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アゲイン (その3) りりあん
★内容
アゲイン (その3)
りりあん
一時間後、ふたりはその日の最終講演になんとかすべり込むことがで
きた。平日のためか空席がやや目立つ。冷房が効きすぎて思わず身震い
するほどだ。 ライトが落ちて、作られた暗闇がドームを覆う。神秘的
な音楽と共に、半球状の天井が僅かに明るくなり、本物より出来のいい
月がぽっかりと浮かぶ。穏やかな女性の声でナレーションが流れる。真
砂はそんな説明など全く聞いていなかった。目は確かに次々と現れる星
々を見ていたが、彼女の感覚のほとんどはかたわらにいる拓巳に向けら
れていた。
恋人でもなく友人というにも距離のありすぎる関係。気にはなるけれ
ど、あるところまでくると足がすくんでしまう。それは自分自身にかせ
をはめているからそうなるのだろうか。
天体ショーが終わり、建物の重いガラス扉を開けると、湿った生暖か
い風が吹きつけた。身体が冷えきっていたから、それが妙に心地良かっ
た。広い車道の向こうにはターミナル駅と繁華街の明かりが煌めき、夜
空をほの白く照らしている。真砂は拓巳に隠れるようにして腕時計を見
た。もうすぐ8時だ。いまから帰れば、へたな言い訳をしなくてすむか
もしれない。
「時間、大丈夫?」と拓巳が言う。
「少しくらいだったら、平気」
真砂の中のもうひとりの真砂がそう答えた。
拓巳はほっとしたような顔をして、小声で何か呟いた。
「え? なぁに?」
「……なんでもないよ」耳がまっ赤だった。
近くのビルの1階にファーストフードの店があった。ハンバーガーや
シェイクがのったトレイを持って2階に上がり、窓際の安っぽいテーブ
ルに座る。
最初の15分かそこらは、お互いろくに話もせず、ただ黙々と食べ続
けた。空腹のあまり、というより不安を紛らわすために詰め込んでいた
のかもしれない。少なくとも真砂はそうだった。味など、まるでわから
なかった。
「これからも、あそこに通うつもり?」
拓巳が先に口火を切った。
「……たぶん」
真砂はストローを弄び(もてあそび)ながら言った。
「僕はもっと大きいところ、行こうと思って。たとえば……Sゼミみた
いな」
いまの予備校をやめる、という意味だ。
真砂の胸の中は凍りついた。指先が震えたような気がして、あわててテ
ーブルの下に手を引っこめた。顔が自然にうつむいてしまう。
「拓巳君だったら、そのほうがいいかも……」
痺れた舌を無理矢理動かした。この程度のことで何を動揺しているのだ
。
「N高の人が、いつまでもあんなとこにいちゃ駄目だって。私みたいな
のとは出来が違うんだから」声に棘があった。
誰も傷つけるつもりなんてなかったのに。
ふたりは店を出て駅に向かった。拓巳に嫌な思いをさせたに違いない
。沈黙が胸にしみて、ひりひりと痛む。不夜城を思わせる明かりが近づ
くたび、目の奥が熱くなる。
駅に通じる横断歩道の信号が赤になった。車道の上を数珠(じゅず)
つなぎになった自動車が老婆のように動いている。
「真砂」拓巳は初めて彼女を呼び捨てにした。
思わず身が縮み、カバンの持ち手を強く握りしめた。
「……僕のこと、どう思ってる?」
一瞬、真砂の息が止まった。
拓巳君、それってずるいよ。あなたの心、先に見せてくれなきゃ勇気が
出ない。
そう言えたらどんなによかっただろう。だが舌は縮み上がったまま動こ
うとしなかった。信号が青に変わった。
白線の上を重い足取りで渡りきると、光の洪水が音もなく迫ってきた
。駅はもう目の前だった。切符の自動販売機、プラットホームやデパー
トに通じる階段などが見え、人々がせわしなく行き来している。
「変なこと聞いて……、ごめん」
拓巳はいつもと変わらない穏やかな声で言った。真砂は唇を噛みしめ首
を横に振るしかなかった。強い悲しみと自分への怒りが彼女を縛りつけ
ていた。
遠くから発車のベルが響いてくる。ラッシュアワーほどではないが、
人通りはまだ多い。
「どっちで帰ったほうがいい?」
拓巳が階段の手前で真砂に尋ねた。JRを選ぶか、地下鉄を選ぶか。こ
こからだったら地下鉄のほうが早い。
「……地下鉄」声がかすれた。
言葉を出すのがこんなに苦しいなんて。
「僕はJRで行くから。……それじゃ、気をつけて」
拓巳は少し微笑んだ。そして何歩か後ずさりしながら軽く手を振り、背
中を向けた。雑踏がたちまち彼を飲みこむ。真砂の胸の奥に、燻り(く
すぶり)だけが残った。
真砂は階段をよろめくように降りた。彼女の脇を何人かが通り過ぎて
いく。足元の段差が急に歪んで見え、頬をつたう熱いものを感じた。彼
女は下を向いて駆けだした。拓巳とはそれ以来会うことはなかった。
あのときから真砂は少し変わったのかもしれない。先のことはわから
ないけれど、このままの自分じゃ厭だ。母の愛情を装った支配から抜け
出して、もっと自分に正直になって生きてゆきたい。そう自覚してから
、真砂はやる気のなかった受験勉強に本腰を入れ始めた。何も知らない
母は喜んでいたが、これは彼女にとって自由になるための闘いであり、
拓巳の面影を振り払うためでもあった。
それから2年後、努力のかいあって真砂は無事大学に合格することが
できた。これで自由になれるはずだった。しかし母はそれまでにも増し
て、彼女の行動に干渉してきた。結婚前の娘に何かあったら困るから、
というのが母の言い分だった。
いつしか母とは顔を合わせれば言い争うようになり、いがみ合いにう
んざりした真砂は家を出て、ひとり暮らしを始めた。夫と知り合ったの
はちょうどそのころだ。確か合コンの席上だったと思う。第一印象は悪
くなかったが、すぐに付き合いだしたわけではない。グループ交際みた
いなものが1年近く続いた後からである。
このときはむしろ真砂のほうが積極的だった。自分の気持ちを素直に
表せないないという失敗は繰り返したくなかった。その思いが真砂をま
すます恋にのめりこませたのかもしれない。彼女は次第に拓巳のことを
忘れ始め、思い出すこともなくなった 。
それからも就職や結婚といった人生の節目がめぐるたびに、母とは大
喧嘩になった。
特に夫との結婚を決めたときのことを思い出すと、いまだに気分が悪
くなる。ひとり娘は婿養子をとって家を継ぐのが当たり前だ。それが母
の考えだった。
だから長男である夫と一緒になりたいと切り出したとき、母は激怒し
て、ろくな話し合いもできなかった。そればかりでなく最も理解して欲
しかった夫には、自分の親も説得できないのかと責められた。進退のき
わまった真砂は、いっそのこと全て白紙にしてしまおうか、とまで考え
るようになった。
そう思い始めた真砂を助けてくれたのは意外にも父だった。父が母を
説得してくれなかったら、夫とは結婚していなかったかもしれない。
だが、結納を交わしてからも細かいもめ事は続いた。そのたびに両親
と夫との間で板挟みになる。婚約期間はまるで地獄のようだった。
あの状態でよく式を挙げられたものだと思う。もしかすると、ここで
飛び出さなければおしまいだという危機感が、真砂を頑張らせたのだろ
うか。
とにかく、その後は比較的順調だった。息子が生まれたおかげで両親
ともしっくりいくようになった。長かった闘いもこれで本当に終わり、
自分が自分として生きていけるのだ。心からそう思った。
カーテンのすき間から夜明けの弱々しい光が洩れている。部屋全体が
うっすらと明るくなった。今日は天気が良くなるだろう。
真砂は寝返りをうち、隣で安らかな寝息をたてている息子、その向こ
うで背中を丸めて眠る夫を見た。これが自分の心に正直でありたい、そ
う願って走り続けた結果だった。
悔いのない選択をしたという思いは、何があっても微動だにしないと
信じていた。しかし、いまになってそれが揺らぎ始めている。
拓巳の姿が自然に甦った。彼も今ごろこうして家族と共に眠っている
のだろうか。
もうすぐ朝が来る。眠る努力をしなくては。真砂は静かに目を閉じた
。
それから2週間が過ぎた。部屋の中が片づくと、やはり気分的にも落
ち着くものだ。スーパーマーケットや公園、郵便局の場所などもだいた
いわかるようになり、日常生活も軌道に乗りつつあった。穏やかな春の
日々は、心の不安をうち消してくれるはずだった。
駅に向かう途中の通りには街路樹として桜が植えられていた。虫がつ
きやすいというこの木が選ばれた理由は知る由(よし)もない。まだ幹
は細く、枝振りもよくないが、それでも薄いピンクの花を精一杯咲かせ
て、どこかいじらしいところがあった。風が吹くと小さな花びらが粉雪
となって舞う。
真砂はそこに早くも過ぎていこうとする春を見ていた。どんな暮らし
をしようと季節は移り変わる。そして人は年をとってゆく。自分はこの
まま終わってしまうのだろうか。そんな疑問がふと心に浮かんだ。何故
だか自分でもよくわからない。
日ごろ夫が言うように主婦というのは暇なのだろう。仕事に出れば、
そんなよけいなことは考えなくなる。夫のように。彼は転勤してからま
すます仕事に追われ、人生について考える時間などあるとは思えなかっ
た。もし仮に時間や気持ちの余裕があったとしても、他の楽しみのため
に使ってしまうだろう。夫にとっていまの現実こそが全てであり、そこ
に疑問などの入り込む余地はないのだ。
けれど拓巳だったら、どう思うだろうか。何と答えてくれるだろうか
。
その瞬間、真砂は自分の中にいつの間にか得体のしれないものが棲み
ついているのに気づいた。
また、この思いつきのような疑問は真砂の中で日々膨れ上がっていた
。夜、布団に入っても、テレビを見ていても、キッチンで洗いものをし
ていても、それは彼女の心を容赦なく締めつけた。洗いざらい吐き出し
てしまいたい。そうしないと息ができなくなりそうだった。我慢はもう
限界にきていた。
そうだ、ケイコに電話してみよう。真砂は急に救われたような気持ち
になった。ケイコは真砂と共に受験生活を乗り切った、高校時代の「戦
友」なのだ。そのせいか彼女との付き合いはいまでも続いているし、な
んでも話せる仲でもある。
つづく