AWC  老いを見つめる(1)      村風子


        
#2111/5495 長編
★タイトル (KGJ     )  93/ 5/28  16: 8  (186)
 老いを見つめる(1)      村風子
★内容

       一

 狭い急坂道にかかつて、エンジンが弾けんばかりの音を張り上げた。幸恵は耕耘機の
重いハンドルにしがみついて歯を食いしばった。山側から楢や松の枝が道の上に張り出
し、谷側の楢や松も陽を遮って、昼でも鬱蒼とした坂道を登りつめると、急に開けて、
其処に畑が広がる。
 集落は此の谷側の沢、柳川沿いに開けた平地に、田圃と混在して家々が見える。 前
方に聳える八ケ岳連山の峰々は、まだ白いが、裾野の畑は、枯野に見えても土は黒黒み
、所々緑を帯びて息吹ている。野を渡る早朝の風はまだ冷たい。
 此の坂道を登り降りして歳を重ねた幸恵の、土焼けした顔に、深い皺が刻まれて、頭
にも白髪が目だつていた。幸恵が嫁いで来て間もない頃は、耕耘機は農業機械化の先端
であつたが、近ごろでは、四輪駆動の軽トラックで運搬をして、耕すのはトラツクター
に変わつた。それを物語るかに、幸恵の耕耘機は、塗装が禿げて赤錆が目に付く。
 夫に先立たれた今、幸恵は此の古い耕耘機に頼るしかない。二人の倅は街の工場に勤
めて、百姓を手伝わない。夫と二人でトラツクターを入れようと、花卉や大根を出荷し
た貯えも、夫の患いで使い果した今は、金もなければ、それを運転してくれる夫もいな
い。
 同じ屋根の下で暮らしている二人の倅も、いずれは、結婚して家を出ていく。こんな
煤けた古い百姓家には住めないと、倅達は言うが、幸恵にとつては夫と暮らした垢の染
み込んでいる此の古屋が、隙間風が入ろうが煤けていようがいちばん心の休まる所であ
る。改築など考えられない。変えたく無いではなく、今の形を守りたいのである。
 倅達も口にだして勝手なことを言っても、土地を買って家を建てる、そんなゆとりの
あろう筈はない。いずれは、近くの田圃をつぶして、其処に小さな家を建てて、街の工
場へ通うと思う。耕地は減つてもよい、夫や此の家の先祖に申し訳ないが、百姓は、「
わし、一代」。残った耕地は、二人の倅がどうにかするだろう。動ける間は働いて食い
、倒れたら二人の倅が片付けてくれる、と、信じている。
 畑に着いた幸恵は、耕耘機を片隅へ乗り入れてトレーラ部の取り外しにかかった。最
近、取り外しがいやに重く感じずる。ロータリーに交換して、畑に石灰を播いて、深耕
に取り掛かった。花卉栽培には土作りが大切である、土壌の酸性化を防いで、有機質の
堆肥を充分に入れなければならないが、深耕はトラツクターにはかなわない。 軽快な
エンジンの音が近寄つて来る。見ると、勝夫のトラツクターである。幸恵は手を休めて
、迫ってくるトラツクターをじつと見守った。夫と小学校が同級で、親しく行き来して
いた間柄であったが、夫の死後、足か遠退いた。それが、三日前の冷たい雨降りの日の
夕方に、急に尋ねて来た。土地改良事業の「ほ場整備」に協力してくれと言って、一通
りの説明をしてくれたが、わからない事が多く、返事に窮した。
 不整形な狭い耕地や、侵入路も無くあちこちに分散している耕地をまとめて、道路に
面した耕作しやすい広さに造りなおす。それは賛成であるが、ただで改良事業をしてく
れる訳ではない。工事費の十二パーセントを負担するだけで出来る、良い条件だと、勧
められても、いま不便を感じていないのに、いくら少しのお金でも、お金を出すなんて
、そんな余裕は考えられない。
 幸恵の前まで来ると、勝夫は農道の真ん中でエンジンを止めて、辺りを見回し、車の
来ないのを確かめてから、トラツクターから飛び降り、幸恵に近ずきながら声をかけた
。 「ヤアー お早よう、精が出るなあ。ところで、こないだの話、どうかなあー 」

「お早よう御座います、そうだねえ?こんな耕耘機でする百姓じやあ、今でもそう不便
じやあないし、お金もないしね」
「ああ、金のことなら心配ないよ、国で貸してくれるから、」
「でも、ねえ・・」
 幸恵は口篭もつた。勝夫は、畳み掛ける風に続けた。
「それに、この芝原もきれいに均して畑にしてしまうよ、百坪以上もあるだろう」
「ええ、でも、お金が掛かるでしょう」
「そりやあ、只って訳にゃあゆかねえよ」
「でしょう。だったら、今でさえ、手張っているんだもの、畑はいらねえ」
 幸恵は、何れ近いうちに耕作面積を狭めなければならない日が来ることを考えていた
。倅二人は、まず百姓はしないだろう、が、しかし長男の安良は此の競争の激しい世の
中を生き抜ける器ではない、親の欲目で見ても少し足りないと思うほどに人が善い。下
積の暮らしをするであろう、そのためにも土地は残しておいてやりたい。
 勝夫は、急に説得の方向をかえた。
「しかし、幸恵さ、これは人のことも考えなくちゃあ、自分だけ良ければ、それで良い
、と、言うものじゃあねえ。幸恵さんの畑は道端でも、此の奥の畑を持つている人達は
軽四輪も入れられないし、此の道だって、トラツクター一台で、一杯の幅、これじゃあ
農業の機械化も、近代化も出来ねえ。それに、畑の真ん中に原野や松の木があったんじ
ゃあ、邪魔だけだからなあ。まあ、今日明日とは言わないから、よく考えておいてくれ
」
 勝夫は半ば言い捨てるふうにいって幸恵に背を向けた。
 困った時には、夫の親友であった勝夫に相談すれば良いと考えていたが、それも駄目
になった。長男の安良は三十一歳、普通なら相談は安良にして、安良の判断で処理すれ
ば良いのだが、暖簾を押すようで、相談にならない。
 トラツクターのエンジンの音が遠ざかつて行く。
 幸恵は、耕耘機から離れて、芝原の中にある一本の松の根方へ近ずいた。この松は幸
恵が嫁いで来た時と大きさがあまり変わりない。馬繋ぎ場と呼んで、この松の枝に馬を
繋いで休ませた、馬は辺りの草を食べながら時々前足で土を掘り首を振って嘶いた。そ
れは、耕耘機もない、幸恵が嫁いできた当時の光景で、ついこのあいだのことに思える
。松は、丈は低くても、年数を経ている枝振りで、幹にも枝にも瘤が、あちこちに見え
る。早くに、伸びを止めて馬繋ぎに都合よい形に育てたのだ。それは、爺さまか、祖父
爺さまか、昔の人の考えが目に浮かび、感心させられる。今では、不要なばかりか、邪
魔扱いされるこの草原と松。馬や牛などの畜力に頼つて暮らしをたてていた当時の百姓
にとつては、無くてはならない場所であった。此の小高い草原を巻いて道は少し下って
いる、その道端に清水が湧いていた。
 古くは、此の道は古田山道と呼ばれた古道で、八ケ岳の山麓へ向かってる。
八ケ岳の山麓に、入会権を許された、此の地方の百姓が薪取や草刈りに、馬と共に行き
来した道で、その休み場所でもあった。入会権を許されていたのは、付近の村の先祖ば
かりではなく、まだ一里も里へ下った矢ケ崎村辺りまでの広い範囲であった。その頃の
百姓は素足に草鞋履き、延び放題の汚れた髪の毛を無造作に後で縛り、擦り切れて、つ
ぎのあたつた着物を尻はしょりして、馬を牽いて、この道を行き来していた、彼らの悩
みは、心配は、何であったろう、妻もいれば子供もあつて、現在の私達に続いている。
馬持ちの百姓はまだ裕福の部類かも、そんな気がする。
 その百姓達よりも更に古く此の地で生活していた人達がいた、此の付近の土の下に生
活したその跡が埋まつている。
 それを物語るのは、この馬繋ぎ場に接した幸恵の畑から、土器の破片や矢じりが出て
くる、これらを造り、使って、此の土地で暮らしていた、古代人の家族はどんな暮らし
方をして何を考え、何を話合つて居たであろうか。
 此の地は、累々と人から人で積み重ねられて、息吹ている。
 幸恵は、此の畑に郷愁があった。老いが見えて、相談相手のない、一人暮らしは、た
まらなく淋しい、そな時は此の畑に来る。周囲に人影はなくても、此の畑は淋しくない
。
 松に背をもたせ掛け、腰をおろし両足を投げ出して休む。
 百姓が今のままで良いとは思っていない。去年の秋、蔬莱組合の研修バス旅行に参加
して、千曲川の源流である甲武信ケ岳や金峰山を望む高原川上村を尋ねた。隔絶山村と
呼ばれた貧しい寒村に、県営農地開発事業が進められて、区画整理された道付きの広大
な野菜畑が続き、村民の英知と熱意で高原野菜の大生産地に生まれ変わって、大型のト
ラツクターが、澄んだ空気の中でうなつていた。その時、これからの百姓の進む道を教
えられた、そんな気がして居たのであるが、家に帰って、田畑の作業に追われているう
ちに元の自分に戻ってしまった。後継ぎの無い、老いの一人百姓は、どうしても消極的
になる。
 夫は農作業の合間に、この松の根方に腰をおろして体を休めながら、幾度と無く繰り
返し繰り返し幸恵に話して聞かせると言うよりも、自分の夢を実現するその日を楽しみ
に、目を光らせて語った。
「子供に金が掛からなくなって、トラツクターを入れると、少し余裕がでる。そしたら
、此の畑を掘るんだ。この土の下には、遺跡が眠てる。俺は宮坂先生に教わって、小学
校の時に遺跡掘りを手伝た、そのとき土器の破片が出る、この畑の話をしたら先生は此
処まで来て、鉄棒をあちこち差し込んで、丁寧に調べてから、住居跡がある、何時か一
緒に掘ろう、と、約束した。先生は死んだけど、俺は約束どおり掘る」
 夫が子供の頃からずっと大事に抱き続けてきた夢、大事に残しておいた楽しみがこの
畑の土のしたに眠つている。日の目を見せてくれる主が亡くなった今は、また夫と同じ
様な人、同じ様な考えや気持ちで掘ってくれる人が現われるまでこのままにしておきた
い。農業基盤整備では、遺跡は総て発掘調査して工事を進めることになってはいるもの
の、処理的に心の無い発掘はしてほしくないと思う。

       二

 安良が、体の調子が思わしくないと言って、会社を休み。部屋に篭もってぼんやりし
ていたり、テレビを見ているかと思えばテレビの音の中で横になって天井に視線を向け
ていたり、外に出るでもなく、医者に行けと言っても行かずに、幸恵が作って揃えた食
事を幸恵の留守中に食べる。そな日々を繰り返しはじめて早くも半年が過ぎよおとして
いた。会社で何があったのか、想像もつかない。聞き出そうと、話し掛けても安良は話
に乗ってこない。会社や会社の仲間からも別に何の連絡もない。
 幸恵は苛立って口走る。
「本当に体の調子が悪いの? だつたら、お医者さん見てもらったら?」
「うん、わかってる」
「どうなの?」
「いいよ・・・」
「よくないわよ、何時までこんなことしている心算り?」
「うるさいなあ!」
「何を言てるの? 勤めるなら勤めるめる、勤めがいやなら百姓しな!」
「うるさいってば!あっちへ行っていろ!」
 何時もこの言葉に打ち切られて、安良の心の中を覗くことが出来ない。何時からこん
な壁ができたのか、目の前に安良がいる、それなのに厚い透明な壁に遮られて近寄れな
い。近寄ろうとすれば、その厚い透明な壁に弾かれる。
 学業の成績は悪かったが、優しさと人柄で仲間からいじめられることも、仲間外しに
されることもなかったし、親に反抗することもなかった。その安良が、高校を卒業して
就職した自動車修理工場を二年半程でやめたあと、職場を点々とし始めて、遂に勤めに
も出ずに家に篭もってごろごろしている様になった。
 安良の考えていることが、わからない。自分の生き方を考えている、そんな真剣な様
子など、影ほども見えない。何時までも今の生活が続けられる、そんな錯覚でもしてい
るような、眼差しである。
 幸恵は、自分の体力の衰えを感じ、夫に先立たれたこととあわせて、残された寿命を
どう生きよぅかと、それが頭を離れるときが無い。どう生きようかといっても、今の続
きの百姓を続ける以外に無い、それでも、どう生きるべきか思い悩んでいるのに安良に
は腹が立つ、若いくせに、なお腹が立つ。
 ほ場整備について、迷いながら、相談も出来ずに一ケ月二ケ月と、まごまごしている
間に周囲から固められて、いまさらいやと反対も出来ない状態に追い込まれてしまった
。今度、勝夫がきたら、首を縦に振らざるを得ないと思いながら、出荷用の大根を庭先
で洗っているところへ、久しぶりに勝夫が尋ねてきた。
「今日もまた暑くなりそうじゃあないか、 おお、良い大根だ」
「え、まぁ、そんなんでもないけど、一把、七、八百円でわねえ」
「そうさ、七、八百円じやあ手間代が出ない。近頃ろ、北海道物がでまわっているから
なあ。こないだは、千七、八百円したって言ってたが」
「ええ、でも家あたりは、そんな時には、大根が小さくて出荷出来なんだ」
「そりゃあお互い様さ、品薄だから値が上がったんだもの、俺も出せなんだ」
 勝夫は、大根を洗う幸恵の手元を覗き込んで。
「ほう、洗うところ上手に作ってあるじゃあないか」
「駄目だ、女手では」
 この洗い場は、長男の安良に言ってもはかどらないので次男の信安に言い付けてポン
プを買って来てもらい、庭先の用水せぎから水をポンプアップして信安に作らせたもの
である。
 勝夫は急に事務的な口調になった。
「ところで、ほ場整備だが、いよいよ実地測量の段取りになった、で、二十六日の日曜
日に皆に出てもらって、境界をお互いに確認して棒を立ててもらいたい。その棒は赤い
テープを頭に巻いて公民館に用意しておくから、当日の朝は、それぞれ其れを持って現
場へ行ってもらいたい」
 幸恵は返事に窮して、大根を洗う手をとめた。勝夫は、幸恵の返事を待たずに押さえ
こむように言った。
「いいね、じやあ頼んだぜ」 くるりと背を向けて歩みだした。
 幸恵は、歯を食い縛って大根を洗う手を早めた。
 ほ場整備の良いことなど分かっている。一ヶ所に集めて形を直し広くして、道付きに
する、そこ迄は有り難い事だが、いくら工事費の十何パーセントの負担と言われても、
畑に一反歩十四五万の金を掛けてまでする意味が無い。倅の何れかが百姓をしてくれる
なら、無い金を借金して工面するのもいとわないが、である。他にも幸恵と同じ考えの
者は幾人もいるが、其れを公然と言えば村の非協力者にされる。夫に先立たれ、倅にも
頼れそうも無く、その上に、そんな事になれば、村で住み難くなる。どうせ倅達が百姓
をしないのなら、畑や田圃の少しくらい減らしても良いと腹を決めて、大勢に押し流さ
れてもと、思い悩みながら、まだ腹が決まらないのである。
                      」つづく」





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