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★タイトル (HYN ) 97/ 5/29 17:18 (198)
アゲイン(その2) りりあん
★内容
アゲイン (その2)
りりあん
その夜、夕食のあと夫は書類や本を整理するからと言って、玄関脇の
小部屋にこもってしまった。ドア越しにCMソングが聞こえる。いつの
間にか小型テレビを持ちこんだらしい。
前に住んでいたところでも、夫は自分で書斎と名づけたコーナーを持
っていた。仕事から帰り、食事と入浴が済むといつもその中に入って、
寝る時間にならないと出てこないのだ。また夫は真砂や息子がそこに立
ち入るのを嫌う。仕事やそれに関する勉強をしているからというのが主
な理由だった。おそらく今夜もそうだと思う。いつごろからこうなって
しまったのだろうか。
少なくとも結婚したばかりのころはそうでなかったような気がする。
だが真砂は夫を変えようとは思っていない。というより諦めてしまった
。何を言っても夫の態度が同じだったこともあるが、真砂が追えば追う
ほど夫との距離が広がっていくように感じたからだ。これが価値観の違
いなのかもしれない。なんだか寂しい気もしたが、夫婦というものは元
々他人なのだと割り切ったら気持ちが楽になった。ギャンブルに走るよ
りはましではないか。しかしそんな夫でも近ごろは休日になると息子と
遊んでくれるようになったのだから、少しは喜ぶべきなのかもしれない
。
床についたとたん、夫も息子もたちまち寝入ってしまった。真砂はと
りあえず目を閉じたが、簡単には眠れそうになかった。寝返りをうつた
び、瞼の裏側に過ぎ去った日々が浮かぶ。それが鮮明になるほど懐かし
さがすり減ってゆく。ひりつくような感覚ばかりが強くなる。
思わず目を開けると、見慣れない寝室が暗い藍(あい)色に染まって
いた。カーテンを透かしてこちら側に入る人工的な光のせいだ。ここに
本当の闇はどこにもない。あたりに潤んだような静けさを感じながら、
彼女は次第に輪郭を現す薄暗い天井を見つめた。それでも頭の中にある
ビデオテープが勝手に巻き戻る。抵抗しても無駄なのだとようやく悟っ
た。
眼鏡をかけていなくて、ふっくらとした、どちらかというと可愛い感
じのする少年。それが真砂にとっての拓巳だった。流れた時間は彼から
何を奪ったのだろうか。
高校生になったばかりのころ、真砂は大学受験にそなえて放課後に週
2回ほど、少人数制授業がウリになっている予備校に通っていた。拓巳
と最初に出会った場所だ。言葉を交わすようになった直接のきっかけが
あったはずなのに、よく覚えていない。しかし彼が帰りに、最寄りの駅
のプラットホームで口にした台詞なら思い出せる。
「真砂って漢字でどう書くの?」
異性に初めてそんなことを聞かれ、真砂は当惑し、身を堅くした。拓巳
の顔をまともに見られず、そのかわり屋根からぶら下がる大きな時計に
目をやった。時刻は夜8時をまわっている。少し冷たい風が吹き抜けて
いく。
「僕は漢字、あんまり得意じゃないから」
呟くようなひと言にうごかされ、真砂は拓巳を視界に入れた。彼は両手
をジーンズに突っ込み、うつむいている。ブルゾンから飛び出したチェ
ックのシャツが風に震える。赤く色づいた彼の耳を見たとき、張りつめ
ていた心の糸が急に緩んだ。男の子って、こんなものだったの?
人間には誰しも邪悪な一面がある。年齢を重ねれば隠すのがうまくな
るが、若いうちはちょっとしたきっかけでも、それがむき出しになる。
真砂は少年や若い男性が作り出す雰囲気の中に、いつも特有の残酷さを
見ていた。だから彼女にとって彼らは嫌悪と同時に恐怖の対象でもあっ
た。でも拓巳にはそういったものが全く感じられないのだ。
「真実の真に、砂よ」
彼女はぶっきらぼうに言った。
「そういうふうに書くのか。知らなかったな」
彼は優しい声を出した。胸の奥がちくりとする。横を向いて唇を強く噛
んだ。
「……学校、どこ? 僕はN高だけど」
拓巳は突然、話題を変えた。彼の高校は真砂も知っていた。有数の進学
校だ。
「私は……K学園」
彼女の答えを聞くと拓巳は少し驚いたように、そうなんだ、と言った。
真砂の学校は中高から短大まで一貫教育をする、多少は名の知れた私
立の女子校だった。成績や素行がひどく悪いという問題でもない限り、
普通に過ごしていれば短大には確実に進学できるのだ。現に毎年学年の
9割以上がこうして短大に入学し、あえて受験しようとする生徒は1割
にも満たなかった。
実をいうと、真砂にはどうしても大学に行きたいという切実な気持ち
はなかった。しかし母親が4年制大学に強いこだわりを持っていた。当
時は「あなたのためなんだから」とよく言われたが、結局は母自身のた
めだったと思う。親戚や母の友人の子供が名門大学に入ると、母はひと
りで奇妙な対抗意識を燃やすのが常だった。国立大卒の母としては、自
分の娘が短大ではプライドが許さなかったのだろう。だから真砂の受験
は母のためだと言ってもいい。学校全体がぬるま湯につかったような雰
囲気の中で、自分の意志ではない受験生活をおくるのは辛かった。
でも真砂はそれを拒否できなかった。本当は何がしたいのか、これか
ら先どうやって生きていくつもりなのか、全くわからなかった。たとえ
すぐに答えが得られなくても、手がかりだけでも見いだそうとすれば状
況は変わったかもしれない。だが彼女はそういう努力を早々に放棄し、
母が示した大学受験という回答に飛びついたのだ。
後悔していないと言えば嘘になるが、結論の出ない自己の問題と向き
合うより、何も考えずに流されてゆくだけのほうがはるかに楽だった。
拓巳には目的があるのだろうか。大学の向こうに続く道が見えている
のだろうか。彼に聞いてみたいと思ったが、それを言葉にはできなかっ
た。
頭上のスピーカーが、壊れた声でかわりばえのしない台詞を叫ぶ。薄
汚れた黄色い電車はあたりに騒音をまき散らしながら、風を切ってプラ
ットホームに駆け込んでくる。そして金切り声を上げて止まったかと思
うと、雷鳴をとどろかせて一斉に扉を開ける。うんざりした顔の人々が
そこからホウセンカの種みたいに飛び出す。
真砂と拓巳は人波に押されるようにして車両に乗った。ラッシュのピ
ークはとうに過ぎているはずだが、中はすし詰めに近かった。偶然にも
ふたりは向かい合わせになっていた。車体が僅かに揺れて互いの身体が
触れあうたび、心臓の鼓動が聞こえるような気がした。しかしうなりを
上げてひた走る電車の中で、そんなことがわかるはずはない。
「今日はやけに混んでるな」
「……うん」
もっと話がしたい。突然沸き上がった衝動は真砂を動揺させた。拓巳は
彼女の存在を忘れてしまったかのように、吊り広告に見入っている。
「藤原君……」唇が勝手に動いた。
「拓巳でいいよ」
彼は事も無げに言うと屈託のない笑顔を見せ、
「それで、なに?」
しまった、何も考えていない。身体中から汗が吹き出してくる。
「あの……いつもどこで降りるの?」
真砂が苦しまぎれの台詞を吐くのと同時に、金属どおしが何度もぶつか
り合うような騒音が車内に響き、揺れも激しくなった。どうやら鉄橋を
渡っているらしい。
「え? いま、なんて言った?」
拓巳が声を張り上げて聞き返す。真砂は何でもないというように首を軽
く横に振った。タイミングをはずし、気持ちがすっかり萎えていた。彼
が「教えて」と言うのがわかったが、聞こえないふりをしてうつむいて
しまった。まるでしおれた切り花みたいだった。拓巳にはこんな姿がど
んなふうに映っているのか、想像するのも厭だった。
突き抜けたような感覚のすぐ後、不愉快な音が消えて急に静かになっ
た。無愛想なアナウンスが次の駅名を告げる。
現実に呼び戻された瞬間、不安が真砂を鞭打った。
降りなければ。思わず顔を上げてあたりを見回す。扉は人ごみの向こう
にあった。
「降りるの?」拓巳の声がした。
彼の言葉に真砂は黙って頷いた。
スピードが急速に落ち始め、窓からはあまり人気(ひとけ)のないプラ
ットホームが覗く。この駅は乗降客が少ないから、電車が完全に止まる
前にちょっとでも扉に近づいておかないと乗り越してしまう。彼女が身
体の向きを変え、降りますと叫ぼうとしたとき、
「すみません、降ろして下さい」
拓巳がよく通る声で言った。真砂が人垣にできた僅かなすき間を通って
いると、車両の動きが止まった。
狭い穴から空気が勢いよく抜けるような音と共に扉が乱暴に開いた。
身体が自然に押し出され、彼女は半ば、つんのめる格好になってそこか
ら降りた。
すると待ってましたとばかりに、発車の電子音が神経質に鳴り始めた
。
待ってよ、早すぎる。喉の奥が詰まるような思いで振り返り、全身を目
にして拓巳を捜した。
何故見つからないの? 一言だけでいいから言わせて欲しい。
しかし彼女の都合にはおかまいなく扉は閉まる。低いうなりを上げて、
長々と連なる黄色い鉄の箱がゆっくりと動き始めた。
そのとき、窓越しにようやく拓巳の姿を見つけた。瞬間、目と目が合
う。
彼が少し微笑んだように思えた。
真砂はぼんやりとしてプラットホームに立っていた。風かひどく冷た
く感じる。サヨナラも言えなかったなんて。
見えなくなった電車の後を追うように、彼女はいきなり走りだした。
自分自身も残酷な人間のひとりなのだと、このとき初めて悟った。
それ以来、ふたりは授業が終わるとなんとなく一緒に帰るようになっ
た。打ち解けるに従い、少しずつではあるが互いのことを話し始めた。
確か拓巳には当時中学生の弟がいたと思う。彼は一人っ子の真砂がう
らやましいとよく言っていたが、彼女には否定も肯定もできなかった。
母の愛が重荷になっている事実。ひとり娘であるがための束縛。そして
盆栽みたいに剪定(せんてい)されても何ひとつ抵抗できず、いい子ぶ
った物分かりの良さで流されていく自分。これらの事情を洗いざらいぶ
ちまけてしまいたいと何度思ったことだろう。
だがそれをやってしまったら、いいかげんな自分の姿も同時にばれて
しまうのだ。拓巳に軽蔑されるのはどうしても厭だった。だから真砂は
自分の話になるといつも適当なところではぐらかしていた。拓巳のほう
はどう感じていたのかわからないが、彼女が引いてしまうと決して追っ
てはこなかった。
また拓巳はブラスバンドでクラリネットを吹いていた。楽器のたぐい
はまるで駄目な真砂が関心すると、彼は苦笑してこう言ったのを覚えて
いる。
「中学のときから惰性でやってるだけさ。あれこれ考えないほうが楽で
いいだろ?」
クラブごときで悩むのはつまらないという意味で、別に他意はなかった
のかもしれない。ただ彼がそんな台詞を吐くなんて意外な気がしたのだ
。
あれは夏休みが目前に迫っていたころだ。いつも始業ギリギリに駆け
込んでくる拓巳が、その日に限って真砂より早く教室にいた。
「どうしたの? 珍しいじゃない」
真砂がカバンを置きながらそう言うと、彼はそっと耳打ちした。
「これから一緒に……どこか行かないか?」
「えっ? でも……」
予想外のことに彼女はとまどった。
「僕とじゃ、駄目?」
「そんなことないけど……」
素直になりたい。それなのにいつも肝心なことが決断できないなんて。
ぐずぐずしている間にも授業時間は迫る。表には出さないけれど、拓
巳は内心ひどく苛立っているはずだ。真砂は彼をちらりと盗み見た。耳
が鮮やかな紅に染まっている。決心がついた。
「いいわ、付き合ってあげる」
建物の外はすでに夕暮れを迎えていた。空も、くたびれたビルの群も
、アスファルトの道も、そして拓巳の白いシャツも、なにもかも赤く見
えた。夏の圧縮された空気の中でそれらが皆、一斉に燃え上がるようだ
った。
「どうかした?」拓巳が振り返る。
「ううん、別に……」
焔に包まれているみたいだ。しかしそれを口には出さなかった。
「行きたいところある?」
拓巳にそう聞かれて真砂は答えに詰まった。急に言われたって、簡単に
思いつくはずないじゃない。でも、あそこなら……。
「……プラネタリウム」
真砂は消え入りそうな声を出した。星に格別の興味があるわけではなか
った。静かでひんやりとした場所に行きたい。それだけだった。
つづく