AWC うんこ小説A     つきかげ


        
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★タイトル (BYB     )  97/ 5/31   2: 7  ( 73)
うんこ小説A     つきかげ
★内容
  うんこを芸術作品として展覧会場に出品するという事を、小説の中で行った作
家がいる。推理作家の山口雅也である。彼は、キッドピストルズのシリーズの中
で、芸術家が自分のうんこを作品とする話を書いている。
  その芸術家は、ゴミを芸術作品として再生する事により、現代文明に対する風
刺を行っていた。現代文明が不可避的に生み出す余剰物としてのゴミを、作品と
して提示する。うんこという排泄物も又、ひとつのゴミとして捉えられる。
  こうした芸術家の活動は、いわゆるダダイズムといわれる運動に始まるコンセ
プチュアルアートとして、括る事ができるだろう。ダダの運動の中で、うんこが
作品として提示された例はないが、フランスのアンデパンダン展で便器をひっく
り返したものが出典されて物議を醸した事がある。
  ダダというのは、ようするにアカデミズム(あるいは、権威主義的芸術)に対
する破壊活動として考える事ができる。ある固定されたもののみを芸術として認
定してしまうような、システムとしてアカデミズムが作動する時、それに対抗す
る形の運動が不可避的に発生する。
  便器というもののフォルムが、美しいと感じたとしよう。しかし、それが排泄
にかかわるものとして美が認められないとすれば、一度そのシステム忘却して、
ようするに、現象学的に還元(エポケー)して、便器そのもの、つまり、実用性
や社会的意味を無視してフォルムそのもののがもつ、美と向かい合ってみようと
いう、試みが発生してくる。
  ただ、うんこを芸術作品とするという事は、全く次元の異なる話である。うん
こは、汚いもの、つまり芸術や哲学といったものが目指すところの、真、善、美
といったものと、対極に位置していると考えられるからだ。これはたとえ、うん
こを現象学的に還元したとしても、事態は変わらない。
  コンセプチュアルアートでうんこがとりあげられるとすれば、破壊の快楽以外
のなにものでもないと思う。いうなれば、システムを破壊する事そのものを目的
とした、破壊の為の破壊。うんこは、純粋なる破壊を目指す時に、その意味が輝
く。
  これは、山口昌夫の中心と周縁理論的な展開において、解釈すると、理解しや
すいと思う。例えば、偽王といった儀礼がある。これは萩尾望都がマンガの中で
描いていた儀礼であり、現実にも存在したらしい。
  カーニバルの夜、一夜のみ一人の男を王に即位させる。王として選ばれるのは、
犯罪者であり、社会の底辺にいる男である。カーニバルの夜がすぎると、その男
は追放され、社会は元通りとなる。
  変化のない日常が続くと、そこに倦怠が生まれ、社会が沈滞してくる。それを
打破する為に、周縁的(非日常的な、資源の蕩尽、性的な規制の一時的撤廃、ジ
ェンダーの転倒、死や暴力との接触など)なものとかかわりあい、日常を活性化
させるのが、祝祭である。祝祭においては、聖なるものとのしきりが一時的にな
くなる。そうした祝祭の中で、ハレ(聖性)とケガレ(周縁)が爆発的に直結す
る事がある。それが、偽王の儀礼といえる。
  うんこが芸術作品となるとすれば、うんこを偽王として扱うことになる。うん
こには、それだけの力があるといえる。周縁的な、あるいは、破壊的なちから。
そのちからについて、考えてみたい。

  うんこを主要なテーマとして扱った、推理小説がある。竹本建治のウロボロス
の基礎論である。この作品の中で実名の作家たちが次々に登場し、被害者となっ
ていく。ただ、この作品において密室の主役となるのは死体ではなく、うんこで
ある。
  作家たちの秘蔵している稀覯本に、密室状況においてうんこがつけられるとい
った事件が、連続的に発生する。密室において殺されるのは人ではなく、本(推
理小説)なのだ。
  この状況において、うんこは凶器とは呼べないと思う。うんこは死としての、
役割を果たしている。人は死に捕らえられ、死体となる。本は、うんこに蹂躙さ
れ、死を迎える。
  密室。ウォルター・ベンヤミンは、密室が死体を要求すると書いていた。では、
ここで招来されたのは、死としての、うんこという事になる。死とは何か。ここ
での死は、ハイデッガー的な実存としての死よりも、ボードリヤールの「象徴交
換と死」において語られた死を想定すべきだろう。
  資本主義的なシステムの中に支配される限り、空間は実用性、功利性によって
浸食され、貨幣によって定量的に価値が決定される。死体が存在したとたん、資
本主義のシステムは崩壊する。死を前にしていかなる実用性、功利性も存在しえ
ない。密室は死者を招き入れる事により、多様な意味の煌めきに満たされた、開
かれた空間、詩的な空間へと変質する。
  うんこは、密室にてどう振る舞ったのか。ウロボロスの基礎論の中に登場した
笠井潔は、うんこの二つの側面について語っている。
  スイフト的なうんこと、ラブレー的なうんこ。
  これはうんこの負の側面と、うんこの正の側面に対応づけられている。負の側
面とは、忌むべきものとしてのうんこ。汚らわしきものとしてのうんこ。正の側
面としてのうんことは、活性化のちからとしてのうんこと、考えられる。
  作中の笠井潔はうんこは単に、忌み嫌われるだけのものではなかったと、結論
ずける。多彩の意味の煌めきを見せる空間を、出現させるちからを持ったうんこ。

  うんこと芸術の考察は、このうんこのちからを探る事にほかならない。





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