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「始発電車殺人事件」 連載第18回 叙 朱 (ジョッシュ)
★内容
「始発電車殺人事件」 連載第18回 叙 朱 (ジョッシュ)
62 中央林間(つづき)
しかし、山下は幸代とは別のことを連想していた。
「ひょっとして、その恋愛の相手という日本人は、江尻本部長、あなただった
のではないですか?」
山下の問いに江尻は口をつぐんだ。山下は続けた。
「自分の相手が、平野と同じK商会の社員と知って彼女は絶望したのでしょう。
つまり、二人の関係がばれると、平野の時と同じように会社が強制的にあなた
を日本へ帰してしまうと思ったのではないですか?」
「なかなか鋭いな。その通りだ。」
江尻が感心したように言った。山下が聞く。
「そうするとエリコは孤児になってしまったのですか?」
「そうだ。そしてその事を知った平野は足長おじさんになると宣言した。つま
り、エリコをマニラのスラム街の孤児にしないために、日本から生活費を送る
というのだ。」
そう言いながら、神経質そうな江尻の顔がゆがんだ。
「しかし平野から出ているように見えた生活費は、実際には河田一成が工面し
ていた。私は随分あとまでその事に気づかなかった。平野がいつ頃、河田を見
つけだしたのかはよく分からない。しかし、エリコの母親が亡くなったときに
は、既に河田の所在は知っていたようだった。」
江尻はそこで言葉を切った。山下が聞いた。
「でもエリコをなぜ日本に呼ぶことにしたのですか?」
ふむ、と江尻は山下の質問に相槌を打った。
「平野は、K商会の新しい商品ルートの開発を考えていた。そしてS重工のコ
ンピューター分野への参入に興味を持った。S重工のコンピューター計画の責
任者が河田一成だと知ったときに、平野は、エリコと河田の関係を仕事の取引
材料に使えないかと考えたのだ。」
江尻の説明に、山下はエリコに関してのひとつの謎が解けたような気がした。
「孤児のエリコをK商会で正社員として処遇することが、河田への見返りだっ
たのですか。」
山下はそう言いながら、頭の中で素早く江尻の話を整理した。
平野はS重工コンピューターの販売代理権をとるために、河田の隠れた娘エ
リコをK商会で厚遇してみせたのか。それなら平野が身元保証人になってまで
も、エリコをフィリピンから呼び寄せた理由が理解できる。
「その通りだ。どうやら君はその辺の事情に薄々感づいていたようだな。」
江尻が唇をねじ曲げて笑った。山下が応える。
「いいえ、エリコの素性については漠然とした疑問はありましたけれど、それ
以上は全く知りませんでした。今日、啓介から聞いて、やっと自分のアメリカ
からの帰任のいきさつを知ったくらいですから。」
山下は思わず頭をかいていた。突然、幸代がベッドの上から質問した。
「でも、エリコさんが父親の河田さんを包丁で刺したのはなぜでしょう。今の
叔父さまのお話だと、河田さんはエリコさんのことを気にかけていたようだし、
エリコさんも河田さんに助けてもらっていたのだから、悪意を持つとは思えな
いんですけど。」
江尻は幸代をチラリと見た。苦々しい顔になっていた。
「あれは手違いだったのだよ。エリコは平野を刺すつもりだったのだ。平野は
エリコに刺される理由があった。平野は本当に悪党だった。河田が出していた
エリコの生活費を、そのままそっくりはエリコに渡していなかったのだ。」
「どういうことですの?」と幸代が聞く。江尻が続けた。
「平野は河田から預かった生活費の半分を、自分の懐に入れていたのだ。実際
には全額エリコに渡しているような顔をして、河田もエリコも両方騙していた
ことになる。これから先はエリコに直接聞いた話だが、今朝三人は河田の自宅
で顔を会わせた。平野がエリコを連れていったらしい。エリコにとっては初め
ての父親との対面だった。ところが平野の悪さがそこでばれてしまった。逆上
したエリコが平野を刺そうとした。そこで手違いが起きた。エリコを止めに入
った河田を代わりに刺してしまったのだ。」
「かわいそうに。初めて会えた自分の父親を間違って刺してしまうなんて。」
幸代がつぶやく。山下も同感だった。エリコは河田が死んでしまったことを
知ってどう思っただろう。いや、河田の死が、平野への殺意をかき立てたのか。
そして、エリコは平野も殺してしまった。
「エリコは本当にかわいそうな女だったんだよ。」
幸代の思いを察してか、江尻がそうつぶやいた。江尻の話が一段落したとこ
ろで、山下が口を開いた。
「江尻さんは、先ほど、エリコに殺されそうになったといいましたね。でもあ
なたはこうして生きている。すると、エリコはいったいどうしたんですか?」
幸代もはっとなった。たしか、江尻はエリコに登山ナイフで殺されそうにな
ったと言った。まさか...。
「エリコはここにはもういない。」
江尻はそれだけ言うと、口をつぐんだ。エリコはもうここにはいない?、江
尻の短い答えは、山下の不安をかき立てる。江尻はエリコをどうしたというん
だ。
かたん。
小さな音がして病室のドアが開いた。明るい色の服を着た女がつかつかと入
ってくる。山下が振り向いて、あっ、という顔をした。
神奈川県警の柏木警部だった。
「江尻さん、本当の話をしましょうよ。」
柏木は入ってくるなり、そう言った。江尻が女の方へ振り向いた。
「神奈川県警の柏木です。」
柏木は江尻に軽く会釈をした。江尻も、どうも、と会釈を返す。柏木は幸代
にも、もう大丈夫ですか、と声をかけた。幸代は、はい、と小さな声で答える。
柏木は幸代の返事にうなずいた。江尻に話しかける。
「江尻さんの先ほどの説明では、倉科エリコが江尻さんの命をねらう理由が見
当たりませんね。でも、実際に倉科は江尻さんをつけねらい、殺そうとした。
なぜでしょう?」
江尻はまた唇を歪めて笑った。
「エリコは、私も平野の悪事の仲間だと思ったのでしょう。それにもう自棄に
なって、二人殺すも三人殺すも大して違わないと思ったんじゃあないです
か?」
「江尻さん、勘違いしないでくださいね。倉科エリコは、ひとりも殺していま
せんよ。」
柏木の意外な言葉に、部屋にいた三人全員がえっと驚いた。柏木は一枚の紙
を江尻に差し出した。
「それは、新宿Cホテルで死んでいた平野雄一の解剖所見です。よく読んでみ
てください。特に死因の欄に注目してください。」
江尻は紙を受け取り読み出した。すぐに、うう、と唸りそしてつぶやいた。
「くも膜下出血?」
「そうです。死因はくも膜下出血でした。平野雄一は、今朝、首都高速で自損
事故を起こしています。頭を打ったのでしょうね。診察も受けずにホテルに戻
った平野は、熱いシャワーを浴びている内に意識不明になり、そのまま死んで
しまったのです。」
柏木の説明に江尻が食い下がる。
「しかし、平野の背中には果物ナイフが刺さっていたはずだ。」
「そうです。でも江尻さん、警視庁が発表もしていない凶器の種類までよくご
存じですね。」
江尻が、うっと詰まる。柏木がにこりとした。
「倉科エリコから聞いたのですか?、まあ、いいでしょう。ナイフの柄の指紋
は倉科の部屋から採取した指紋と一致しましたから、ナイフを刺したのは倉科
だったのでしょう。ただ、彼女が刺したときには既に平野は死んでいたのです。
ですから、倉科は平野の死体にナイフを突き刺したということですね。これで
は殺人罪は成立しません。この場合の罪名は...。」
「死体損壊罪です。」
病室の入り口の方から声がした。開いたドアの向こうに銀縁眼鏡の若い男が
立っている。警視庁の栗原警部補だった。柏木に向かって言う。
「現場を見た警視庁S署の捜査員も、女ひとりでああも見事に大の男を殺せる
のかと疑問を持ったようでした。平野に抵抗の跡が全く見えませんでしたから
ね。」
柏木は、江尻を見やりながらうなずいた。
「さて、次は河田一成ですが、あれは確かに包丁による刺殺でした。ただ、河
田が死んでしまうような深手を負った状態でなぜ電車に乗っていたのか、謎で
した。」
柏木の言葉に栗原が、そうですね、と相槌を打つ。柏木が続ける。
「でもそれは、河田の傷が実際にはすぐ命に関わるような致命傷ではなかった、
という仮定に立てば理解できるのです。」
「だけど、実際に河田は死んでしまっている。」
江尻が言葉をはさんだ。柏木は、そうですね、と江尻の言葉を受け流して、
先を続けた。
「河田を刺したのは、江尻さんの言うとおり、倉科だったのでしょう。つまり、
フィリピン生まれの実の娘に河田は刺されたわけですね。しかし傷は深くなか
った。手当すれば何とかなると河田は考え、木村弦一を呼びつけた。
包丁が腹に刺さったまま普通の病院へ行けば、病院はまず間違いなく警察に
通報します。それでは、せっかく会えた倉科が犯罪人になってしまう。毎月、
多額の生活費を送っていた事からも、河田の娘を思う気持ちは察しがつきます。
そこで、木村に知り合いの医者のところまで運んでもらおうと思ったのでしょ
う。河田は腹に包丁を刺された状態で、よくそこまで考えたものです。」
「だけど、どうして河田は電車に乗ったのでしょうか。」
栗原がずっと解けなかった疑問を口にした。柏木の表情が厳しくなる。
「河田に呼び出された木村は新聞配達の途中だった。中央林間駅だけの配達が
残っていた。そこで河田をトラックに乗せて中央林間駅に向かった。そしてそ
こで何かが起きた。」
ここで、柏木は山下を見た。
「山下さんは、今朝の始発電車の中で河田を見かけたときに、奇妙だと思った
とおっしゃいましたよね。」
柏木に言われて、山下は河田の異様な風体を思い起こした。
「ああ、確かに奇妙だった。十一月にしては珍しい厚手の外套を着て、しかも
山高帽子を頭にかぶっていたんだ。それに少し震えていた。風邪でも引いてい
るのかなと思ったぐらいだ。」
柏木は山下の説明に満足そうにうなずいた。
「河田は止血のために、包丁のまわりをタオルでぐるぐる巻きにしていました。
外套はその血塗れのタオルを隠すために、河田が着込んだのです。でも、突き
刺さった包丁は外套から飛び出して目立ってしまいます。そこで、山高帽子を
かぶせて包丁を、外から見えないようにしたのです。」
柏木の説明に、山下はうなずいた。
「なるほど、あの山高帽子が包丁隠しの道具だったとはな。」
「このことから、ふたつのことが分かります。ひとつは、包丁がそれほど深く
は刺さっていなかったということです。外套で隠しきれずに山高帽子で隠すほ
ど柄が外に出ていたのですから。」
柏木が、再び山下を見る。
「ところが、山下さんが電車の中で見たときに、河田は山高帽子を頭にかぶっ
ていた。そうすると、帽子がないのですから、包丁の柄が外套の間から見えた
はずですね。山下さん、包丁に気づきました?」
いや、と首を振り、山下は口を開きかけた。しかし、山下が喋り出す前に、
栗原が叫んでいた。
「そうか。電車に乗り込んだときには、外套に隠れるくらいに包丁は河田の腹
部に食い込んでいたんだ。だから山下さんには包丁が見えなかった。」
柏木は栗原を振り向いて、にこりと笑った。
「そう、河田の浅かった包丁の傷は、電車に乗ったときには致命傷になってい
た。誰かが、包丁を押し込んで致命傷にしたのね。
つい先ほど、木村弦一が犯行を自供したわ。河田を荷物台車で運んだこともね。
動機は河田の妻、道江への横恋慕。」
「ということは、エリコは殺人犯ではないということか。」
江尻が頭を振りながら言った。柏木が応える。
「いいえ、倉科は明らかな殺意を持っていたのです。河田一成、平野雄一、そ
して江尻さん、あなたに対してです。あなたはその理由をよく知っているはず
です。」
柏木が江尻を見据えた。
(以下、連載第19回へ続く)