AWC アゲイン (その4)      りりあん


        
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アゲイン (その4)      りりあん
★内容
          アゲイン(その4)
                                                 りりあん

 その夜、真砂は息子を寝かせたあと、早速受話器をとった。夫はどう
せ遅いのだ、時間はたっぷりとある。
 住所録を見ながらゆっくりとダイヤルする。ケイコの長ったらしい局
番を持つ電話番号はどうしても覚えられない。冷たい無機物を耳に押し
あて、か細い呼び出し音を聞く。この瞬間が一番不安になる。
「ハイ、山岡です」
聞き慣れた声がした。よかった、ケイコだ。
「もしもし、私。久しぶりィ」
「ああ、なんだ、真砂じゃない。もう落ち着いた? あんたみたいに転
勤族のダンナ持つとホント大変よね」
ケイコは相手が真砂とわかると、気取った言い方をやめ、早口で一気に
しゃべった。
「まぁ、なんとかね。今、話しても大丈夫?」
「ええ。うちの子は寝かせたし、智史は歯科医師会の会合でいないの」
「こんな時間まで?」
「2次会で飲んでるのよ。毎度のことだけどね」
ケイコはさほど気にもしていないようだ。
「なんか面白い話、知らない?」
唐突(とうとつ)すぎて自分でもおかしいと思ったが、いきなり切り出
す勇気はなかった。
「真砂ォ、私なんかこのド田舎に3年以上も引っ込んでるのよォ。そん
なのあったら、私のほうが聞きたいわよ」
ケイコは笑いながらそう言った。
「それもそうだねぇ」
「……ちょっと、なんかあったの?」
単刀直入に聞かれて、真砂は少し口ごもった。
「もしかして南さんが浮気したとか?」
ケイコは急に声をひそめた。浮気という言葉が突然少年ではない拓巳を
思い出させる。違う、彼はそんな存在じゃない……。
「ま、まさか……ホントに?」
真砂が答えなかったせいで、ケイコはあわてたように言った。
「そうじゃないの。ただ、なんていうか、近ごろこのまま年とるのがむ
なしいというか……」
真砂は思い切って言ったものの、意味が通じたかどうかは自信がなかっ
た。
「はぁ?」
ケイコはとまどいを隠せないようだ。
「うまく言えないんだけど、人生これでいいのかなって……。私もケイ
コみたいに仕事続けてればよかったのかな」
ケイコは彼女の夫とふたりで歯科医院を開業している。今は育児をしな
がら、週に数回は診療室に出ているのだ。口にこそ出さないがケイコは
自分の仕事が好きなのだと思う。その点では彼女が本当にうらやましい
。真砂は仕事にそこまで賭けることはできなかった。
「どうしたの? 急に……。あ、そっか、ダンナじゃなくて、真砂のほ
うか」
「なにが?」
「なにが、じゃないわよ。きっかけがなかったら、そんなこと考えるわ
けないでしょ」
「きっかけ? そんなの別にないわ」
「へぇー、ホントにィ?」
ケイコは茶化すような声を出した。
「ないってば。そうだ、話は急に変わるけど、こっちに引っ越してきた
日に……」
拓巳に会った、そう言おうとして真砂は急に声を詰まらせた。まるで喉
を締めあげられたように苦しくなった。
「真砂?」
「……あの……、村野さんが手伝いに来たの」
真砂は声をふりしぼって言った。手が自然に喉を撫でた。どうして村野
の名前なんか言ったのだろう。
「村野? 誰だっけ?」
「ええと、南の知り合いで、確か私の結婚式の2次会でケイコと同じテ
ーブルだったんじゃないかな。けっこう体格がよくて、髪がどちらかと
いうと……」
「思い出した! あのハゲてた人!」
真砂がそうだと言うと、
「なんていうか、キョーレツな人だよね」
ケイコはそう言って笑いだした。
「でも私、村野さんって苦手なのよ。それなのにあの人ったら、連れて
来ちゃうんだもの」
「わかるわかる。妙に目つきが鋭かったりして、ちょっと怖そうな感じ
だもの。でも厭とは言えないところがつらいよね」
そのあとは家庭を持つ女がよく口にする、お決まりの話題が続いた。夫
、婚家、子供についての愚痴。だが話がどんなに盛り上がっても、心の
奥に沈んだ澱(おり)は消えなかった。
そしてケイコは最後にこう言った。
「私だって時には、こんなに忙しい思いして、一体何になるのかなって
感じることあるわ。ただ……よくわかんないけど、真砂もあんまり深く
考えないほうがいいと思うよ。世の中には100パーセント満足できる
ことなんてありっこないんだから」
 確かに今さらあがいても仕方のないことかもしれない。真砂には家庭
に対する責任があった。それを放り出すわけにはいかないのだ。
 ならば現状を維持して、自分の求めるものを捜すにはどうすればいい
のだろうか。仕事をする、趣味にうちこむ、家事と育児に賭けるなど選
択枝はいくらでもある。また刹那的な快楽だけ欲しいなら、テレクラに
でも電話すればいい。 だが真砂は知っていた。それらの中には心から
欲しいと思うものは見つからないことを。

 その日は朝から雨だった。窓には霧のような水滴がついている。ガラ
スが曇っているわけではないから、気温は高めなのかもしれない。テレ
ビの天気予報では、この雨がやむのは夜になるだろうと言っていた。
 ところが雨は夕方少し前にはすっかり上がってしまった。
 真砂はリビングで息子の散らかしたおもちゃをかたづけていた。息子
は隣の部屋で遅い昼寝の最中だ。当分の間、起きそうにない。
 箱の中にミニカーやぬいぐるみをざっとまとめると、彼女は立ち上が
った。今のうちに夕食の準備をしてしまおう。そう思いながら、ふと窓
に目を止めた。
 茜色の光が真砂を誘うように輝いている。身体が自然に引き寄せられ
た。そして窓をいっぱいに開けると、雨の匂いを残した暖かい南風が部
屋の中に吹きこんできた。
 真砂はベランダに置きっぱなしにしていたサンダルを履いた。かなり
湿っている。だが、そんなことはどうでもよかった。
 手すりに近づいて外の景色を眺めようとしたとき、光がふいに真砂の
ほうを向いた。彼女は眩しさに思わず目を細め、顔の前に手をかざした
。少し後ずさりして指の間から空を見上げると、薄い灰色の雲にはたく
さんの切れ目ができていた。そこから幾つもの煌めく帯が街に降り注い
でいる。かざした手をゆっくりと下ろし、再び手すりに近寄った。
 見下ろせば、街が無言で燃えていた。
古い家々やアパート、道や花壇の土、そして空気からも焔が上がってい
る。真砂は恐ろしさのあまり、身震いした。部屋の中に戻ろうとしたが
、足がすくんで動けない。赤黒いまだらの道には少年が立ち、こちらを
見ていた。白いシャツが透明な赤に染まっている。悲鳴をあげそうにな
って、彼女は手で口を抑えた。全身から汗が吹き出す。はるか昔に見た
光景がそこにあった。
認めなさいよ、真砂。
彼女は耳の奥で聞こえたその声を拒絶するように激しく首を振った。
もう一度見て、真砂。
それに抗う(あらがう)力は残っていなかった。言われるまま目を向け
ると、少年のいた場所にジャンパーを着た男が立っている。彼の姿が突
然ゆらゆらと動いた。目の奥から押し寄せた熱い波が堤防を越えて溢れ
出す。
 真砂は両手で顔を覆った。膝が震えだして立っていられなくなり、そ
の場にしゃがみこんだ。嗚咽を洩らすまいと爪を強く噛む。胸の奥で何
度も拓巳の名を叫び続けた。
 どのくらいそうやっていただろうか。僅かに冷たくなった風が真砂の
方を叩いた。彼女は顔を上げ、老人のように立ち上がった。びくびくし
ながら向こう側に目をやる。街は黒ずんだ燃えかすとなっていた。道に
は人影がない。夜がすぐそこまで来ているのだ。
「ママ、どこ?」
べそをかきながら息子が真砂を呼ぶ声が聞こえた。目が醒めたらしい。
彼女はすぐ部屋の中に入った。
「起きたのね。大丈夫よ、ママはちゃんとここにいるでしょ」
真砂はしがみついてくる小さな身体を抱いてそう言った。やわらかいぬ
くもりが伝わってくる。
 確かに真砂自身はこの場所に存在していた。それなのに現実感が湧い
てこない。こうしていることが、まぼろしのように思えてしまう。
 昨日までの彼女なら、こんな感覚は完全に否定できたはずだ。しかし
今日はもうできない。
 これまでの人生は自分にとって何だったのだろう。闘って勝ち取って
きたのではなく、向き合うべきものから逃げ続けた結果だというのか。
 そうかもしれない。だからこの年になっても自分の中に残ったものが
なく、むなしさを噛みしめて暮らしているのだ。どうしてもっと早く気
づかなかったのだろう。自分自身で生み出せたものがひとつでもあれば
、それを頼りに生きていけただろうに。
 拓巳の顔が浮かぶ。あのころに戻って何もかもやり直せたら……。け
れど現実には不可能だ。もはや真砂ひとりで処理するしかないし、また
そうしなければ何の解決にもならないだろう。
 時をさかのぼれないからといって、いまの拓巳を巻きこむのは間違っ
ている。でも……。
怖がらないで自分の心を見て、真砂。
ベランダで聞いたものと同じ声がした。彼女は唇を強く噛んだ。
 それだけは駄目、あと一歩踏み出したらどんなことになるか。守るべ
きものを自らの手で壊し、全てを失うかもしれないのだ。拓巳にも犠牲
を払わせるに違いない。
 そんなリスクを犯してまで、自分は何を求めているのだろう。生きが
い。人生のやり直し。どんな理由も決して言い訳にはならない。
 しかし、「いかに生きようとも行き着くところはみんな同じ」なのだ
。そんな言葉をどこかで聞いたような気がする。ならば自分が本当に望
んでいるものを、一生かけてでも手に入れるべきではないか。
「ママ、泣かない、泣かない」
息子にそう言われて、真砂は自分の頬がまた濡れているのに気づいた。
だがこの子でさえ、もはや真砂の歯止めにはならない。
「ごめんね……」
彼女はかすれた声を絞りだした。血潮に似た熱いものが止めどなく溢れ
る。
 息子を強く抱きしめ、許しを乞うように頬ずりをするしかなかった。

                     つづく  




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