AWC フリー日記 1997年4月分より   /竹木貝石


        
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フリー日記 1997年4月分より   /竹木貝石
★内容

   4月16日(水)

 今日も上天気で、龍泉寺街道まで散歩に行ってきた。

 まず、家の東の道を南へ行き、俗に我々が用水路と呼んでいる古川の橋を渡った。
川幅が3〜4メートルくらいはあるだろうか? この川のほとりは綺麗に整備した散
歩道になっていて、花壇やベンチ・魚釣りをしている少年の銅像がこしらえてあるこ
とは以前の日記にも書いたが、昨日・一昨日と歩いた八ケ村用水路とは全く別の流れ
であるらしい。
 この橋の名前が若年橋だということは今日初めて知ったが、帰りにはこの古川の上
流で幾つかの橋の名称を覚えることになる。

 若年橋を渡ってそのまま進むと突き当たりにお寺があり、そこから左(東)へ曲が
って、『生玉神社』まで歩くことにした。
 水道道を越えて暫く行くと、古川が斜めに二つに別れ、道路も多少斜めに走ってい
るから、正確な方角は分からないが、家からほぼ真東へ歩いたことになる。
 大牧町・西城町を過ぎて、坂を上った所は、先日行った白沢公園の真南に当たると
思われるが、妻の言によれば、白沢町の高台とこちらの高台とは同じではなく、途中
がいったん低い地形になっているとのこと…。

 長い坂道を上って、ようやく生玉神社に着いた。
 正月には時々初詣に来るが、今日は誰もいなくて静かである。
 参拝の前に手を清めた。1メートルかける80センチくらいの長方形の石をくり貫
いて水を張り、中央に2本の竹を渡して、その上に木製や竹製の柄杓がのせてある。
 石段を上り、賽銭を入れてから、今年の2月に作り替えたばかりの新しい鈴を振っ
て、「二拝二拍手一拝」で祈った。

 神社の前から、先ほど歩いて来た道をさらに東へ進むと、程なく小幡町に入り、龍
泉寺街道に出た。この街道を右へ行くと名鉄瀬戸線の小幡駅にぶつかり、左へ行くと
『陸の孤島』と呼ばれる志段味地区を経て、春日井から高蔵寺へ行けるそうだ。
 街道を左(北)へ行き、小幡ケ原のバス停を過ぎて少し進むと、やがて郡道が交わ
る所に『小幡緑地西公園』があった。

 公園は道路より低くなっていて、まず1段下がった所には藤棚やベンチがあり、藤
の花はまだ半月くらい早い模様で、手で触れると、小さい豆の鞘のような袋状になっ
ている。
 芝生の斜面を下りきった所にグランドがあり、水はけがどうかと心配になるが、排
水は問題ないらしい。
 反対側の斜面と石段を上った所は、遊具コーナーを新設するための工事中で、柵と
金網が張ってあった。
 公園の中を一回りして郡道に戻る。
 『郡道』と言うのは正式な呼び名かどうか分からないが、龍泉寺街道(県道)と国
道19号線とを結ぶ道路で、両端とも行き止まりになった一車線の道ながら、利用価
値は高い。

 郡道を西へ歩いて、我が家の方に戻る。
 左側は住宅街、右側は商店街のようで、こんなに色々な店が在っても立ち行くのが
不思議なくらいである。
 途中から郡道を左に逸れ、住宅の間の静かな道を古川まで来た。

 川沿いの道は時々歩いたことがあり、狭いながらも車道と人道が分離されていて、
左の川に落ちないように、鉄棒の手すりがはるか川下まで設置してある。
 手すり際の所々には、腕よりもやや太いくらいの樹木が植えてあり、桜・マテバ椎・
カエデなどの表示がある。
 村前橋、村合橋、前田歯科医のそばを通って水道道まで来ると、水道橋がある。
 丁度水道道を越えた所から、古川が斜め西南へ方向を変え、先ほどの若年橋の方へ
流れて行くので、私たちは道を真っ直ぐ西へ進み、『大永寺南』の交差点を渡って、
家に帰って来た。

 なお、樹木を観察している時に、添木の材木に触ったせいか、右手の薬指の表皮に、
ごく小さなとげが刺さったが、毛抜きで簡単に抜けたので良かった。


 火曜日か水曜日の夕方は、三女が会社から直接高蔵寺のT先生の所へピアノのレッ
スンに行き、お母さんは家から車で迎えに行く。
 今8時半、次女が先に帰宅し、間もなく三女とお母さんも帰って来た。
 三女曰く、
「今日ねえ、会社に同じ名字の人が来てびっくりした! 受領印を押そうとしたら、
わたしの名札を見て、『ア、同じだ』って言ったんだよ! 今までに間違い葉書で見
たことはあったけど、〈なまの竹木さん〉を見たのは初めてだった。」
 とのことで、目下のところ、無事勤務ができているらしい。


 珍しくも、下関のDS君から点字の本を送ってきた。
「この本は、北九州の病院に入院している頚髄障害の人が、口にスティックをくわえ
て、1文字ずつパソコン点訳した物です。どうぞ座右の書としてお読み下さい。」
 と言う手紙が添えてあり、普通文字の説明文には、点訳までに至る詳しい経過が述
べてあった。
 D君は、名古屋盲学校卒業生で随一頭のよい男で、私より3年遅く入学してきたが、
2歳年下の早生まれだから、特別進級により、専攻科ではいつの間にか1年下級まで
追いついてきて、教員養成部時代には同級生になった。
 よい意味の競争相手で、彼は私を見習い、私を追い抜いた。中学生時代、GKさん
に基礎英語の特訓を受けていたが、夏休み中私が朝のラジオ講座を聞けずにいるうち
に、さっさと追い越してしまったし、生徒会活動でも、私がバイト暮らしをしている
間に、彼は生徒たちの人望を集め、見事な統率力を発揮した。音楽とスポーツだけは
私の方が勝っている筈だったが、彼はフルートを習い始めて、その成果はめざましい
ものがあった。教員養成校時代は完全に私が劣性に立たされ、卒業式にはD君が答辞
を読んだ。
 私は札幌へ、D君は下関へ赴任し、11年後に母校に戻った私よりも、生涯を下関
で勤めた彼の方が人気も実績もはるかに上だった。私は勤務に耐えられず1年早く退
職したが、彼はまだ3年あるいはもっと長く勤めを続けることだろう。
 そうすると、いかにも彼が成功者で私が落伍者のように見えるが、実は高血圧と強
度の難聴で彼は苦しんでいるのである。世の中における幸・不幸は一概には決められ
ず、やはり『人生平均論』は正しいのかも知れない。



   4月17日(木)

 ラジオ深夜便の最後のコーナーは、早朝4時過ぎの『人生読本』である。先月まで
『心の時代』と呼んでいた番組と同じ内容で、I君も電話で言っていたように、なか
なか為になる放送が多い。
 今朝は國學院大学名誉教授岡野宏彦氏(文字不明)が語る『実朝の和歌について』
であった。その概要は以下の通りである。

 源頼朝の次男、三代将軍を継ぎながら、28歳で暗殺された不遇の人、傀儡将軍と
して、北条氏の策謀により大切な家臣を次々と奪われ、兄の頼家までも無惨に殺され
てしまった実朝。彼は藤原定家に和歌を学び、その歌は『欣快集』として後生に残っ
た。
 第二次大戦中、私(岡野氏)の心の中に最も強く美しく輝いていた人物は、源実朝
と日本武尊であった。(略)
 戦時中、奇しくも太宰治と小林秀雄が実朝の和歌について評論を書いている。
  箱根路を 我が越え来れば 伊豆の海や
   沖の小島に 波の寄る見ゆ
 この和歌は、古来多くの学者によって「万葉調の見事な情景描写」と評されている
が、小林氏は「実朝の悲しみが悲しい心に伝わってくるのだろうか」と述べており、
これを読んだ時、私はいい知れぬ感動を覚えたものだ。(以下略)


  星野富弘著  四季抄『風の旅』 全一巻  パソコン点訳 三本松克彦
 これは、昨日下関のD君が送ってくれた本で、ファイル綴じになっていて、点字で
片面書きした本文84ページと、表紙・まえがき・目次など8ページを加えた立派な
書物である。
 著者や点訳者が障害を克服・努力している姿、D君の適切なアドバイスは勿論の
事、正確な点字表記による本文・絵の説明文・解説と紹介文のどれもが素晴らしい!
 退職後の私は、毎朝の散歩を日課にしているが、公園や川土手や道ばたの生け垣に
咲いている四季の花々に触れ、妻の説明を聞きながら、全盲者にとって、花の形や美
しさを鑑賞し理解することが、最も難しいのではないかと考える昨今である。
 『風の旅』に描かれている花々や自然の風景や人情の暖かさ、豊かなセンスと優し
さ溢れる文章に、この先限りある人生の一時、ほっと慰められることだろう。







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