AWC まるまる(5)           クリスチーネ郷田


        
#2110/5495 長編
★タイトル (MEH     )  93/ 5/23  10:26  ( 66)
まるまる(5)           クリスチーネ郷田
★内容
芸州藩士、本多錦四郎。嘉永3年12月2日誕生、大正10年5月26日死去。洋式
兵学の必要を感じた芸州広島藩は、英国からブラックとスモールと言う兄弟を雇って、
その生徒に3人の青年藩士を選抜した。その内の一人が本多錦四郎である。英語と洋
式調練を学ぶうちに、ちょっとしたいたずら描きの絵を彼らに認められ、絵画の必要
性を吹き込まれる。

人生ってのはこんなものなのかも知れない。ちょっとしたきっかけが、人生の転機と
なるのですな。野村文夫との出会い、これもまた運命の様なものを感じる。帰国した
野村は、藩の「洋学教授職」となっていた。その野村の元で本多は英語を習っている。

あれこれと迷った挙げ句、ついに本多は洋画家になる事を決意し、名をなすに至った
のである。そんな才能のカタマリのような本多錦四郎であるが、性格は「只謹直無比
の人」(長沼守敬)だったと言う。天才は控え目なものらしい。

様々な才能が団団社に集まって来て、時代を諷刺し始めた。団団珍聞は幸い売上も好
評、以後長く継続することになる。


高松、明治11年。毒のあるその記事内容に完全に毒され、興奮しながら読んでいた
12歳の塾生が一人、高松栄義塾にいた。塾生の間では「団団珍聞」「驥尾団子」を
読みまわすことが一種のブームとなっていた。

「ふむふむ!素晴らしい。素晴らしいよ!!」
「やはりそう思うだろ、亀四郎。こんなにスゴイのは見た事がないよ」
「まったく。面白い、面白すぎる。こんなのって見たことないな!」

「そうだなあ、面白いよなあ」
「これ、ちょっと貸してくれないか?じっくり読みたいんだ」
「そりゃ別に構わないけどな。汚すなよ」
「うん、大事に読ませてもらうよ」

宮武亀四郎、のちの宮武外骨はこうして「団団珍聞」に出会い、その世界にのめりこ
んで行った。

「……ねえ卯八さん、こんな仕事が世の中にはあるんだねえ。学問というのはこうい
うものを言うのかな」友人である竹内卯八は答えた。

「さあね。ただ、面白いものには面白いなりの理由がある。それを探ってみてもいい
んじゃないか」「いい。実にいいもんだ。これは俺の歩む道だ。」

「ハハハ、よくわからねえ事を言うなあ亀四郎は!こんな酔狂な道を歩むのかい」

「ああ、そうだよ。」

俺はやるぜ。いつかこんな雑誌を発行する。亀四郎はそう思った。世の中でまかり通っ
ている不正を悪いと言って、何が悪い?己が正義と思うものを主張して、何が悪いか。
悪いものは懲らしめなくてはいけない。これはやりがいがある。俺の道だ。何が何で
もやってやるぞ……。

亀四郎の夢は膨らむ。どんどん膨らみ、はじけ、それは現実となった。

明治19年、宮武外骨はささやかな新聞を発行した。

屁茶無苦新聞社発行、「屁茶無苦新聞」。

編集人、中々尾茂四郎。

外骨のペンネームである。好評にもかかわらず一号で廃刊。あまりにも過激な内容だっ
たためである。以後はじけるような「カンシャク」文章を書き続けた宮武外骨の、第
一回目の筆禍事件であった。そして彼は後に「滑稽新聞」や「頓智協会雑誌」と言っ
た反骨ジャーナリズムの親玉的存在に成長して行くのであるが、それは後日譚である。


「団団珍聞」「驥尾団子」を創刊した野村文夫は、明治24年にガンでこの世を去っ
た。彼の精神は宮武外骨をはじめ多くの人々の間に継承されていた。しかし、時代は
軍靴の響く「暗い時代」へ向かいつつあったのも、また事実ではある。




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