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★タイトル (HYN ) 97/ 5/29 12:16 (192)
アゲイン(その1) りりあん
★内容
アゲイン (その1)
りりあん
雨が降るかもしれない。真砂(まさご)はタクシーの窓越しに映った
空を心配そうに眺めた。薄暗い雲が街全体を覆っている。ただでさえく
すんだ家並みが、いっそう沈んで見えた。
車は曲がりくねった路地に入り、このあたりではやや大きめの建物の
前に止まった。ドアが開くと冷たい空気が流れこんでくる。一時的な寒
の戻りとはいえ、とても3月半ばを過ぎているとは思えなかった。真冬
ほどではないにしろ、ここ数日の暖かさに慣れた身には辛かった。
冬のコートに袖を通し、首を縮めた格好で真砂は目の前に建つコンク
リートの塊を見た。ひびを埋めた跡が残る古い壁。この外見だけでも内
側が容易に想像できた。夫からあらかじめ官舎とは本来こういうものだ
と聞いていたが、実際に見てみると、やりきれない気持ちで一杯になっ
た。
真砂は先に部屋へ向かった夫と2才の息子の後を追って玄関に入った
。狭いホールはまだ明かりがついていないせいか、陰鬱な感じさえする
。それに土曜日というのに静かすぎるのではないか。彼女は少し肩をす
くめ、エレベーターのボタンを押した。分厚い扉が低いうなりをあげて
開いた。
この先何年か住むはずの「わが家」は、非常階段のすぐ横にあった。
真砂は恐る恐る、古びた鉄の扉を開けて中に入った。多少リフォームで
もしてあるのか、想像していたほどひどくはない。実は引っ越す前、近
所の奥さんたちに散々脅かされていたのだ。窓枠がサッシでなく木のま
んまだとか、浴室にシャワーはおろか肝心の湯船がないかもしれない等
々。とにかく、それらが杞憂に終わり彼女は心の底から安堵のため息を
洩らした。
「まぁ、いいんじゃないか?」
夫は真砂の顔を見て、そう言った。
「うん、そうね」
思ったよりは、という台詞を辛うじて飲みこんだ。息子だけがはしゃい
で走り回っている。
大型トラックが到着すると、荷物は引っ越し業者の作業員によって手
際よく運ばれていく。何もかも順調に進んでいた。やっぱり専門の業者
はすることが早い。食器棚には器が整然と並べられ、キッチンはすぐに
でも使えるようになった。他の場所でもそれは同じで、体裁が整えられ
た。自分たちでしなければならない細かいことは別として。
だが夫は少し苛立っていた。真砂にはその理由がわかる。手伝いに来
るはずの、夫の知人たちが未だに現れないからだ。
「村野さんたち、来ないうちに終わっちゃうわね」
真砂はつい、嫌味な台詞を吐いてしまった。こんなことなら最初から断
っておけばよかったものを。夫は聞いているのかいないのか、押し黙っ
て答えようとしない。都合が悪いと決まってこうなるのだ。だから作業
員が帰った後、息子を連れて行き先も告げず玄関から出ていっても、彼
女は逃げたなと思ったくらいで心配はしなかった。むしろ、せいせいし
た気分になった。
しばらくして玄関のチャイムが鳴ったとき、真砂はすぐに出ようとし
なかった。たぶん夫だろう。黙って出たのなら黙って入ってくればいい
のに、と心の中で舌打ちした。夫と顔を合わせるのはなんとなく気まず
かった。再びチャイムが鳴った。片づけ途中のダンボール箱をそのまま
なして、仕方なく玄関に向かう。どんな顔で、なんて言ったらいいのか
。にっこり笑ってお帰りなさい、うまくできるといいけど。
迷いを振り切るように、真砂は勢いよく扉を開けた。蝶番(ちょうつ
がい)がたまらず悲鳴を上げる。吹きこむ冷気を肌に感じた次の瞬間、
彼女は息を呑んだ。
ひとりの男が立っていた。夫だとばかり思いこんでいた真砂は、とま
どいと驚きが入り混じった表情をむき出しにした。それは相手にとって
も同じだったようだ。息詰まるような沈黙が永遠に続くかと思われたが
、
「えっ……?」「あ、あの……」
思いがけずふたり同時に声を上げ、そして口をつぐんだ。見たところ男
の年は彼女と同じくらい、30才前後だろうか。背は夫より少し高く、
黒っぽいジャンパーを着て、ファスナーを襟元まできっちり上げている
。メタルフレームの眼鏡をかけ、その奥には切れ長の疲れた目と下瞼を
縁取るような薄い隈があった。ひげはきれいに剃られていたが、前髪が
中途半端な長さで額にかかっている。そして右手にはデパートの紙袋。
互いに無言で先を譲りあう。真砂はどこの誰とも聞けないまま、決ま
り悪さに目をそらした。脇の下にいやな汗がにじむ。
「もしかして……、真砂?」
男の声は震えていた。真砂の身体に電流が走る。名前を知っているなん
て。恐怖と不信の色をあらわにして思わず男を睨んだ。彼は寂しげな目
で真砂を見ると、軽く首を振って
「昔のことだから忘れても仕方ないか……」
と言った。その台詞に眠っていた記憶が揺さぶられる。警戒心が次第に
薄れ、生まれ変わったような気持ちになって男を見つめ直した。そして
彼の耳が赤みを帯びてくるのに気づいたとき、すべてが脳裏に甦った。
「拓巳(たくみ)君……」
真砂の声はかすれていた。胸の奥が急に締め付けられて息苦しくなる。
拓巳と呼ばれた男は、はにかんだ笑みを見せた。
突然エレベーターの方が騒がしくなった。数人の男の声に混じって、
幼児のきいきい言う声が吹きさらしの廊下にまで響く。
「僕のほうが早くついてたみたいだな。これ、差し入れだから」
拓巳は早口でそう言うと、急いで紙袋を真砂に手渡した。彼女はそれを
受け取ったものの、思いでから抜け出せずにぼんやりとしていた。
「駅で偶然会ったんだよ」
真砂に呼びかける夫の声が彼女を強い力で現在に引き戻した。はっとし
て声のしたほうに目を向けると、息子を抱いた夫と共に3人の男がこち
らに歩いてくる。その中のひとりに太って頭髪の薄い男がいた。村野だ
。今頃になって現れるなんて。他のふたりもどうやら連れらしい。
「奥さん、どうもお久しぶりです。ひととおり終わってしまったそうで
……。いやぁ、出遅れてしまって申し訳ありません」
苦笑いをし、頭を掻きながら村野が言った。
「あ……、わざわざおいでいただいて……」
真砂はそれだけ言うのが精一杯だった。これ以上何か言おうものなら、
自分から心の中をさらけ出してしまいそうな気がした。しかし夫は彼女
が村野を忘れているように見えたらしく、
「ほら、真砂、僕たちの結婚式のときにスピーチしてくれた村野さんだ
よ」
と言った。
「もちろん覚えてるわ」忘れたわけじゃない。
彼女は作り笑いをしながら答えた。
「まぁまぁ、そんなことはどうでもいいですよ。南さんには昔からお世
話になってるんで、また一緒に仕事ができるとは心強いというか有り難
いというか」
村野は満面の笑みをたたえている。しかし真砂にとって、分厚い瞼に押
しつぶされて細くなった彼の目は、どうしても笑っているようには見え
なかった。目つきが悪いから、というような単純な理由ではない。自分
が考えていることの全てを見透かされるようで恐ろしいのだ。それは披
露宴で初めて村野に会ったときから感じていたが、今回は身体が震えな
いように歯を食いしばらなくてはならなかった。どうかばれませんよう
に。
「いやいや、こっちのほうこそよろしくお願いしますよ」
夫の機嫌はすっかり直ったようだ。真砂は自分の怯えに全く気づかない
夫が腹立たしくてならなかった。
「えーっと、妻の真砂です」
夫は彼女を紹介した。
「真砂、こちらが田中さん、鈴木さん……」
視線が拓巳のところでふいに止まった。心臓が喘ぐ。夫は彼を知らない
のだろうか。
「ああ、こいつは僕の大学時代の後輩で隣の課にいる藤原です。差し入
れを買いに行ってもらったんですよ」
村野が口をはさんだ。
「藤原です。よろしくお願いします」
拓巳はそう言うと夫に会釈した。夫も軽く頭を下げると、
「ああ、せっかくいらしたんですからお茶でもいかがですか。なぁ、真
砂」
と言って真砂の顔をまともに見た。
「ええ……、ちらかってますが、どうぞ」
彼女はとっさに笑顔を作ってごまかした。声がうわずってしまったよう
で恥ずかしかった。
「そんな、何にもお手伝いしてないのに」
村野は肉厚な手を振って一応遠慮してみせたが、例の目で3人の意志を
確かめるように一瞥した。
「ほんじゃあ、ご好意に甘えさせていただきます」
村野の一声で話は決まったのだった。
男たちが部屋に上がった後、真砂は玄関の靴をきれいに並べ直すふり
をしてしゃがみこんだ。緊張しすぎたのか少し頭痛がして気分が悪かっ
た。しかしそんなところを誰にも見せるわけにはいかない。夫の話し声
や来客で興奮した息子の声が彼女をせかす。2、3回深呼吸をしてから
、意を決して立ち上がった。そろそろ、お茶をいれる準備をしないと怪
しまれそうだ。振り返るとダイニングキッチンへの入り口に、拓巳が背
を向け、壁に寄りかかるようにして立っていた。胸の奥がまた締め付け
られる。
真砂が拓巳に近寄ったとき、彼は人が来る気配を察したのか無言で道
を開けた。彼女はその脇をすり抜けて中に入った。気を取り直し、シン
クで電気ポットに水を入れ、コードをコンセントに繋いだ。そして食器
棚から来客用の湯呑茶碗、茶たく、自分たちの器、息子のコップなどを
出し、急須に煎茶の葉を入れた。
真砂はふと入ってきたほうに目を向けた。そこにはすでに誰もいない
。彼女は不安に駆られてあたりを見回した。いつの間にか、拓巳は奥の
座敷で鈴木と何か話をしていた。
息子が急に真砂のそばに寄ってきた。夫はというと、田中や村野との
話に夢中になっている。息子は彼女があまり相手になってくれないのが
わかると、何故かその関心を拓巳に向けた。彼のところに行って膝の上
に乗ったり抱きついたりしている。よほど気に入ったのか、夫がやめな
さいとたしなめても言うことを聞かない。拓巳のほうは時折笑みを浮か
べて息子の相手をしてくれている。彼も結婚していて子供がいるのかも
しれない。だが、どうしたわけか真砂の目にはその笑う横顔が悲しげに
映った。
彼らは1時間位いただろうか。扉が閉まったとたん、夫は大きな背伸
びとあくびをし、夕食の心配をし始めた。息子は少し眠たそうに目をこ
すっている。真砂は空気の入れ替えをするからと言って、ベランダに通
じる窓を開けた。
外は意外なほど明るかったが、風は冷たさを増していた。時が日暮れ
に向かって着実に動いているのがわかる。彼女は足元にあったサンダル
を履いて、人ひとりがやっと通れるほどの幅しかないコンクリートの枠
の中に身を置いた。そこからはあまり手入れのよくない花壇と駐車場、
背の低いアパートや古い家々の間を這う灰色の道が見えた。
普段なら見向きもしないような味気ない景色だった。考えてみれば、
前に住んでいた部屋の窓から見えたものとよく似ている。そのとき自分
はどんなふうに感じていたのだろう。つい最近のことなのに全く思い出
せない。それなのに10年以上も昔のことが胸の中で溢れ続けている。
真砂はため息をついた。夢想にふけったところで、それが一体何になる
というのだ。彼女は手すりに寄りかかり、くすんだ風景に再び目を落と
した。
道の上に人影を見つけた。皆、真砂に背を向けている。その中に黒っ
ぽいジャンパーを見たとき、真砂は身動きできなくなった。視界からひ
とり、またひとりと消えてゆく。しかし真砂が見つめていたその人は立
ち止まった。彼は振り返ると真砂のいる建物を仰ぎ見た。そして真砂に
向かって合図でも送るように手を軽く上げた。でも彼女は答えようとし
なかった。同じことをしたい、本当にそう思っているのに、恐れに似た
感情が何をすることも許さなかった。彼は手を下ろすと2,3歩後ずさ
り、そしてきびすを返し足早に去っていった。
セーラー服を着ていたあの日、こんな風に彼を見送った覚えがある。真
砂は血がにじむほど爪を噛んだ。
「おい、もういいだろう。寒いよ」
背後から夫の声がした。感傷が容赦なく引き剥がされる。
「ええ、閉めるわ」
真砂は遠い目をしてそう言った。
つづく