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アゲイン (その5) りりあん
★内容
アゲイン(その5)
りりあん
拓巳がアパートに着いたときは真夜中を過ぎていた。玄関脇のスイッ
チをつけると汚れたキッチンの一部が照らしだされた。シンクの中には
重ねられた空のカップラーメンの容器と割り箸、何本かのビールの空き
缶が転がっていた。
彼は冷蔵庫からミネラルウォーターの入った小型のペットボトルを取
り出した。そしてふらつく身体を壁で支えながら、奥の部屋に入った。
天井からぶら下がっている、先に小さな玉のついた細い鎖を引く。白
っぽい蛍光灯の光が部屋を満たす。この8畳あまりの空間には、パソコ
ンデスクと椅子、小型テレビ、掛け布団がめくれて皺だらけのシーツが
むき出しになっているベッド、古いクローゼットなどがひしめき合って
いた。すりガラスの窓にはカーテンさえ掛かっていない。床には薄汚れ
た緑色のじゅうたんが敷き詰められ、その上に雑誌と洗っていない灰皿
が無造作に置いてあった。
拓巳はネクタイを乱暴にはずすと、デスクの引き出しから胃薬を捜し
だした。白い錠剤を口の中に放り、僅かに残っていたミネラルウォータ
ーでそれを流しこんだ。冷たさが内蔵にしみわたる。
空になったペットボトルを床に投げ、上着を脱いで椅子の背もたれに
掛けた。
立っているのは、すでに苦痛だった。彼は崩れるようにしてベッドの上
に倒れた。
仰向けになってみると、電灯の明かりがひどく眩しかった。眼鏡をは
ずして枕元に置き、光に背を向けた。頭の中で、今夜の村野の台詞がこ
だましている。
「お前さぁ、南さんの奥さんとは知り合いなのか?」
騒がしい居酒屋で真砂の話が出たのは偶然だった。一瞬彼は迷い、そし
て否定した。別に隠すほどのことではなかったが、村野に昔話をする気
はなかった。自分だけの秘密にしておきたい。それが本音だった。
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
そう言いながら、胸の鼓動が痛いほど速くなるのに気づいた。手のひら
に汗がにじむ。落ち着け、と何度も自分自身に言い聞かせた。
「なんとなくそう見えたからさ。結構お似合いだったぜ。ハハ、冗談だ
よ」
「まいったな……、変なこと言わないでください」
拓巳は引きつったような苦笑いを浮かべ、グラスの冷酒を一気に飲み干
した。
喉を滑り落ちた液体は、胃の中に入ると焼けつくような熱い塊に変わっ
た。彼は思わず眉をしかめたが、それでも2杯めを口にせずにはいられ
なかった。
拓巳は横を向いたまま、灰色の壁をじっと見つめていた。簡単には眠
れそうになかった。村野の何気ない台詞がいまの彼には利きすぎたのか
もしれない。だが彼の心はもっと前から、自分でも持て余すほど乱れて
いた。
真砂。すぐにわかった。あの大きな黒目がちの瞳は昔と全く変わって
いない。寂しさが真砂に執着させているだけだ。最初は比較的冷静に分
析していた。しかし彼女への想いが自分でも予想できなかったほうへと
向かったとき、建前や世間のルールを全部蹴散らしてしまいたくなった
。もう一度彼女に会い、思い切り抱きしめて自分のものにできたら。い
まなら彼女は決して拒まないという自信さえある。
やり直したい。久々に感じる前向きな気持ちだった。もし真砂と一緒
だったらどんなにいいだろう。
だがこの身勝手な願いをかなえたら、どうなることか。捨てるものも
失うものもない自分とはわけが違うのだ。あの幼い子から母親を奪う権
利はどこにもない。
忘れるしかないのか。
拓巳は気だるそうに身体を起こすと、両手をこめかみに当てた。今度
は脈うつような頭痛が忍び寄ってくる。ひどい二日酔いになりそうだっ
た。彼は掛け布団の下からくしゃくしゃのパジャマを引っぱり出した。
そして着替えるとすぐに電灯を消した。少し明るくなった窓が浮かびあ
がって見える。夜明けが近い。拓巳は深いため息をついてベッドの中に
もぐりこんだ。
表向きはいつもと変わらない日常生活が続いていた。この暮らしをそ
う簡単に捨てるわけにはいかない。
しかし真砂は自分が薄紙にくるまれて、その中で生きているような感
覚から逃れられなかった。奇妙な浮遊感と息苦しさが彼女に張りついて
いた。本当の自分を取り戻し、現実に再び着地するためには拓巳にいて
欲しい。彼さえいてくれたら、きっとここから抜け出せるのに。
時間が流れていくにつれ、真砂がはまった空間は徐々に狭くなってい
く。殺されてしまう。他人が聞いたら頭がおかしくなったと思われるか
もしれない。だが自分らしさをつくるものが失われたら、肉体は生きて
いても、人として死んでいるのとたいしてかわりがないのだ。
拓巳に会いたい。その想いはもはや止められなくなっていた。
真砂が今の拓巳について知っているのは、彼が夫の隣の課にいて、村
野の大学の後輩であるということだけだった。連絡をとるには住所や電
話番号を調べる必要がある。いきなり職場に電話するほど大胆にはなれ
なかった。
まずは名簿を捜そう。夫が仕事に行っている間、彼の机の引き出しを
一段ずつ慎重に探った。
しかし何度試みても、それらしきものは見つからなかった。
その机の隣にパソコンがのった金属製のデスクがある。この中に手が
かりはないものだろうか。真砂は自分がこの画面つきの白い箱に、何の
関心も示してこなかったのを後悔していた。スイッチらしき部分を人差
し指で軽く触れてみる。でも、押せなかった。
その夜も真砂は夫の部屋にいた。息子はとうに寝てしまっている。彼
女は本棚から拝借したマニュアルを握りしめ、例の箱の前に立っていた
。
やってみるしかない、そう覚悟を決めた。椅子に座り、震える手でペ
ージをめくる。胸の内側で心臓が暴れ、冷や汗が吹き出す。犯罪者にな
った気分だ。とりあえず「起動のやり方」という部分を何度か読んだが
、さっぱりわからない。平静さを欠いていた真砂はもうどうにでもなれ
と思いながら、画面下のスイッチを押そうとした。
そのとたん、扉の鍵がはずれる冷たい音が聞こえた。真砂は小さな悲
鳴をあげて椅子から飛び上がった。
マニュアルをあわててもとに戻し、部屋の明かりを消すとリビングに
駆けこんだ。100メートルを全力疾走したように息が弾んでいる。
振り返れば、夫は暗い玄関で下を向いて靴を脱いでいる。いつもより
戻ってくるのが少し早いような気がした。
「お帰りなさい」
彼女は何食わぬ顔で夫を迎え、電灯をつけた。
「……ただいま」
夫は酒臭い息を吐きながら言った。目のまわりの皮膚が異様なまでに赤
い。夫がこうなるときは、かなりの量を飲んでいるのだ。
「ずいぶん飲んだみたいね」
「ん……、村野さんたちと……」
そう言うが早いか、夫はカバンを放り出していきなり真砂に抱きついた
。
「ちょっと……、あなた悪酔いしてる」
真砂は思わず身をよじった。こんな態度をとるなんて、自分でも意外だ
った。
「なんだよぉ、真砂」
夫はあからさまに不快な声をあげて真砂から手を離した。
「どうして嫌がるんだよ、亭主が女房抱くのは当たり前だろぉ……」
「別に嫌がってなんか……。とにかく、すぐ寝たほうがいいわ」
真砂は夫から目をそらして言った。
そのままの格好で布団に入ろうとする夫を押しとどめ、背広やネクタ
イ、ワイシャツなどを剥ぐ(はぐ)ようにして脱がせる。これだけでも
ひと苦労だったが、パジャマに着替えさせたときは大きな赤ん坊を扱っ
ている気分になった。夫のほうは真砂のするがままにされながら、ひと
り何か呟いている。
「どうしたの? お水でも飲む?」
真砂がそう聞いても、夫は意味不明の言葉を口にするばかりだった。だ
から酔っぱらいは厭なのだ。呆れた表情をあらわにして夫を見ると、彼
はすでにマグロみたいな格好で布団に寝そべっている。毛布ぐらいは掛
けてあげないと。そう思って真砂が近づいたときだった。
「ふざけやがって……、気にくわねぇ奴……」
確かにそう聞こえた。夫が酔った勢いで誰かを悪く言うなんて、いまま
で一度もなかったはずだ。
「誰かと喧嘩でもしたの?」
夫の身体に毛布を掛けながら、さりげなく尋ねた。
「藤原……」
夫は真砂が想像もしていなかった名前を吐いた。彼女の手が一瞬止まる
。息が詰まりそうだった。
「その人と……何かあったとか?」
声が少し震えてしまった。でも、起こったことは知りたい。
「……別に」
夫の返事はぶっきらぼうだった。きっと嘘だ。
「ほんとに?」
「何にもない! もう寝るっ」
夫は急に声を荒くして言うと、真砂を拒むように頭からすっぽり毛布を
かぶってしまった。これ以上聞き出そうとしてもたぶん無理に違いない
。彼女はため息をついて電灯を消し、黙ってその場を離れた。
ともかく夫は藤原という人物といさかいを起こしたのだと思う。だが
夫の言ったその名が、拓巳のことを指しているとは限らない。
それなのに真砂は拓巳に違いないと確信していた。理由を聞かれると
困ってしまうが、あえて言えば女の勘である。いったい彼らの間に何が
あったのだろうか。
翌朝、夫は腫れぼったい目をしばたいて、いかにも不機嫌そうな顔で
起きてきた。まだなんとなく酒臭い。真砂はいつものように「おはよう
」と声をかけたが、夫は彼女を無視して風呂場に行ってしまった。ほど
なくして激しい水音が聞こえるようになった。シャワーを浴びているら
しい。
何に腹を立てているのだろう。真砂か、藤原か。それとも両方に対し
てか。だが真砂には不安も恐れもなかった。対岸の火事を見ているよう
な感じが彼女を支配していた。
朝食にはほとんど手をつけず、いつもより10分程度遅れて夫は出勤
した。「行って来ます」さえ言わないで。けれどもこんなことは初めて
ではない。夫の機嫌は放っておいても直るだろう。いまの真砂にとって
大事なのは拓巳のほうだった。
洗濯機のスイッチを入れる。食器をまとめてキッチンに運ぶ。
奥の部屋では息子がまだ眠っていた。そろそろ起こさなくてはならな
い。真砂は息子の布団に近づいて膝を落とした。
父親似の寝顔。真砂はふっくらとして柔らかな頬にそっと触れた。よ
く寝ていて、ぴくりともしない。 彼女は感情の大波が押し寄せてくる
のを予感して、急いで立ち上がり部屋を出た。
リビングは水槽の中にあった。下を向き、両手で顔を覆う。一種の本
能みたいなものが胸の中で荒れ狂っていた。助けてくれる人はいないけ
れど、引き返すつもりはない。真砂はゆっくりと顔をあげ、手の甲で濡
れた頬を拭った。何回か深呼吸すると気持ちがいくらか落ち着いた。
窓から暖かい日差しが入ってくる。レースのカーテン越しでも眩しい
ほどだ。真砂はその生き生きした光を浴びながら、女としての自分を見
つめていた。
つづく