AWC 休日に街へでて (上)     κει


        
#2120/5495 長編
★タイトル (WJM     )  93/ 6/11  22:37  (118)
休日に街へでて (上)     κει
★内容


 休日。僕は一人で電車に乗っている。赤いシートに腰をおろし、空いているとなり
のシートに爪で線を引く。
電車が止まると扉が開き、一人の20代前半の女性が入ってきた。僕は無意識に線を
引いていた右手を膝の上に乗せる。彼女がそこに座る。
アナウンスと笛の後、扉がしまった。じょじょに加速してゆく。
僕の背には暖かい日差しが差し込んでいた。気分までよくなるような空で、春。首を
右にひねり、窓から流れる外をみていた。
太陽に顔をあげると、なんとも心地よい暖かさが顔を包み込む。それに目を細めなが
ら、降りてくる前髪を手でかきあげる。
ふと目に入ったさきほどの女性の横顔に何か感じた。いったいどんな感情なのか整理
する事も出来ぬまま心に入った。好意的なものである事だけは認識できた。
美人ではなかったが、薄い口紅や服装に清楚さに近いものを感じて、着飾らない美し
さだな、と思う事にした。
彼女は文庫本に目をおとしている。何を読んでいるのか興味がわいて、さりげなく注
意を向けたが、分からなかった。ただ何か難しい読み物に思えた。
それから終点まで彼女も下車しなかったから、僕はずっと隣を注意していた。長い髪
は注がれる春の陽にライトブラウンに変わっていた。もしかしたら、もともとかるく
染めているのかもしれない。
デニム生地のロングスカートからみえる白いふくらはぎと、薄い半袖の白いセーター
から見える腕とに、淫らな想像を始める自分に嫌悪を抱いた。文庫本のページをめく
る動作に、熱心な読書を感じた。電車の揺れにまかせて、肩と肩を少しだけ触れさせ
た。

20分ほどの時間が経過して、電車が終点に止まった。次々に人は降りてゆく。彼女
はまだ本を読んでいて、僕はゆっくりとした動作で立ち上がるふうにする。
彼女もやっと立ち上がり、本を鞄にしまう。


駅は高いところに位置していて、そこから下を見おろせば、真っ黒な丸い頭が、うご
めいていた。むじゃむじゃと。それぞれの世界を抱き抱えながら、そしてそれはそれ
ぞれで違うのに、こうやってみればみなただの小さな同じ黒い頭であると、ふと考え
がよぎった。
すると何かこのうごめきを眺めるのが、快感に変わってきてずいぶんと長い間ひたす
らみていた。蟻を想像した。もしも僕が大きな金の入った袋を落とせば、きっと誰も
走りよりそれにたかるだろうか。どこか悲しい気持ちでこう思った。
人の目がかろうじて、蟻でない人の尊厳を外見上からだけでも保っているかもしれぬ。
僕はサイフから十円玉を取り出して、下に落とした。チャリリンという音がして、近
くの人が上をあおぐ。
面白くて、僕は最後にもう一度落とし、その場を離れた。
僕も駅から降りると、小さな丸い頭になる。

僕はよく街にあてもなくでた。街に出れば、何かに会える。実際そうであった。
刺激があった。
エスカレーターを降りて、人通り激しい外に出ると、その前で大声をあげ歌っている
おじさんがいた。
グレーのスーツを来ている一見普通の中年男性であった。顔も気が狂っているという
感じは受けなかったが、とにかく尋常でないような声で演歌を叫んでいる。
腹に手を集めて、45度の角度でビルの間からみえる空を眺めているように思える。
僕は期待を裏切らない街に嬉しくなり、近くのベンチに腰をおろしていた。
おじさんの歌は、演歌から若者に流行のそれにかわった。都会の薄情な愛をうたう詞
と、その今のおじさんとはとてもアンバランスで、浮いている感じを覚えた。
道行く人たちは、あまり見ないように、関係しないように、通路をさりげなくおじさ
んからはずす。
僕はおじさんに話しかけたい衝動に襲われた。いったい何を考え、何でもって今の行
動をしているのか。
考えていると、僕と同じくらいの女性が近寄ってきていった。

「すいません、今お会いした方の健康と幸福を祈って、奉仕活動を行っているんです
けど……」

ここまで聞いて、僕はまた手かざしの宗教だなと心に呟いた。それで毎度の事ながら、
向こうが決まり文句であるように、こちらも決まり文句でこたえた。
「いえ、結構です」
僕は笑いながらいう。
彼女は、まだ離れない。
座っている僕は、突然立ち上がりどこかへ行くのも不自然で相手に対して失礼に思え
たから、そのまま彼女の目をみている。
大きな目で、そらす事無く向こうも僕をみるので、僕も半ば意地みたいになって、見
つめていた。
「1分だけでいいんですよ。ほんとうに」
暇だったのもあるから、僕は彼女に尋ねた。
「よく駅前にいるでしょう。俺、ずっと不思議だったんだけどさ、それやるとどうな
るんですか?」
「人間の体の大部分は血でしめられていますよね。その血が、これによって綺麗にな
る事は科学的にも実証されているんですよ。血が綺麗になると、健康になり心にもい
いんです」
「……」
僕は、僕の事でなく、それを行うと行った側に対してどうなるのかと、尋ねたつもり
だった。
あまりにも熱心に、駅前で人に声をかけているのに、不思議を感じていたのだ。
でも、再度尋ね直そうとまで思わなかった。
彼女は続けた。
「これを取り入れている病院もあるんですよ」

その後、彼女はどこどこの大学の教授もこれを科学的に実証して勧めているだとかい
う話をした。
「でも、どうしてそんな事が可能なの?」
「それは、私の力ではないからです。もっと上の、観音様の力だからです」
彼女はにこにこしながら、僕にそういう。
僕は笑いを目に含ませて、唇をとんがらせ、ほとんど真剣に聞いていなかったのに、
彼女はなおも熱心に語る。「1分だけお時間いただけませんか」
何事も経験だと考えもしたが、なぜかしら僕は執拗にことわった。
べつにこの話を軽薄に聞いていたわけでもない。
たぶん春の暖かさと、まだ大声をあげて歌うおじさんと、彼女の熱心な態度に、沸き
上がる自信を感じていたからだ。
誰に頼るでもなし、僕は自分を保てるし、道を歩ける。自分の力だけを頼りたい。

彼女はとうとう諦めて、話をそらした。「デートの待ち合わせですか?」
付き合っていた子とは半年ほどまえに別れていて、今はそんな子はいなかった。でも
僕は嘘をついた。
「そう。ずいぶんと俺、時間に遅れたから帰えっちゃったのかな。それとも彼女がさ
らに遅れてきてるか、どっちかだわ」
彼女は笑いながら「来るといいですね」と言って、僕を離れた。みていると、また通
行人に声をかけている。

僕はさっきの彼女の前で、あまり長い間ここに居座っているのも嫌だったので、立ち
上がった。
ここで、もうしばらく人を見ていたかったが、どこか違うところを探そう。
おじさんの歌声は心持ち渇れてきていたが、豊かな声量であった。
ただ時折密かに笑う人がいるぐらいで、誰からも相手にされず結果的に孤立されたス
ーペースの中だった。
なお歌い続けるおじさんは、けなげで親しみを感じた。警察がおじさんの方に歩いて
いきていた。
しかし警察はおじさんの横で、少し歩くスピードを落としただけで、結局おじさんに
は何も話しかけなかった。





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