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「始発電車殺人事件」 連載第17回 叙 朱 (ジョッシュ)
★内容
「始発電車殺人事件」 連載第17回 叙 朱 (ジョッシュ)
56 中央林間(つづき)
「馬鹿なことをするな。」
江尻は低い声で諫めた。エリコのナイフに力が入る。江尻は仕方なく運転席
に乗り込んだ。エリコは後部座席に乗り込む。
「とにかく車を出してください。」
エリコに言われて、江尻はゆっくりと車を動かしはじめた。首筋のナイフは
エリコの動悸と共に震えていた。本気のようだ。
「どこへ行けば良いんだ。」
江尻は前を向いたまま聞いた。
「海へ行きましょう。このまま車ごと海へ飛び込めば、二人とも死ねます
わ。」
江尻はふーっと溜息をついた。エリコは考え違いをしている。江尻はそう言
いたかったが、とりあえず言いなりになることに決めた。興奮気味のエリコに
は、何を言っても無駄なようだ。
病院の駐車場から出るとき、視界の端にロビーから走り出る背広の男たちが
映った。ここにも警察が来ていたのか。車のアクセルを踏み込みながら江尻の
目は、飛び出した刑事たちが灰色の車に乗り込むところまでを確認していた。
57 長津田
午後四時三十分。
江尻武夫のものらしい車が救急病院から猛スピードで逃走したことは、N署
の柏木警部にもすぐに伝えられた。車は町田街道を南に向かったという。
「倉科エリコがその車にいっしょに乗っている可能性が高いわ。すぐに緊急配
備を敷いて!」
柏木は指示をすると、すぐさまコートをつかみ駆け出した。県警本部から同
行していた刑事巡査が既に車のエンジンをかけて、N署前で待っていた。
58 中央林間
午後四時三十分。
栗原警部補は車に飛び乗り、すぐに江尻武夫の車を追った。江尻の車は駐車
場から右折して、町田街道を南へ向かったようだった。しかし、栗原の車がサ
イレンを鳴らし町田街道に飛び出したときには、もう江尻の白い車は見当たら
なかった。
栗原はアクセルを一杯に踏み込んで、交通量の少ない町田街道を南へ走る。
車はすぐに国道二四六号線との交差点にさしかかった。直進で藤沢から湘南海
岸へ、左折で長津田から多摩川、右折すれば相模川を渡って厚木へと続く。
栗原は迷った。しかし躊躇している時間はない。後続のY署の車に直進を指
示して、栗原は左折した。二四六号線も交通量は少なかった。
N署の要請により、国道二四六号線と町田街道をはじめ、付近の主要幹線で
は神奈川県警の臨時検問が始まった。走行中の車は全て止められ免許証の提示
を求められた。江尻武夫そして倉科エリコの特徴、乗っている車の車種と塗装
色、ナンバープレートの番号などが各検問所に伝達された。
しかし、江尻の白い車発見の報はなかなか入ってこなかった。
59 長津田
午後五時。
神奈川県警N署の取調室では、木村弦一の事情聴取が始まってそろそろ二時
間になろうとしていた。嶋田捜査係長はねばり強く食い下がっているが、決め
手に欠けてじりじりしている。一方の木村も、長引く取り調べにだんだん苛立
ってきていた。
そこへ制服警官がメモを持って入ってきた。嶋田は受け取り、目を落とす。
柏木警部からの箇条書きのメモだった。
なるほど。さすがに捜査主任だな。
思わず島田はつぶやきそうになった。木村は無表情でそんな嶋田を見ている。
嶋田は軽く咳払いをして、木村を正面から見据えた。
「おい、あの山高帽子は河田さんが刺さった包丁を隠すために持ち出した、と
言ったな?」
嶋田が聞いた。木村はうんざりした顔で答える。
「そうだよ。腹に包丁を刺したままで外へ出るわけにはいかないだろう?」
「そうか。しかしそれなら、始発電車に座っていた河田さんが、山高帽子
を頭にかぶっていたのはどういうわけだ?」
その指摘に木村は動揺を示した。口を開きかけたが言葉は出てこない。木村
は俯き黙り込んだ。
60 中央林間
午後五時三十分。
救急病院の二〇四号室のドアが静かにノックされた。中にいた山下玲二が、
どうぞ、と答える。ドアがゆっくりと開いて、背の高い人物が入ってきた。花
束を手に抱えている。
山下はその人物を認めて立ち上がった。
「江尻本部長...。」
それは背広姿の江尻武夫だった。ベッドの上の幸代も、頭だけ動かして江尻
の方を見やる。
「叔父さま、大丈夫ですか?」
江尻は黙って持っていた花束を山下に渡した。山下が礼を言う。幸代がベッ
ドで上半身を起こした。もう点滴瓶は終わっていた。山下から花束を受け取る。
江尻がそんな幸代を見ながら言った。
「私は大丈夫だ。警察が私を捜していることは知っている。いや、私というよ
り、殺人犯の倉科エリコを追いかけているんだろうが。」
江尻は静かな口調だった。山下が椅子を勧めた。江尻はそれを丁重に断り、
代わりに病室の白い壁に寄り掛かるようにして話を続けた。
「エリコは可哀想な女だ。」
江尻は、倉科エリコを会社での呼び方の倉科君ではなく、エリコと呼んだ。
「エリコは今朝、S重工の河田一成を包丁で刺し、昼前に新宿Cホテルで平野
雄一を果物ナイフで刺し、そして、ついさっき私を登山ナイフで殺そうとし
た。」
山下は、江尻をまじまじと見た。幸代も想像を越える江尻の話に言葉が出な
い。江尻は、そんな二人を見比べながら言葉を続けた。
「幸い私はこうして無事だが、他の二人は死んでしまった。ひとりは始発電車
の中で、もうひとりはホテルのバスルームで。そして、エリコは警察に追われ
る身だ。」
山下が口を挟む。
「始発電車で死んだ河田さんについては、木村弦一という容疑者が警察に出頭
したと聞いています。」
山下の言葉に江尻は軽くうなずく。
「ああ、そうだね。でも、包丁で河田氏を刺したのはエリコだ。本人がそう言
っているのだから、間違いない。」
「彼女がなぜ河田氏を?」
山下が聞く。江尻は一瞬目を閉じて、答えた。
「あれは手違いだったようだ。河田一成を刺すつもりはなかったらしい。死ん
だと聞いてエリコは狂乱状態になった。死んだ河田は刺したエリコの実の父親
だったのだ。」
え?、山下は江尻の顔を見直した。話が意外すぎてとっさには理解できない。
河田がエリコの父親だった?
「いったいどういう事なんですか?」
山下は思わず聞く。江尻は遠くを見るような目をして話し始めた。
「もうずいぶん昔の話になる。倉科エリコの母親と河田一成が出会ったのは、
二十五年前だ。その頃、S重工の新入社員だった河田は、銀座の店で働いてい
た倉科の母親と恋に落ちた。倉科エリコの母親はエリコに似て彫りの深い美人
だった。そして倉科の母親はエリコを身籠もった。しかし、エリコの母親は河
田に素性を明かさなかった。いや、明かせなかったんだな。その素性が二人を
引き裂くことになった。」
江尻はそこで話を切った。廊下を靴音が近づいてきたからだ。靴音はしかし、
ドアの向こうを通り過ぎた。江尻は再び続けた。
「エリコの母親は不法就労だったのだ。フィリピンのパスポートは持っていた
が、観光ビザしか持っていなかった。暴力団もからんでいたようだ。そして当
時の暴力団一掃キャンペーンで銀座の店も警察の手入れを受けた。彼女は警察
に保護され、河田の知らないところでフィリピンに強制送還させられたの
だ。」
「エリコの母親はフィリピン人だったのですか。」
山下はエリコの日本人にしては彫りの深い顔を顔を思い浮かべた。そう言え
ば、エリコは自分の家族のことを話したがらなかった。
江尻の話は続く。
「送還された母親は、フィリピンに帰ってエリコを生んだ。フィリピンでは私
生児を認めていない。それでエリコは、母親の兄夫婦の戸籍に入った。そうし
て、エリコ・クラシーナが誕生した。」
「エリコ・クラシーナ?、倉科ではないのですか?」
山下が聞いた。江尻はうなずく。
「倉科という名字はあとから平野がこじつけたものだ。正しくは、クラシーナ
という。母親の兄夫婦の戸籍に入れたので兄夫婦の名字になったんだな。しか
し河田一成は、自分の娘がフィリピンで生まれたという事をまったく知らなか
った。」
「ああ、確かに、河田氏はフィリピンには一度も行ったことはない、と啓介が
言ってました。でもどうして、知らない同士の父と娘が今頃、こんな形で会う
ことになったのでしょう?」
山下が言う。しかし山下の問いには直接答えず、江尻は別のことを聞いた。
「そういえば啓介はどうしたんだ?、こちらにいたはずだが。」
江尻の問いには、幸代が答える。
「啓介さんは、叔父さまを探しに行った警察の人達について行きました。警察
が叔父さまの顔を知らないので、協力を頼まれてました。」
「ああ、なるほど。」江尻は納得した。
「でもまだ、ここまでの話だけでは倉科エリコと河田や平野とのつながりは何
もないですね。」
山下が重ねて聞いた。ああ、と相槌を打って江尻は話を続けた。
「そうだな。この時点ではもちろん平野と河田の面識もないし、河田は自分の
娘がフィリピンにいることも知らない。このまま、人間の糸が絡み合うことが
なければ、今日の事件はひとつも起きなかっただろう。ところが、もうひとつ
の巡り会いが今日の事件の伏線となったのだ。
ちょうどその頃、平野雄一はフィリピンK商会設立の準備でマニラにいたの
だ。そして、駐在員が集まるマニラのダンスクラブで、働きに出たばかりの倉
科エリコの母親と運命的な出会いをした。」
平野がエリコの母親と?、山下は意外な展開に声がでない。江尻は話を続け
る。
「平野は当時二十五歳、真剣に倉科エリコの母親との結婚を考えたらしい。し
かし問題がふたつあった。ひとつは会社の猛反対だ。ダンスクラブの女という
のはどういう意味か分かるか?、客の指名があれば朝までいっしょに客と過ご
すという女たちだ。いくら平野が真剣でも、周囲が反対したのは無理もない。
それからもうひとつの問題はエリコのことだった。エリコもいっしょに面倒を
見て欲しいと母親は懇願したらしい。平野自身はエリコも面倒見るつもりにな
った。が、会社は承知しなかった。とうとう、平野は業務命令で東京に呼び戻
されてしまった。」
「ひどいことをするのね。」
幸代がぽつりと言う。山下の突然の降格帰任を思い出しているのかもしれな
かった。
「別れを告げる平野に倉科の母親は頼み事をした。エリコの父親を捜して欲し
いとね。そこで初めて、平野は河田一成という名前を知ったのだ。そして、私
が平野に代わってマニラ駐在になった。」
61 長津田近辺
午後五時三十分。
栗原警部補は多摩川の手前まで行って、車を切り返した。中央林間の救急病
院を飛び出してからもう一時間になろうとしていた。N署に連絡を入れてみた
が、柏木警部は中央林間に向かったという。
とりあえず、救急病院に戻ってみるか。
栗原はつぶやいた。
62 中央林間
午後六時。
救急病院の二〇四号室で、江尻武夫の話を聞きながら、山下玲二は気になっ
ていた。江尻は倉科エリコに殺されかけた、と言った。しかし江尻はこうして
無事に目の前にいる。ということは、エリコはいったいどうしたのだろう。山
下は悪い予感が黒雲のように広がるのを感じた。
しかし江尻はそんな山下には無頓着に話を続けた。
「エリコの母親は、自分の気持ちに正直な女だった。平野との別れからしばら
くして、彼女はまた別の男と恋に落ちた。日本人だった。しかし今度の恋も実
らなかった。ある日、エリコの母親は絶望のあまりガス自殺した。エリコは三
歳になっていた。」
「ガス自殺?」
幸代が聞く。江尻はうなずいた。
「そうだ、ガス自殺だ。母親はエリコを道連れにしようとした。しかしエリコ
は蘇生した。エリコはその時の記憶があると言っていた。」
「そうか、だから彼女は今朝、私がガス漏れの音を電話で聞かせたときに、あ
んなに慌てたのね。きっと自分の母親の自殺を思い出したんだ。」
悲しげな目をして幸代が言った。
(以下、連載第18回へ続く)