#2150/5495 長編
★タイトル (RMC ) 93/ 6/17 19:54 (119)
泣かないでレディー・ライダー 15〈トラウト〉
★内容
◇
雲行きが怪しい。
女は、大地を疾走しながら空を見やっていた。
根をそがれた草の玉が地を這うように飛んでいる。
エルパソからサンアントニオ、ヒューストンを抜けバトンルージュへのインタ
ーステイト10。大西洋の風があくまで心地よいフロリダ・デイトナビーチに向
う道ではある。が、ここは人の存在をも拒否する荒野だ。女はそう思った。
その月面のような不毛の地にはゲンジどころか人の姿さえ見えない。
V2エボリューションの重低音が、寒々とした風の音と交じっている。
余分なものをいっさいそぎ落したその肢体が、鈍い陽光にぎらっと光った。
黒と鏡のような銀の怪物スーパーグライド、心臓部からは四本のエクゾースト
パイプがその筋力を誇るようにリアに向って張出している。
しばし屈強な男をも拒むマシンだ、
況して非力な女が乗るべきバイクではない。
しかし、それは何かに追いつめられ、崖の淵に立った女を除いての話しか。
女の胸の前にはインディアン・ブランケットをぐるぐる巻にした子供がいる。
太郎だ。
彼もまた、彼の心なりにダダの幻影を追っているのだ。
数十分も前から前方に見えていたヘッドライトが、ようやくナホとすれ違うま
でに近づいて来た。
ナホはスーパーグライドをとめ、そのバイクを待った。
すれ違いざまに男が挨拶をしてきた。
ハーレーに乗った男だ、しかしゲンジではない。
ナホは左にマシンを旋回させ、その男を追った。
併走した。
ナホがなにかを言った。
二台のバイクがとまった。
ナホが何かを見せた。
男が首を横に振った。
頷くと、ナホはまたマシンを東に旋回させた。
二台のバイクが西と東にみるみる離れていく。
頭上の雲は割れている。
が、風が湿ってきた。
遠く黒雲の下の大地に雨が落ちているのがわかる。
たとえ雨が降りだしたとしても、逃れる場所など何処にもみあたりはしない。
サイドミラーを見た。
見るだけ無駄、それは後方も同じだ。
ナホはガスの残量をチェックすると、更にアクセルを開け、時速一○○マイル
でインターステイト10のアスファルトをたぐり込んだ。
スピード感がない、不思議だ。
自分が静止しているかのような錯覚に陥る。
タイヤのバーストの黒い帯があちこちにみえる。
その擦過跡が道の外の砂の荒れ地に向っている、バイクであればそれは転倒を
意味する。
また速度を今までの八五マイルにスローダウンした。
しばらくすると、遠くにオレンジ色のサインボードが豆粒のように見えてきた。
ガスステーションか? モーテルか? いずれにせよそこに逃込もうとナホは
思った。太郎の口数が少なくなって来ていた。唇も渇いてささくれだっている。
そろそろ限界なのだろう。
「寒い? 太郎」
左手で彼のマフラーを首に押込める。着ぶくれで雛壇の人形のようだ。
ナホはその人形を更にベルトで自分に縛り付けている。転倒時には、自分の体
を捨ててでも、膝と腕とで太郎を胸の中にしまいこむつもりでいる。
「寒くないよ」
「そう・・・・よかった」
ナホがポンポンと太郎がかぶっているぶかぶかのヘルメットを叩いた。
「雨・・・・降りそうだよ」太郎が空を見上げた。
「あっちの雲ごらん、向うは降ってるわよ」
太郎が向うの黒雲を見た。
「ナホ・・・・ダダいないの?」
「いるよ、きっと」
彼女が太郎の頭の上に自分の顎をのせ、遠くをみつめた。
太郎がその頭を傾けてナホを見る。
「ダダいたら帰るの?一緒に」
「帰れるといいね、だけど帰れないかも知れない」
「どうして?」
「ダダに好きな人が出来たのかもしれないの」
「ナホが嫌いになったの?」
「わからない、だから聞きに行くの。太郎には逢いたいと思ってると思うよ、だ
からダダ探そうね」
「うん」
リュウとヨーの心配を振りきり、ナホはやってきてしまった。
彼女が飛行機でエルパソについた時には、ゲンジが蒸発したであろう日からだ
いぶ時を経過している。エルパソにつくやいなやナホはリュウとヨーが探し得な
かったゲンジの手がかりだけを探した。街中をクルマで走り回り、そしてついに
ゲンジのスーパー・グライドを見つけた。
デイヴィッドはゲンジが蒸発したいきさつも、行先も知らなかったが、彼女の
顔を見たとたんに「ゲンジのワイフか?」と尋ね、太郎の顔をまじまじと見た。
彼女はそれに頷き「バイクを買戻せないか?」と彼に尋ねた。
デイヴィッドは両手を開いて「どうやって日本まで持ってく?」と答えた。
あたり前の話しか、ナホはそれにまたがりエンジンをかけてみせた。彼は目を
見張って「グレイト」と言いながらもまだ信じていない様子だった。
再び彼女がそれを動かすと「オー マイ ガッド」を連発し、信じられないと
首を何度も横に振った。
そして「ゲンジはいいやつだった」を繰返すと「バイクはお嬢さんに進呈する。
が、ヘルメットは高いぞ」と彼女にウインクを返した。
ゲンジはこの人のアパートにしばらく住み、ここで働いていたという。
彼はこの人に救われたな、と彼女は悟った。
ナホはゲンジとルースについて知っている限りの事を彼から聞きだした。
彼も心配してルースのアパートを訪れたようだが、やはりいなかったという事
だ、ルース母娘の家財道具を彼はガレージの片隅に保管していた。
同棲状態、一緒の職場、エマという娘。恋愛関係は定かではないと答えてくれ
たものの、ゲンジが連絡をくれなかった事が、その事実を物語っていると思った。
しかし、決別の旅になったとしてもゲンジとは逢う。太郎もタダと逢わせる。
その事でゲンジは彼女の中で、いや太郎の中でも永遠に死ぬのだ、と思った。
それでおあいこ、貸し借りがなくなる、とまだその事に執着していた。
ゲンジの行く先などわかる訳もない。万分の一、ゲンジとナホが同じ事を思っ
ていたとすれば、それはデイトナだ、デイトナビーチだ。そこで二人、いや三人
は再会する。
ルースの残していった家財道具の中から、ナホは見覚えのあるレザーのフライ
トジャケットをみつけた、ゲンジのものだ。
それを着た。そしてインターステイト10にゲンジを追って来たのだ。
急にあたりが暗くなって来た、やはり雨だ。
ヘッドライトをいくらハイビームにしていても、深海の懐中電灯のようにそれ
は頼りない。
それより太郎だ、彼女は一度道路の端にバイクをとめ、レインギアをひきずり
出すと、ジャケットの上からその上下を着、大きめの上着の中に太郎をカンガル
ーのようにしまい込んだ。
「これで大丈夫ね」
太郎が「動けないヨー」と呻いた。
ナホが笑った。
「いくわよ!」
「出発っ!」太郎がかん高い声で叫んだ。
ナホは自分がゲンジの後ろで、そんな事をいつかいった覚えがある、と思った。
スタンドを蹴り上げ、ドーンとばかりにスーパーグライドを飛出させた。さす
がに出足は強烈の一言に尽きる、太郎の重みで自分の胸がおしつぶされそうだ。
「たとえゲンジがいなくても太郎がいる、いとおしい重みがある」と彼女は思っ
た。そう思うとすこしだけ元気が湧いてきた。