#2163/5495 長編
★タイトル (RJM ) 93/ 6/18 23:26 (150)
『Angel & Geart Tale』(10) スティール
★内容
『Angel & Geart Tale』 第二章
母は、物心ついたころから、母に『お前は、人間のクズだ』とか『お前は頭がお
かしい』とか『お前は世間に出ても、絶対にだめになる人間だ』とか、ノイローゼ
になるくらい、毎日、言われ続けた。私は、物心がついたころから、実際に、ノイ
ローゼだった。小学校に、入るころから、母に叱られ、夜、眠れなくなると、私は
台所に行った。台所で、流しの下に付いていた包丁差しから、自分の顔より大きい
包丁を取り出し、自分の喉に押し当てて、何度も、死のうとした。しかし、いくら、
力を入れても、私は死ぬことはできなかった。
年を重ねるにつれ、私の、自分自身に対する死への願望は、他人、それも、悪や
不正義と、私が思う人間に対する、憎しみや恨みへと、変化したようだった。まだ
子供だった私は、自分が生き残るために、世の中のすべての、不愉快なものを憎ん
だ。私はいつも何かと闘っていた。
父は、私が小学校に入ったころ、何も言わずに、私のもとから、去った。そして、
父は、それから、一度も私に連絡をくれず、五年間も家族のもとに帰って来なかっ
た。
姉は、母がお使いを頼むと、いつも拒絶した。姉は、他人と口をきくことが、で
きなかったのだ。姉は、二十歳になるまで、歯医者に行ったことはなかった。むり
に、歯医者に行かせようとすると、姉は、家の家具や柱にしがみついて、嫌がった。
歯医者だけではなく、お使いを頼んだときも柱にしがみついたときもあった。私は、
子供心にも、姉をわがままだと、思った。母は、そのうち、姉の教育に、サジを投
げ、兄と私だけを厳しく教育するようになった。
日曜日には、よく家を掃除した。私と兄はさんざん、掃除にこき使われたが、姉
は、自分の部屋に閉じこもったり、家の中をふらふらしたりして、いつまでも、掃
除を手伝うことはなかった。
私は、本や新聞を読み、その内容を、よく、母親に話した。母親は、そのたびに、
私に、こういう言葉を返した。『お前が、やったわけじゃないんだから、自慢げに
話すのは、やめろ』と。その母の言葉に、私の心はひどく傷ついた。私が小さいと
きには、私の話し相手は、兄だけだった。
兄は、成長するにつれて、少しずつ、言葉を失い、だんだんと、無口になっていっ
た。私は、きびしい母が、だんだんと、おかしくなっていく姉を、なぜ、ほうって
おいたのか、いつも疑問に思っていた。姉は精神異常ではなく、ただ単にずるいだ
けだった。ずるい人間が、得をするというのは、父が居たころからのわが家の伝統
だったようだ。
私は、正義を守りたかった。その正義が、私の独りよがりの基準による、正義だっ
たとしても、私はその正義を守りたかった。母は、いつも、私の正義の邪魔をした。
母は、しょせんは口だけの人間で、その口だけという点を除けば、悪人とまったく
変わらなかった。母は、私に『正しい事を言えば、人はついてくる』『学校やクラ
スで、人にリーダーとして認められるように』と、景気のいいことを、何千回何万
回でも、私に言った。だが、いざ、私が正義の行いをしようとしても、母はいつも、
私の邪魔をした。
クラスのいじめや、その他の問題を、私が解決しようとして、母に相談しても、
返事はいつもひとつだった。『うまく、ゆかないのは、お前に人望がないからだ』
と。それが、正義を口にした子供に投げつける言葉だろうか。私は、『クラスでい
じめがあって、かわいそうだ』と、母に何度も訴えた。母は、私にこう言った。『か
わいそうだと思うなら、お前が助けてやればいい。私は、そんなことなんか、知ら
ない』
母の周辺に関係のない、あらゆる問題に対する、母の、このような姿勢は、終生
変わることはなかった。私は困っても、母に、自分に関する問題を相談しなくなっ
ていった。それは、私たち兄弟も全員そうだった。相談しても、母は、必ず、相手
の味方をして、我々の味方をしなかったので、胸がむかつくような不愉快な思いを
するだけだった。
母は、教育と称して、朝から、晩まで、私たち兄弟に、ノイローゼになるくらい、
さんざん、いろいろなことを言った。が、それは、ただ単に、母のストレス解消の
手段であって、実際は、教育でもなんでもなかったのだ。親には、自分の意志で、
子供を産んだのなら、産んだ責任がある。子供を、コインロッカーに捨てたり、壁
にぶつけたりして、殺したりしなければ、どんなひどいことをしても、教育と称す
れば、何をしてもいいのだろうか。親が、自分の意志で、子供を産んでおきながら、
なぜ、実の子に『お前を育ててやった』というのか。なぜ、『捨て子を拾って、育
ててやった』のと、同じ恩を着せられねばならないのか。本当の、捨て子でも、そ
のようなことを言われないのではないだろうか。
それならば、私は問う、『なぜ、産んだのだろうか?』『育ててやった恩を着せる
くらいならば、なぜ、赤ん坊のうちに殺さなかったのだろうか?』
子供をコインロッカーに捨てたり、絞め殺した親は、世間から、鬼と言われ、犯
罪者と言われる。だが、優しいフリをした、偽善者の、恩着せがましい、知能犯の
子殺しの鬼は、どこでも、無数に存在するのだ。生きながらにして、長きにわたっ
て、何度も、何度も、子供を殺し続ける、鬼の親が、そこかしこにいる。それこそ
が、まさに、人類の発祥から、累々と続いてきた、鬼畜なのだ。恩を着せられるた
めにのみ、産まれてきた子供にとっての、地獄であり、恐怖であり、怪談なのだ。
なぜ、この野蛮で、残酷で、詐欺で、奴隷的な、この行為をだれも指摘せず、考え
ず、糾弾しようとしないのか。
そのあげく、人々が持ち出すのは、決まって、『忠』や、『孝』や、『仁』とい
う言葉である。『どうして、忠なのか? なんで、孝なのか? なんで、仁なのか
?』
決して、そんなことではない。断じて、そうではない。奴隷を雇って、そのよう
な美辞麗句を押し付けることは、いままでの歴史の中で、何度も行われて来た。昔
から、奴隷や遊女を、養子や養女にしてから、こき使うという手段が、よく用いら
れてきた。雇い主は、奴隷に苦役を課したり、折檻して半殺しにして、警察に捕まっ
ても、子供だからということで、彼らは罪には問われなかったのだ。その養母こそ
が、鬼畜そのものなのだ。また、それと同じように、多くの子供の、夢や希望、正
義への期待が、忠や孝という言葉のもとに、打ち砕かれている。
その出来事を、世間では、あたかも、厳しい現実や矛盾を含む社会が、子供の期
待を裏切り、子供の心を傷つけているかのように言われている。それが、子供の心
を鍛えるという者もいるが、それは、ナンセンスだ。東南アジアだけを例にとって
見ても、ベトナムや、カンボジア、タイの内戦をみても、それらの苦難から、聖人
君子が輩出しただろうか。日本の、太平洋戦争や、戦災孤児から、聖人君子が輩出
しただろうか。
教育の大義名分を掲げて、子供を虐待するのは、養子の奴隷制となんら変わりが
ない行為だ。子供に対しては、必要最低限の教育さえして、あとは、親は自分自身
の精進のことでも、考えればいいのだ。
だが、子供が苦労しているのは、実は、親のせいなのだ。正義や真実を、はっき
りと規定することはできなくても、ぼんやりと輪郭が、はっきりとしない形では、
だれの目にも共通に存在している。それを放置したあげくに、その責任を、子供に
なすりつけた者に、教育を口にする権利があるだろうか?
ただ、単に、栄達し、生きるだけなら、教育せずとも、放置しておいてもなんと
かなるだろう。人間としての徳や倫理を植え付けるのが、真の教育ではなかろうか
?
私も、母に、正義への希望を、打ち砕かれた。いま、考えてみると、母は、私た
ちの失敗や苦しみを、わざと助けず、あざ笑っていたように思う。これは、子供に
対する愛情がないばかりでなく、立派な犯罪であった。
母は、あらゆる場合にも、何もしようとしなかったわけではなかった。金という
ものが絡むと、話は違った。中学校に入った頃に、こんなことがあった。私には、
一緒に小学校を卒業し、同じ中学校に入った、仲の良い友達がいた。その友達が消
しゴムを買うときに、五十円くらい、貸したことがあった。五十円くらいのことだ
から、私も、友達も、なんとも思っていなかった。母に、この事を話したのが、間
違いだった。母は、毎日のように、中学一年の私に『五十円返してもらったかどう
か』と、詰問した。そのころの私は、まだ、ウソをついては、いけないという良心
を持っていたので、私は『返してくれと言うつもりはないし、返してもらう気もな
い』と、母に言った。母は、私の、その言葉に激昂し、『お前は、五十円くらいの
ことでも、返してくれと言えないのか』と、私は、なじった。母は、すぐ、その友
達の家に、電話して、友達の親を呼び出し、まるで、その友達が、私から、お金を
脅し取ったかのように、文句を言った。そして、次の日に、返さなかったら、学校
に乗り込んで、先生に相談すると、脅した。友達は、私のもとに、次の日、五十円
を返しに来た。お互いに、気まずくなり、もう二度と、友達ではなくなった。母は、
お金さえ、戻ってくれば、あとのことは、どうでもよかったのだ。母は、お金さえ、
取られなければ、子供が学校で、どんなひどい目に遭おうが、半殺しになろうが、
どうでもよいと思う人であった。私は、その友達の件で、抗議をしても。まったく
取り合わなかった。要するに、私が、友達を失おうが、どうなろうが、どうでもよ
かったのだ。
このままでは、私や兄も、いつかは、姉のようにエセではなく、本当に、おかし
くなるのではないかと、私は、いつも、恐れていた。だが、私には、それをとうと
う、最後まで、止めることができなかった。母を殺しても、それを阻止すべきだっ
たと、いまは、後悔している。
まだ、子供だった私は、狂った姉と、何も言わなくなっていく兄を横目にしなが
ら、たった一人で、生き続けた。子供なのに、夢はいつも、潰された。私が、母に、
自分の夢を言うと、母はいつも、私を叱った。『お前は、どうしようもない、頭の
おかしいカスなんだから、お前は社会に出ても、絶対にダメになる』と、泣き出す
まで、言われた。
いつしか、私は、他の人間よりも違ったパーソナリティーを持つようになった。
私は、子供の頃から、本を読み、いろいろと、何かを空想するようになった。い
まの幸せを掴むまで、私の人生には、どこか暗い影があった。これまでの、暗い影
を持つ、自分の人生を、書き留めることが、自分自身のためだと、信じている。人
の苦しみは、さまざまで、その強弱はないかもしれない。だが、私の過去は、私だ
けのもので、だれのものでもない。
なぜ、私が存在し、なぜ、私がいま、ここにいるのか? 私の、この悲しい思い
は、誰が受け止めてくれるのだろう。かつては、愛の存在と、そして、その有用性
を信じたこともあった。だが、いまは、もう、信じていない。それは、私の大学の
ときの恋愛から受けた苦痛によるものだった。私は、その苦痛のせいで、愛を信じ
るどころか、人間らしさを失った。いま、私が信じているのは、ポケットの中のお
守りだけだった。