ワープロに向
かっているうちは、私の指は、止まることがなく、推敲を、まったく、しなくても、
いくらでも、小説を書けた。
 ワープロを買ってから、数ケ月の間に、私は、幸運にも、幾つかの小説を、文芸
紙の新人賞に応募することができた。しかし、その一方で、不幸は、私のもとに、
突然、何の前触れもなく、訪れ、そして、また、私の前に、立ちはだかったのだ。


 それは、ちょうど、冬が終わりかけた、まだ、肌寒い日のことだった。その晩、
私は、いつものように、小説を、ワープロで書いていた。ふいに、手元の電話が鳴っ
た。父からの電話だった。父は、いつもの、抜けた調子で、こう言った。
『いいか、重大なことを言うから、よく聞けよ』
 私は、いらいらしながら、話を、本題へと、せかした。しかし、父は、いつもよ
りも、ゆっくりした口調で、こう言った。
『いいか、何を言っても、びっくりするなよ。兄貴が、東京の会社の寮で、精神病
院に入れられそうなんだ』

 その言葉を聞いた私は、父の言葉を、最後まで、聞かず、電話を切り、すぐさま、
兄の元に、向かった。兄が、気が狂うとは、私には、信じられないことだった。そ
して、兄が、精神病院に入るの、なんとか、阻止してあげなければいけないと、私
は、必死だった。
 私が、兄のもとに、たどりついたのは、それから、数時間後の、真夜中を過ぎた
深夜のことだった。

 私は、兄の部屋に入った。とたんに、異臭が、私の鼻についた。死体か何かが、
腐っているような臭いだった。部屋は、とくに、何も変わったところのない、普通
の部屋で、オーディオや、テレビがあり、ハンガーには、服が、何着か、掛かって
いた。その部屋の、ちょうど中央の位置に、布団が敷かれていた。そこに、兄が寝
ていた。私は、自分の目を疑った。私は、夢を見ているのではないかと、思った。

 兄の体は、痩せ、そして、兄の腕は細っていた。ただ、腹だけは、なぜか、出て
いた。その姿は、アフリカの餓死寸前の子供か、弘前のお寺の掛け軸で見た、餓鬼
のようだった。
 兄の顔は、死んでいるような顔だった。肌はカサカサになり、目は落ち窪んでい
た。その肌は体の水分を、すべて、抜かれたような肌だった。髪からは、フケが出
て、顔には、ところどころ、吹き出物が出ていた。わが兄のことながら、その兄の、
醜悪な姿に、私は、ぞっとした。
 誰かが入って来たことに気付いた兄は、目を開いた。その兄の目を、私は、一生
忘れない。兄の目は、猜疑心に満ちて、そして、誰かが来たことにおびえていた。
実の弟の、この私を、そのような目で見たのだ。私は、あまりのことに、涙が出そ
うになりながら、兄に、私が来たことを告げた。しかし、兄には、そのことが、理
解できないようだった。兄は、私を、物凄い形相で、にらんだ。おびえているよう
な、疑っているような、ギョロリとした二つの眼。私は、身震いがした。

 私は、兄に、どういうふうに、なんと言っていいのか、わからなかった。その、
兄との、にらみあいは、何分も続いた。私は、兄に、弟が助けに来たということを、
知らせようとした。だが、兄には、なかなか、わからないようだった。私は、兄の
私を射すような、その視線に耐えられなくなり、兄の顔から、目をそらした。
 部屋があまりにも寒かったので、私は、ストーブを点けようと思った。ストーブ
のスイッチに触った、その瞬間、兄は、私にしがみついて、制止しようとした。私
は、兄に、寒いので、ストーブをつけるのだと、言った。しかし、兄は、泣きそう
な顔をして、ストーブにしがみつくようにして、ストーブを消そうとした。ちょう
ど、そのとき、兄貴の同僚らしい男が、部屋に入って来た。いまの物音を聞き付け、
部屋に入ってきたらしい。彼は、私に、兄貴が暖房をつけるのを嫌がっているよう
だと、言った。それを聞いて、私は、ストーブをつけるのをやめた。そうしたら、
兄は、また、倒れ込むように、布団の上に、横になった。兄は、眠り込みはしない
ようだが、横になって、そのまま、動かなくなった。
 その同僚らしい男に、どうして、兄がこのようなことになったのか、私は、尋ね
た。何週間か前から、少しずつ、おかしくなったのだと、彼は、私に言った。現実
におかしくなった兄を目の前にした私は、それが、どんなに認めたくないものであっ
ても、その事実を認めざるを得なかった。
 母と父が到着したのは、その何時間もあとだった。私は、同僚の男と、そして、
あとから駆けつけた会社の上司の人と、これからの善後策を、寮の廊下で、話し合っ
ていたところだった。
 父とともに、部屋に入った母は、部屋の異臭と、そして、兄の変わり果てた姿に
驚いた。部屋の中の異臭に耐えかねて、母は、部屋の窓を開けようとした。だが、
窓を開けたとたん、兄は、ケモノのような叫び声をあげて、立ち上がり、部屋の窓
を閉めた。そして、あの恐ろしい目で、窓をにらんだ。誰もいないのに、にらんだ
のだ。
 父と母と、私は、その変わり果てた姿に驚いた。そして、数時間後、結局、私た
ちは、兄を、精神病院に入れることにした。

 兄は、精神病院に入れられても、その様子は、たいして変わらなかった。体のほ
うは、回復しつつあったが、頭のほうは、いっこうに、よくならず、また、よくな
る気配もなかった。
 春が過ぎると、兄の体調だけは、順調に回復し始めた。そして、夏が来て、夏が
終わりかけたころ、とうとう、兄は、退院して、実家に戻ることになった。私は、
兄の退院と同時に、仕事を辞めて、実家に戻り、うちで営んでいる不動産屋を手伝
うことにした。こうして、私は、兄といっしょに、実家に戻ったのだった。

 それから、半年がたち、また、冬が来た。私の送った小説が、ある雑誌の新人賞
を取った。新人賞は取ったが、作家というものには、まだ、ほどとおく、私は、兄
のこともあり、実家を出るつもりはなかった。
 そのころの、兄の体調は、それほど、悪くはなかったが、常人とくらべると、ま
だまだ、劣っていた。服用している薬のせいかもしれないが、兄の体の動きは、か
なり、緩慢だった。
 猫を飼うとか、プールに連れていってあげたりしたほうが、兄のために、いいの
ではないかと、ことあるごとに、私は、家族に言っていた。しかし、母は、その度
に、私に、こう言った。
『そんなに、そうしたいのなら、お前の金でやればいい。自分の金を使って、お前
がそうしないのは、お前が本当にそうしたいと思っていないからだ』と。
 私は、母の、その言葉に、いつものごとく、殺意を覚えた。そして、母の、そう
いう態度が、兄を精神病にしたのだと、私は確信を深めたのだった。


 実家に戻ってから一年ほどたった、二月初旬の、ある寒い日の夕暮れ、仕事を終
えた私は、くつろぐために、茶の間に行った。茶の間にいたのは、兄だけだった。
兄は、いつものように、毛布をかけて、ソファーに、横になっていた。部屋が、あ
まりにも、寒かったので、私はストーブのスイッチを入れた。兄は、すぐさま、立
ち上がって、『暑い』と、一言だけ、つぶやくように言ってから、ストーブに歩み
寄って、ストーブを消した。こんなに、部屋が寒いのに、兄が暑いわけがなかった。
それは、兄の癖のような、いつもの行動だった。私は、笑って、兄をなだめながら、
もう一度、ストーブをつけた。
 そのとき、母が部屋に入って来た。母は、ストーブがついているのに、気付くと、
『あー、暑い、暑い』と、言いながら、ストーブを消した。
 私は、それを見て、ハッとした。そういえば、一年前も、兄がストーブをつける
のを、嫌がった。それは、私たちが子供のころから、寒い部屋にいて、ストーブを
つけたいのに、いつも、母に暖かいストーブを消されたからだ。そうだ、そうに違
いない。その、兄の行動にこそ、兄がおかしくなった原因が、隠されていたのだ。
それに気付かなかったとは、私としたことが、うかつだった。私も、寒いのに、ス
トーブを消されて、数え切れないほど、とても、嫌な思いをした。それから、兄は、
部屋の窓を開けるのも、嫌がった。それも、一酸化炭素を逃がそうとした私たちが、
窓を開けると、母に叱られ、よく、家の外に追い出されたからだった。兄が、おか
しくなったのは、やはり、すべて、母のせいだったのだ。兄は、冬にストーブにも
あたれず、一酸化炭素で、具合が悪くなっても、黙って耐えていた。暑い夏に、風
呂も入れず、母に、何をされても、口答えもせずに耐えていた。母の言うことに従っ
た、その、挙げ句の果てが、兄の発狂という哀れな末路だった。私は、いつも、母
に反抗していたから助かったのだ。
 いや、そうじゃない。私が、いつも、幸せに、背を向けたのも、おそらく、みん
な、母のせいだ。石原さんを裏切ったのも、そのせいだ。いつも、幸せの直前にな
ると、私は、それを拒んで、背を向けた。それは、おそらく、すべて、母のせいだっ
たのだ。いま、思い返してみれば、私は、今までの人生で、闘ってきたのは、すべ
て、母の幻影だった。私が、いままで、素直になれなかった行為は、じつは、すべ
て、母が原因だったのだ。
 私が、石原さんを裏切ったのも、そのせいだ。あんなに愛し合っていたのに、い
ま、彼女は、どこにいるのかということも、もう、わからない。


 私は、実家を出る決意をした。ただひとつ、兄のことだけが気掛かりだった。だ
が、兄は、もう、手遅れだということが、私にはわかっていた。私が、いくら、言っ
てきかせても、母は、兄のために、猫一匹、飼おうとしない。これでは、兄は、も
う、永遠に、助からないだろう。思えば、兄も、こんな母を持ったばかりに、こん
な目に遭って、かわいそうな人生を送るはめになったのだ。作家の卵の私には、精
神病の兄を連れていくことは、とてもじゃないが、不可能に近いことだった。兄は、
もう死んだのだ。精神的な死だ。兄だけではなく、この世には、精神的には、もう、
死んでしまった人間がいくらでもいるのだ。私には、もう、兄を救うことはできな
いのだ。兄は、もう、死んだのだから。
 私は、作家になるために、都会に旅立つことにした。私は、その日のうちに、荷
物をまとめ、都会へ旅立った。ポケットに、お守り代わりの写真を入っているのか
どうか、何度も、確かめながら。


 私の手記が、ここまで、進んだとき、列車が、ふいに、止まった。私は、コンパ
ートメントの窓から、外を見た。闇夜が、あまりにも暗くて、よく、見えなかった。
モスクワまでは、もうすぐのはずだ。何分か、待ったが、何も異変がなかった。も
う戦地に近いので、夜の移動は、やめたのだろうか。疲れていたので、私は、寝る
ことにした。寝る前に、私は、服のポケットに手を入れた。お守り代わりの擦り切
れた石原さんの写真は、ちゃんと、ポケットにあった。私は、安心して、眠りにつ
いた。




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