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★タイトル (GSC ) 97/ 5/12 19:20 (129)
わたしのナツメロ物語(9) 竹木貝石
★内容
昭和歌謡年代史 『昭和15年の歌』
ラジオ深夜便で11曲を放送したらしいが、途中から目を覚ましたので、初めの方
は聞いていない。
昭和15年と言えば、私が数え年4歳、満年齢2〜3歳であるから、物心はまだつ
いていない。
ちなみに、何故私が数え年で自分の年齢を書いたりするのかということであるが、
法改正により満年齢で呼ぶようになったのは、第二次大戦後の昭和21年か22年で
あり(史料を調べて正確な年を書くべきところ、ご勘弁願いたい)、それ以前の私の
記憶は全て数え年だからである。
似たようなことで、年数の呼び方についても、私には若干の迷いがある。
今年は、西暦1997年・平成9年・紀元(皇紀)2657年である。
私は紛れもなく日本人だが、性格的・思想的に西洋風の所が多々あって、例えば、
公の会議の持ち方につき、互いの意見は賛否をはっきり主張し合い、とことん議論を
戦わせて、決着がつかない時は多数決で決定するのが一番良いと考えている。この場
合、年寄りも若者も・役員も平社員も対等でよいし、無論経験者の意見は傾聴すると
しても、それに拘束される必要は全くなく、最後は本人の判断で挙手すればよいので
ある。
ところが、一時期このような英米式? 議事形態が採用されていたのに、近年の会
社や学校や役所では、なるべく多数決を取らない方向になってきているようだ。国会
運営においても形の上では多数決制で行っているが、内情は「調整」だの「話し合い」
だの「下準備」などと称して、根回しが十分なされ、議題によっては手を組む政党を
替えてでも法案を成立させてしまう。時にはそれもやむを得ないだろうが、下工作が
あまりに出来すぎているのは考え物である。
目上の人を敬うとか、上司に服従するとか、皇族を尊ぶという思想・心情も私には
少なく、勿論、お年寄りを大切にし、先輩に礼儀を尽くし、豊富な経験に耳を傾け、
歴史や伝統を重んずる気持ちは人に劣らないつもりだが、ただ単に自分よりも位が高
いというだけで信服するのは大きな間違いだと思う。私のような考えを極度に押し進
めていくと、破壊行為や武力革命にもつながりかねないが、逆に、絶対服従を強制し
ていけば、必ず帝国思想や軍国主義に後戻りして行くに相違ない。極端に偏らず、一
定の範囲内で節度を保っていく良識こそ大切ではないだろうか。
言いたいことは色々あるが、本筋から外れるのでこれくらいにし、話を年数の呼び
方に戻す。
昭和15年は、日中戦争のまっただ中、太平洋戦争が始まる前年であり、丁度皇紀
2600年ということで、日本中が祝祭の大騒ぎだったらしく、『紀元二千六百年』
という歌が作られたほどである。
錦糸輝く日本(にっぽん)の
栄えある光 身に受けて
今こそ祝えこの明日(あした)
紀元は二千六百年
アア 一億の胸は鳴る。
私はこの歌の旋律もよく覚えており、数え年三つか四つの時の記憶の一コマがふと
思い浮かぶ。
……それはにぎやかな町なか、遠縁の親類とおぼしい立派な家の二階に、幼い私は
布団を敷いてもらって横になり、誰かよその女の人が子守歌代わりに「錦糸輝く日本
の」と歌ってくれるのを、片言で一生懸命覚えようとしていた。…外では、お祭りの
提灯行列か何かの真っ最中だった。……
人間は歳をとると昔を恋しがり、平凡な思い出話やつまらぬ愚痴を語りたくなるも
のだ。が、人生はその人固有の物であり他に掛け替えが無い。どんな人にも必死で生
きてきた生涯があり、それは二つと同じケースがないだけに、貴く美しい! 私は自
分のことを書きながら、関わりのあった人たちの思い出についても、折りに触れて書
き残しておきたいと考えている。
さて、戦後教育の影響を強く受け、些か西洋かぶれだった私は、年数を言うのに、
昭和とか平成とかの年号をあまり使わず、西暦で呼ぶのを良しとしてきた。理屈は色
々あるが、何よりも『世界に通用する』ことを理想と感じたのであろうか? 軍国主
義を民主主義に、明治憲法を新憲法に、尺貫法をメートル法に、元号を西暦に…とい
う訳である。
ところが、日本語よりも英語、和食よりも洋食、日本の流行歌よりもジャズソング
とはならず、かえって私の趣味はその反対であることに気づいて当惑した。
考えてみると、西暦と言って、イエス キリストの生まれた年を元年とするなどは、
私の宗教心にも理屈にも合わないのであった。それで、長年の方針を変えて、つい先
日から『平成9年』などと、迷わず併用することにした。
とは言っても、さすがに紀元何年というのを使う気にはならない。
私が小学5〜6年生の時に習った歴史の教科書は〈国の歩み〉という本で、戦時中
の〈国史〉の内容を少しは知っている私にとって、なかなか民主的な優れた教科書だ
と思ったものだが、革新的な学者の目から見ると、この〈国の歩み〉でも、まだまだ
封建思想が残っていて芳しくないという評価だったようだ。
子供の時の学習はよく記憶に残るもので、〈国の歩み〉の一節に次のくだりがあっ
た。
「大和の国の畝傍山で、かむやまといわれひこのすめらみことが神武天皇として即位
されました。」
けれども、これは史実かどうか疑わしく、「今年は紀元2657年である」とはい
かにも言いがたい。
さりながら(逆説用の接続詞が何種類在っても、私の下手な文章では足りなくなっ
てしまう)、子供の頃の私は次のように言っていたものだ。
「俺は絶対長生きするぞ! だけど、西暦2000年までは生きられるが紀元
2700年までは無理だろうなあ。」
いったい全体、私は何を書こうとしているのだろうか?
これ以上書き続けると、かの青木無常氏の短編作品『山田三平死す』、「きたん、
ごっとん。きたん、ごっとん。」の話よりも支離滅裂? になってしまうから、この
辺りで本論に戻そう。
私は『ナツメロ物語』を書こうとしているのだ。
徳山環の『隣組』:以下の歌は、当時の日本国民なら誰でも知っていた。国家の方
針により、隣組制度を普及させるための歌だったが、大変明るい曲になっている。
トントン トンカラリと隣組
格子を開ければ顔馴染み
廻してちょうだい回覧板
知らせられたり知らせたり。
霧島昇の『誰か故郷を思わざる』:霧島はやがて藤山一郎と双璧をなすベテラン歌
手となる訳だが、昭和15年当時の若々しい声にはまた別の魅力がある。
灰田勝彦の『森陰の道』:口ごもったような独特の発声法に不思議な魅力があり、
音程の性格さについては前にも述べた通りである。この歌は、ヨーデルというよりも
ハワイアン音楽で、得意のファルセット(裏声)は見事と言う他ない。
灰田勝彦の歌で私が最も好きなのは、『きらめく星座』と『新雪』であり、これは
歌謡曲の歴史において誇りうる名盤である。
田端義夫の『別れ船』:「亡国の歌」とクレームを付けられたそうだが、戦後に大
ヒットした『帰り船』や『通い船』などよりははるかに上品で、このレコードの小節
の切れ味こそ、さすがにプロ歌手である。曲もまた素晴らしくて、シンコペーション
のリズムは、とても57年も前に作曲された歌とは思えない。
伊藤久男の『高原の旅愁』:信濃路を歌った爽やかな歌謡曲で、今なおカラオケの
リクエストが多いらしい。
川田義男とミルクブラザーズの『地球の上に朝が来る』:一世を風靡した浪曲調の
歌謡漫談で、初期のレコードはまだ未熟だが、才能のひらめきがうかがわれる。
上記の歌に対し、放送局に寄せられる聴取者のリクエストや感想の手紙は、70歳
代・80歳代の人たちの物ばかりだが、そんな昔の歌謡曲を私が懐かしく感じるとい
うのも、戦中戦後の寄宿舎暮らしで、上級の年長生(中途失明者)たちがいつも歌っ
ていたからである。
[平成9年5月12日(月) 竹木貝石]